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「ご飯は私を裏切らない」を読んだ
ネットでレビューを見かけたので拝読しましたが、これはなかなか良い。自分も20代半ばはまだバイトで暮らして、先のない人生に投げやりでした。路上で昼飯を食う、なんてのもやったなあ…。先のなさを先延ばしにしていまのういいっじょじょじょじょじょはわわわしい;う。20年経つ。
作者をキャラクターに投影させて、好き勝手なことを代弁させるパターン、漫画の面白みの一つだとも思います。自伝?ドキュメンタリ?エッセイ?ルポタージュ?絵日記?吉田戦車だって子育てを漫画にするし、なんなら西原理恵子は子育てが代表作になった。絵日記か。漫画には魔法があり、人生って人生なので、どこを切り取っても絵になる。作者の日々派遣バイトで勤労してい(る|た)というのは事実だろうなぁ。切り取り方がFPSだ。
ではご飯は裏切らないというのは事実だろうか。これは事実だ。安売りしているくそまずい刺身とか具材が何もないレトルトのハヤシライスに裏切られたことはある。でもご飯には裏切られなかった。賞味期限切れたお肉とかヨーグルトで後悔したこともある。でもご飯には裏切られなかった。「ご飯」と言いくるめることで、食う金がある時間がある家がある許されている。実感。獲物を得ねば飢えて死ぬような時代から、ご飯システムに収まる心地よさを求めているんじゃないかな。「空気は私を裏切らない」だったらどうした大丈夫かってなるよね。ご飯じゃなきゃダメなんだ。ご飯から連想されるもの、記憶に残っているそのすべてじゃないと。少々つらい思いも含めたとしても、ご飯じゃなくてはダメなのです。
自分はご飯とあまりに仲睦まじい感じになりすぎてこんな体型になった。それはそれ、手前の不始末で話を収めて、今後もご飯と寄り添っていければ、人生もギリギリ大丈夫だと思えるんでないかな。
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ざっき
dancyuを懲りずに読んでいたら、大竹聡という名前を見かけた。おや?この御仁は確か、T倶楽部の酒飲み企画に何度か登場していた人ではないのか。焼酎お湯割りに合う梅干しはどれか、みたいな企画。これは個人的に傑作だと思う企画だ。大竹氏が企画する「酒とつまみ」という…冊子…?は自分も読んだことがある。Amazonでも売っていた。
んで、梅干しを買ってきた。夏には、衛生面を懸念して自作のお弁当を職場に持っていかない。自分の弁当にはほとんどご飯は入れない。でも、お弁当と言えばご飯に梅干しがちょこんと。これが伝統的な設えで、母親の弁当にもコンビニの弁当にも梅干しは入っているもんだ。ご飯の雑菌を抑えるとかなんとかいわれがあるけど、実際のところは、昔ながらの強烈な塩と酸味が効いたような梅干しじゃないと衛生面での効果は期待できないらしい。スーパーの店頭においてあるのは、減塩だとかハチミツだとかで、いかにも効果がなさそうだ。自分で漬けるなんてのもなあ…そんなわけで、梅干し作戦を実践したことはない。では今回スーパーで買ってきた物はどうするのか、そらあ冷房効いた部屋で麦茶のつまみでモニュっと一つつまんで食べてみるとうますっぺえという、
塩梅で。
みそ汁のだしっていつもの粉のやつをファーって振りまいて終わりだったんだけど、かつおぶしで出汁を取るのに挑戦。挑戦もなにも、湯がく程度のことなんだけど。本格的にはちゃんと漉したりするらしいんだけど、自分は面倒なので穴あきのお玉で掬って、八割程度は鍋のかつおぶしを回収したかな、ぐらいで妥協。あとはいつも通りに、具材入れて火が通ったら味噌。特に美味いとも不味いとも思わない、試しがいのない結果になった。
じゃあ、いりこだしにもトライしよう。カーチャンの作るみそ汁は、にぼしが入っていた。カルシウムとらせようという母のこだわりだったのかな?と思いながら料理サイトで調べると、どうも「みそ汁はいりこだし」という風潮があるらしい。今までずうっと、先に挙げた顆粒のファーで満足してきたんだけどな。昆布とかつおの二択も適当に選んで使っていた。こちらはかつおぶしに比べて試しがいのありそうな予感がある。ネット調べで前の晩から水につけておくと良い、と書いてあったので、ボールに水、いりこを適当にどぼっと、冷蔵庫へ。これが流石に多すぎたようだ。翌朝、いりこを入れたままに鍋に移して着火、あとは具材を入れて火が通り次第味噌。これはこれは、確かに別の味わいだけど、頭もワタも取らないままでいりこを沢山入れすぎて、少々苦い。いりこを食べてみるも、身もあまりおいしくないぞ?次は頭は取ってみよう。
おさかなグリルが折角あるものの、掃除や準備が面倒に思えて、焼き魚が大好きな割にはあまり使ってない。週に一回もない。アルミホイル敷いて焼いてるから、かなり掃除の手間は軽くなっている筈と思っているんだが、そもそも面倒だったら、ホッケの干物だって鰤の切り身だってフライパンで焼けるもんな。逆に、おさかなグリルで焼くの、別に魚じゃなくても良いよね、とばかりに鶏のモモ肉焼いたらそこそこ美味しかった。アスパラガスなんかも良い感じ~。使えるものは使わないと、とはいえやっぱり、アルミホイルは事実上の使い捨て、掃除とのバーターとはいえ面倒でもったいないし、ホイル外すとき結局汁をそこらにこぼしたりするし。足の甲にサバの油こぼしたことありますか皆さん。
そこでグラタンとか焼いたりするような、オーブンに突っ込むような皿は使えないかと思ってしらべてみると、そのものズバリ(昭和)さかなグリルに入れて使う調理皿があった。なるほどねえ。小ぶりなの一個お買い上げ。グリル用途ならずとも、例えば作ったものの冷蔵庫ストックとしても便利そうなサイズ感。気を払うべきはこいつは落としたら割れるということ。割れ物なしの気軽さに甘えて数年、器を流しに投げ込んでガロロン!音を立てるもいとをかし、そんなことやってる自分がこのシャレオツ皿を無事に扱えるだろうか。ううう精神の不安を覚える梅干し食べよう。
すごく見たかった映画がAmazonプライムビデオにあって、喜んでみようとしたらお住まいの地域では見れませんという。たまにある「おま国」状態。ちぇ。プライム無料枠じゃなくて有料でも見たい作品だったんだけどね。見れないんじゃ無料も有料もない。
頭を取ったいりこだしの味噌汁も美味しくはなかった。あれまあ。もっと減らすのかな。
遠きかな 出汁の塩梅 つゆ知らず
残暑の一日でございました。
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ケイコとヨシエ
自分はまだ、子供の頃に見た記憶がある。三味線しょって大声張り上げてやいのやいの、にぎやかで大変楽しかったもんだ。その当時だって、元気な婆さんという印象だった。長生きしたもんだわ。内海芳江が亡くなったのは1997年だというが、そんな前だったのねえ。いやーげんきだ。
しかしね、不謹慎ながら誰の目にももうそろそろ、という大往生でありますから、驚きもなく、しみじみとするばかりで…。世間の注目はもちろん、ナイツに集まるわけです。どんな芸能人も弄ってきた漫才で、師匠が身罷ってさあ、どう弄るだろうか。あるいは弄らないだろうか。
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「華氏119」を観た
それは自由が燃える温度。という格好いいコピーだったのは「華氏911」のほう。元ネタはもちろん「華氏451」そっちは氏の代表作って扱いらしいよ?では本作、119はどうだろか。
ネット上の多くのレビューで、「この作品も主観的な表現に過ぎないけども」といったような前置きというか、但し書きというような記述がある。ドキュメンタリーの業なのかもしれないけど、ドラマティックに仕立んがためか、主義主張への色付けのためか、普遍的に見せようとして帰ってバランスが怪しいようなもの、ありそう。実際に「XXXという作品がそうだ!」と言い切れるような考察は持ち合わせていないけど、熱意がそういう転がり方をすることは、じんせいにままあるだろう。ほら、個人でブログを書いているような奴もあぶない。
作者の意図したことかは知らないが、強烈に印象に残っている場面がある。教師が待遇の改善を求めて、禁じられているストライキを始めた、というトピック。やがてトピックは学校のもう一人の主人公である生徒と、アメリカの主演俳優である銃の問題に変わっていく。作者は活動を主体的に進めている生徒の団体に対面し、君らのような子供を育てることを誇りに思うと告げる。生徒のにこやかな答えはこうだ。
「違うの。SNSが育てたの。私の携帯が」
時代がそうだ、と言えばそれまでだろうけど、SNSも携帯もどれだけトリートメントされているものかと考えるに、ちょっと怖くないか。そこはあちらの国には、自分が知りうるSNS以前の社会のモラルや、なんなら意見をぶつけるお作法みたいなものがあるんだと思う。自分だって2007年からSNSになじんだweb2.0マンのつもりではいるし、インターネットすばらしいとか言って拾ってくるトピックの多くが”洋物”だ。それでも、SNSという概念の土台でもある社会が違っているなあと感じることがある。そこで育った人たちなんだと。ネットを繋いでなおさらに遠い。指をくわえてみてらんないんだけどね。
などと、思ってしまうことがまた思う壺なんではないか?こいつらは世の中を変えるヒーローじみた快感に酔ってないか?マイケルムーアが取材に来たぞ!なんて喜ばしく思ってないか。どこかで大人に使われているのだろう。なんて。そうなってしまった時に「まさか」ではなく「やっぱりね」と思える。どうしても距離を置いたふうにふるまってしまう…。
いつまでナチスを引き合いに出してんだよと思う。トランプと同じく一応は真っ当な選挙で選ばれたからか?ただ、いつでも自分の住んでいるところで起こりうるという、普遍的で本質的な教えが、教えが、教えが、教えが、まったくピンとこねえのよ。なんでかなって、エンディングテーマ曲のついたスタッフロールで我に返る。あ、そうだった、これただの映画だった。はっきりゴールドマンサックスと言っているナレーションに「証券会社」と字幕がつく、ただの映画だったわ。どこからどう見てもアメリカの話だった。黒人に中指立てたのも白人のやったことだろう。知るかぼけ。
大統領だって銃乱射した人間だってSNSで育つわ。
どーにも。
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戦没者追悼式のYouTube配信
こういうのも、昨今のコロナウイルス騒動の賜物なんだろうか。技術的には何年も前から可能だったことが、このご時世で必要に迫られて導入されている事案の一つかと思う。今年は土曜日だったこともあり、眺めてみるにはちょうど良かった。将棋の名人戦もあったからなおのこと。
厚生労働省が配信していた。もう一つ、ThePageというところも配信していたが、これはなんか新手のネットメディアだろうか?厚生労働省のほうは若干のディレイをかけていたが、ThePageのほうはリアルタイムだったように思う。何かアクシデントの時に配信されないようにしたのだろうと推測。式典の開始は11:50頃で、正午に黙祷。首相、衆議院議長、最高裁判所長官という三権分立を意識した挨拶…というか式辞があり、また遺族の代表からも式辞。あとは献花が粛々と続いた。
12:30ぐらいの時点で、上記どちらも2000から3000人ぐらいが視聴していた。だらしない格好で冷房効いた部屋から飯食いながらの拝聴で、敬虔な気持ちにはならなかったけれども、祖父母は全員戦禍を経験している世代。戦後50年なんて報道が盛んにされていた記憶もあるうちに、もう75年が経った。今後徐々に、縮小していくんだろうなー。