• どくしょかんそうぶん

    「図書準備室」を読んだ

    「苦役列車」のエントリでも触れましたが、文学ってどこが面白いんだっけ?というおももちのままに本作を拝読。「図書準備室」のほかに「冷たい水の羊」という作品も同梱されておりました。

    「苦役列車」のエントリの続き的な感じですが、よくわからなくなってきた。だからわかりたいのだ!という事でもないように思う。壁にはっつけられた絵画や、奇をてらってないアートなんかをまじまじと眺めるように、たとえそんなに興味がわかなくとも、落ち着いてその傍らに佇む。ウケた受けた印象を味わってみる。そういう態度で臨むのが大人の所作であるみたいに、ツウ気取りの愉悦であるみたいに、「いや、ま、読んではみましたが。どうにも自分には、わはは」と答えたいがためにわざと音を立ててページをめくってみる。あ、電子書籍版でした。わはは。

    どちらの作品も青春が主人公である。名前はまだない。いやあった。覚えてはいない。片方は包丁で自害を試みようとする話で、片方は包丁で殺害を企てる話…あれ?同じ作品だったっけ?どっちの作品にもケツに棒を突っ込んだとか鶏に睾丸をつつかせたみたいな話があって、あれ、同じ作品だったっけ…。これネタで言っているのではなくて、読み終えてから二週間ほどでこんな有様だ。

    どちらの作品もちゃんと読んだ。一字一句飛ばさずに読んだ。ほんまやで。でも何というか、タイプして残すほどの感想にならんのだよなあ。これは何だろうね。つまらなかったとか退屈だったとか、そんなのだったら、そのまま書けばいい。難しくてわからんのだったら、そう書けばいい。これはわたくしの見栄なのかね、やっぱり。読んだけどよくわかりませんでした、とは書きたくないのか。言葉にできない感情に打ちひしがれてさまよい、トンネルを抜け前頭葉の底が白くなったのか。もう、わたくしもお年を召しまして、自分でわかってないんだろう。耄碌。まさにモーロク。大破。玉砕であります。もう文学というコンテンツのお客様ではないのだ。

    …ほんとかな?わからん。何もわからん。( ・´ー・`)ドヤァ

    しかしこれは当然ながら、文学なんて狭いカテゴーリの話に留まるわけがない。なんでもかんでも「自分には合わないねえ」などと言って背を向けるような事になりかねない。幸い、インターネットは広い。人間も多様であって、文明も健在。回転すしぐらいの頻度で教養もエンタメもやってくる。好きなネタにばかり手が伸びること当然だけど、たまには文学もいってみるか、ぐらいの感じでやっていきましょう。…。

    …。折角なので文学とやらを寿司ネタに例えたかったんだけど、なかなかうまいこと言えない。生タコかなあ。かみ砕くのも飲み込むのも一苦労ですが、XXXXXXがあります、とかXXXXXXXもあります、みたいにまとめたい。まとめたいってなんだよ。

  • どくしょかんそうぶん

    「苦役列車」を読んだ

    たまには文学作品読もう部。著者の西村賢太は時折テレビなんかにも出ていた気がするが、既に身罷ってしまった。

    怠惰で小賢しく卑しい人物の愚痴がずっと続いている様子で、漫画や文学ではこーいうひと居ますねえって。現実にもそら居るだろうけど、あまり進んでお近づきにはなりたく無いタイプといいますか。怠惰ならわたくしも負けておらんのですが、彼ほど捻くれたままで生きてはいないと信じたい。

    作中、10代後半の主人公の生活から、突如40代となった主人公の生活に場面が映る。以降の場面はもはや著者自身の述懐みたいなものなんだろうか。

    あとがきというか解説は石原慎太郎だった。その冒頭には以下のようにある。

    小説の魅力の大方は描かれている主題、人物の非日常性、非通常性にあるともいえる。

    そうなのであれば、小説というものが数多あるなかで、一様に非日常を制作しているんだろうか。そりゃあ「実際のお知り合い」には居ないのに「漫画や文学では良くいる人」ばかり登場する事になるような。しかしファンはそれこそが読みたかったと目尻を緩ませ、人間とはこれのことよと喝采する。ファンだ。文学ファンだ!ちゃわうぉっしゃー!しかし非日常にも限りがあり、作品たればなおのこと、書き手がプロならなおのこと、もろもろまとめて納得感のある筋書きにする必要があるんだろう。

    ただ、作品だから濃縮されて描かれていると言えばいいんだろうか。例えば捻くれて友人にとげのある言葉を吐いてしまった、これは普通の人でもあるあるじゃないですか。作中の場面にも実際に登場するが、現実世界でもそんなことを(し||され)た人だって多かろう。わたくしは無いですよ、大学を出ておりますから。酒も飲まねえわ。いやちょっとだけありましたが、作中ほど下品ではありませんでしたよ、大学を出ておりますから。中卒の文学かぶれなどと非日常に喝采するような人のいうことなんぞ、

    「冗談が通じない人たち」という非日常の親戚がこちらを覗き込んでおりますのでここらで扉を閉じておきますが。小説やあるいは映像作品・漫画などの類も、そういうスジがあってこそ読み手の感銘や面白さに繋がっていく仕組みなんでしょう。

    でも、文学の面白さってなんだっけ?グルメと同じで、面白い(美味い)と実際思ったんだからそれ以上語る事もなくておkという立場ではあります。前述の石原の言葉にも、大方はという前置きがついてはいるものの「描かれている主題、人物の非日常性、非通常性にあるともいえる。」だそうだ。「ともいえる」?処方箋じゃねえんだから「この本を読むと〇〇という見識がたかまります」とか「感動のあまり二日ほどの余韻に浸ります」とか「ちゃわうぉっしゃ」とか効能が添えられるものではない。しかしね、文学のみならず、ドキュメント、日記、SNSといった山ほどのStringが、そして同じような速度・粒度の感覚と共に映像と音声が放流されるようになった今、文章を再発明せねばならんのです!!

    はぁ。

    で。その石原がぶつくさ文句を言って選考に加わった芥川賞を受賞し、当人の言葉によればその石原の文句を知らずして「もらっといてやる」との言葉を残したのが、田中慎弥という小説家でありました。なんかその授賞式の様子を見た記憶もある。映像で見た。氏のwikipediaを読んだら非通常だったので興味をそそられた。読んどいてやるか。この受賞にしても、もう1n年も前なんだな。