• ふでのゆくまま

    199-200

    コンビニに於いてある漫画をたまに買う。あの分厚いの。聞いたこともない作者の知らない作品など読んでみるのも面白い。酒なんぞ飲みながら。で、当然のこと、売れ筋の新刊なども並んでいて、自分もコンビニで売ってそうなものはここで買う。Amazonで買ってコンビニ受け取りは手間なだけだと気付いた。そらそうだろ阿呆。闇金ウシジマ君と刃牙道が最近のチェック対象だ。

    するとこち亀の199巻を見かける。いよいよ200巻か。

    こち亀はうちの両親でも知っている漫画だけども、自分が小学生のころとは作風にだいぶ違いがあるようだ。交番に訪ねてきた人を追い返して「東京はお前のような百姓が来るところじゃねえ」「新潟で米でも食ってろ」などという姿はもう見れない。惜しいと言えば良いのか何といえば良いのか…。

    ググってみるとまあこんな感じだ

    どこか落語っぽい。舞台が東京下町だからだろうか、作風によるものだろうか。お決まりの役回りの登場人物。欲にかられて下手をうつ、人情に篤い、腕っぷしは強い。立川談志は落語を「人間の業の肯定」だとしたらしい。規範や公徳心だけではわたっていけない世の中の、人の世であるが故に、揺れ動いていく。あいつ今何時で?なんつってお足をごまかしやがった→俺もやってみようみたいな、しょうもない人々。こち亀もそういう世界をどこかに匂わせる。下町の交番の警官という設定も、規範と人情の境目にあるようで実に良い。ま、またいつか読める日が来るだろうか。

    書いてて思い出した。こち亀の登場人物そのままで舞台を江戸にしたものを読んだ事がある。絵柄が作者の其のままだったと記憶している。ジャンプに連載されたものだろうか、単行本の企画モノだろうか。実に違和感のない作品だったと思う。

    落語のなんかの噺、そのままこち亀で漫画化できるんじゃないか。時そばだったら、屋台を引くのは日暮あたりか。お釣りをかすめようとするのは両津だろう。根問いだったらやはり大原部長に、両津が問いかけるんだろう。うーん、ダメだ、大原部長がやかましい!ってキセルを投げつける姿が想像できる。小銭やるから帰れ!とも言わないだろう。時折挟まれる、交番内での会話形式で表現される時事ネタは、まさに枕の部分か。

    酢豆腐はどうだ。きざな若旦那。はてはて。脇役に居るかな。うーん。上流階級っぽいの。中川はイメージ合わないなあ。このイメージが合わない、という感想もきっと199巻までの歩みあればこそ、200巻が発売の折には

  • ふでのゆくまま

    木を見て材木屋の壁を見ず

    中野駅前の景色はなんというか、如何にも大規模な開発をしました然とした変化を遂げた。…住んでるわけでも足繁く通うわけでもないのだが、中央線の車中から見渡せるので自然、そう感じることになるのは沿線お住いの皆様ならばそうでしょう。あの材木屋がなくなってしまった。そう、あの。あのマイケルのイラストが塀に書いてあったあれ。しかしながらイラストの描かれた壁自体は今のところ存続している。

    中野駅北口のマイケルは、むかしググった情報だとイラストレーターかなにか、ああいった絵をかくのを生業とされている方が持ち主の許可を得て描いているとのことだった、と記憶している。マイケル・ジャクソンになったのは彼が亡くなってそんな時間が経たないうちだったと思う。その前は確かジェームスブラウンで、その前は何かこう、歌舞伎役者風の人物が描かれていた。それ以前は目撃した記憶がない。ググった情報だともう少し作品があったらしい。

    自分はどちらかというと「やまとしうるはし」なんつう意匠のほうが好きなタイプであるけど、ああいうポップなのも好きだ。ただ、やっぱりというか、都市部のごみごみした風景に良く似合うとしたもんだろう。JR渋谷駅と井之頭線渋谷駅をつなぐ通路にある、岡本太郎の壁画。あれが片田舎の駅前にあってもな、と思ってしまう。まあ自分が知る片田舎の駅前のサンプルなど極々すくないものなんだけども…。だけども、もしあれが雨ざらしになって良く分からない場所にある風景もまたロックなんじゃないかと思う。

    もし自分がゲームデザイナーなら、ここ数年流行の世界ぶっ壊れ世界で生き残るとか銃撃戦とかのFPSゲームにああいうものの残骸を出してみたいなー。猿の惑星のオチとは違ってこう。しれっと風景のオブジェクトにまじっているようなの。あゝ朽ちてゆく美しさよ、中野のマイケルはどうなるのか。まあどうにもなるまい。塀が崩れた時、持ち主が変わるときがそのオシマイだろうなあ。

  • えさのじかんだ

    いかにんじん味のポテチが

    烏賊と人参であります!あ、正確にはスルメか?

    どなたにも、出身地では広く流通しているものがその地域限定のものだと知らなかったということは経験があるかと思う。福島においては酪王のカフェオレがそうである。「いちえふ」にもローカル名品のくだりで酪王のカフェオレが出てきた。このいかにんじんもそうなんですってよ、福島のみなさん。

    酪王のカフェオレはそのまんま、酪王乳業という福島の企業が生産しているカフェオレだけども、これは福島県内で広く見受けられる。セブンイレブンなどにもどっさりと置いてあるものだから、福島県民はローカルな商品だということを知らない。まだ知らない人もいっぱいいるので福島に親戚知人などおる方は聞いてみるとよろしい。かくいう自分も知ったのはそんな昔ではない。あまりコーヒー牛乳飲まないから気付きもしなかったんだけども。

    いかにんじんとは。烏賊と(スルメかもしれない)細切りにした人参を醤油で漬けたもので、烏賊のクニクニした歯ごたえと人参のポリポリした歯ごたえが面白い食べ物である…というのを子供の頃の記憶を頼りに書いている。帰省した折に酪王のカフェオレを飲むことはあってもいかにんじん食う機会はなかったものな。

    発売元のカルビーの偉い人が福島出身なんですってよ。酪王のカフェオレに手を出さなかったのは既にお土産として酪王カフェオレ味のスティックパイがあるからに相違ない。まあ、「いかにんじん味」のインパクトには劣るよねって話。

    詳細はこちら~

    http://www.calbee.co.jp/newsrelease/160428.php

    ついでで申し訳ないけど酪王はこちら。

    https://www.rakuou-milk.co.jp/syohin/nyuinryo.html

  • ふでのゆくまま

    大國魂神社へ行ってきた

    https://www.ookunitamajinja.or.jp/

    行ってきたといっても毎度のただ訪れてみた、というばかりのお散歩であります。
    地図など表示しながら追って頂けると臨場感でます。効果には個人差があります。

    電車を乗り継ぎ、「是政」という駅で降りる。小さな駅だ。そもそもなんで訪れてみようと思ったのかというと、何年か前の流浪の番組でこの地点でオープニングを取っていて、その風情に興味を持ったという塩梅。普段行くまい、というルートで是政駅下車をしてみた。土曜日の昼ぐらいであったので、競艇の客などで根本敬のような世界でも展開されているかと期待したが、おばちゃんが甲高い声でおしゃべりしながら改札前で待ち合わせをしているのみであった。ここより徒歩で府中の競馬場横を通り、大國魂神社へ向かうことになる。

    その、出発してすぐに、大きな橋が目に付いた。目的とは全く逆の方向であるが、のらりくらりと近づく。随分と立派だ。ほえーと見上げながら中ほどまで行き、折角だから割り切る。Googleマップによればこれは多摩川。歩いて多摩川を渡るなど今後ないかもしれない。わはは。さらば神奈川また来るぞ、と踵を返す。往復するなど近隣に住まうのでもなければ絶対にあるまい。わはは、わはは。

    今調べたら渡った先は東京都稲城市であった。クソが。

    河川敷にお住いのかたの住居を見下ろし、立派な橋の構造を見上げ、元の道に戻るとあとは地図で見たなりに歩いていくだけではある。残念なことに、競艇と同じような期待をしていた競馬場の賑わいが全くなかった。何も開催していなかったのであろうか。中に入ればそれなりに賑わっているのだろうか。こじんまりとした府中市役所を通り過ぎ、大きな通りを右折するとそのうち右手に神社へ続く参道が見える。

    中に入ることだけを考えれば結構な遠回りをしたが、まあ何となく。一軒だけ露天商が何か焼いていたが、その奥手には土産物屋もあった。交通量の多い通りはまさに流浪の番組で見た印象のまんまで、後で調べるとこれが旧甲州街道であります。中の景色は、やはりなんというか、都会の神社である。しっかりした建物、整備された道。イベントの告知などはってあったり。

    宛もなくフラフラすると、休憩所があった。歩きとおしで正直疲れた。ありがたく休ませてもらう。皇室の雑誌など置いてあり、珍しいものがあると読んでいあると、精神の常道からやや外れた系の人が「○○様のお写真だー」などと独り言を発しており、コンタクトを試みているのではないかと察したのでそそくさと退散する。なんでここで根本敬要素にぶち当たるのだろうか。

    北の出口を出るとまっすぐに伸びる道がある。なんだか京都っぽい。大きな寺社の入り口が丁字路の突き当りになっている、このパターン。きっと大昔からこの通りには人々の賑わいがあったのだろう。現在においても広い道幅に大きな木々の緑が生い茂り、大変に良い感じの通りだ。少し行くと京王線の府中駅が唐突に表れた。もう帰るだけなので乗ればいいものを、律儀に予定通りの帰路となる、南武線府中本町まで移動する。

    京都っぽい、などと言ってみたが総じて坂道をくねくね、如何にも東京の道であった。京都の街並みとはすなわち古の平安京。授業で知った所では当時の中国の長安に倣ったと。もし京都がローマなどに倣ったら、この大國魂神社のまわりもどうなっていただろう。しかし当初は街などなく、ぽつんと野原に神社が建てられた利したのだろうか、どのあたりでこうして街に取り込まれていったのか…。

    なんて妄想してたら、最初に挙げたリンク先に全部書いてあったわ。そりゃそうか。とは言え当時の風景が目に浮かぶようなことはない。それでもあの界隈は、すき家のバイトの呼び込みの声にすらなんとなくこう、「日本の歴史」の一端が感じられるような界隈ではあった。

    帰りの電車で仕事の電話が来てとても豊かな気持ちが削がれていった、ある休日のことで御座いました。

  • どくしょかんそうぶん

    The mistを見たのス

    最近映画見てないな、ということで。それ以外に見る動機はないのか。「後味が悪い」という評判だけで見てみた。具体的な評価は果たしてその通りか否か、という反応が書けるのでやりやすいですかね。

    うーん…。以下ネタバレなどありますが、なるべくは隠す感じで。

    個人的に「後味が悪い」とは思えなかったけど、いわゆるバッドエンド系。鬱になる系。

    極限状態の人間関係をうんぬんという映画。その状態で人々が取る行動が、まあテンプレなのかこれがリアリティなのか。田舎町という設定が何かこう、人物像に絶妙に効いていた気がする。お約束のようい聖書を振りかざすキチガイの仰々しい演説は、自分はキリスト教と深いかかわりなく生きているのにも関わらず、それっぽいなあと理解できるあたり、ゲームや映画の見過ぎだろうか、あるいは世間の常識か。これが映画を見る嗜みか。

    どろんどろんの人間描写でくたびれるかと思っていたんだけど、もっとパニックムービーっぽいというか。思ったよりもSFチックなのは原作者がスティーブン・キングだから?。実は見た時点では原作が彼だと知らずに見ていたけども、出てくる「敵方」がどれもキモく、ゲームみたい。その姿が割と序盤で明らかになったのは意外というか、映画の設定上最後まで謎なのかと思っていた。だからこそゲームみたいなのが出てきて、ちょっと拍子抜けしたというか。正直ね。

    最後のシーンの一連はちょっと説明がつかないかなと思っている。確かに見ていてリアルに背筋の寒くなった稀代の名シーンと思う。「彼ら」が突然登場してちんたらと歩みを進めているが、あの敵方の見上げる様な、モンハンに出てくるような「アレ」はどう処理したんだろう?そこの理不尽さもまた味わいか。

    作中に出てくる台詞で、「人は恐怖にかられると何でもしてしまう」というのは、エンディングの場面に繋がるのだろうか。エンディングの登場人物は、「アレ」を目撃するにあたり、もはや恐怖からは遠いところにいて、達観か諦観か、実に「理性的に」行動を決めたかに思えた。しかし実はあれは恐怖に駆られていたと。来るべき結果から、恐ろしさのあまり逃げ出したに過ぎないと。倉庫に並んでいた二人もきっと。狙ったものだとは思うけど、構成が家庭だよな。母と子、父親、祖父母。

    我々も日々恐怖に駆られて生きています。大袈裟な、という人には不安から逃げつづけて生きるといえばよいかしら。求めるものは安堵なのです…。さあ何に縋って戦いますか、逃げますか。ああ、霧に囲まれた小売店こそ我が人生の全て、乾物の棚の裏で倒れる人を救えない、恐怖のうちに飲み干すお茶は美味いか?昆虫を踏みつぶした靴底を洗おう。

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    さて次は何にしようか。