ふでのゆくまま

  • ふでのゆくまま

    ポケットを叩くと

    本日もお疲れ様でした。

    帰路、広い道の横断歩道を渡り終えるにあと数歩、何かが踵に当たり、ちゃりんと音を立てた…気がする。あまり気にもならなかったが、一応振り返ってみる。安い合皮の靴…いわゆるビジネスシューズとか言われるようなものを履いている。どうやったら踵に物が当たるんだよ?見ると、アスファルトの上に、長さ10cmにも満たないだろう、くすんだ銀色の金属片が転がっているのがすぐに分かった。例えるなら鍵みたいな。

    少し身を屈めて近づくと、実際に鍵だった。こいつは俺の部屋の鍵だエウレカ。信号が青に変わり、車が動き始めていたがこれはスルーできない。急いで拾い上げる。手に取って眺めると、間違いなく自分の部屋の鍵だった。スラックスのケツポケットに入れているんだが、落ちたか。しかしどうやって。まあ取り敢えず逆のポケットに入れて、帰宅。ふ~じこちゃ~ん~~みたいな勢いでスラックスを脱いでポケットをまさぐると、そら落ちるわ、内側に穴が開いている。辛うじて鍵がするっと通り抜けるほどの穴だ。落ちたその場ですぐに気付いてよかった。もし音楽聴きながら歩いていたら、雨の日だったら、スルーしたかもしれない。あんな交通量の多い車道の上では、駅で気付いて戻っても気付くことはなさそうだ。助かった。

    その穴が鍵により開いた穴であろうというその証左に、他に一切ものを入れたことがないポケットだ。そしてまたその鍵はと言えば、キーホルダーに繋いで剥きだしでポケットに入れていた…。それで鍵と布が擦れて穴が開いたのだろう。厳密に言えば、穴はだいぶ前から開いていて、通り抜けるほどのサイズになったのがここ数日、と言ったところだろうか?常に持ち歩く必要がある鍵が一つだけなので、運ぶに関してはケースに入れる様な発想はなかった。しかしこんな事故が起きてしまうと、キーケースに入れたほうが良いかなと考える。検索に寄れば、キーケースというのは鍵が複数個しまえるサイズのものが主だったラインナップのようだ。それはスラックスのケツポケットに入れるにはあまりに大きい。じゃあ鞄に格納する運用にするか。じゃあケース要らないんじゃね、という疑問は一旦脇へよけて…そのかばんを持たないで外に出る時に、鍵を家に忘れそうだ。ところがオートロックドアじゃないので、うっかり持たずに外に出ても締め出される事はない…あ、鍵持ってないわって部屋に戻ればいいだけ。

    鞄を持ち出して、鞄を持たずに帰ってくることはない。しかし、盗難に遭うかも、あるいはどこかに忘れるという可能性はある。そんな時でも家には入れるように、というのがケツポケット運用なのだ。だってズボンを忘れて帰宅することもズボンが盗難に遭うこともない。しかし落とすかもしれない。実際に落とした。何より取り出すのも簡単だ!みたいな主張は日に1,2回の出番で主張するものでもないな。

    ポケットを叩いても鍵のチャリチャリ音はなく、おっさんの肉でパフパフが返ってくる。いまだに左のポケットをパフパフして、あ、こっちだったって右をチャリチャリしている。運用変えて鞄にしたら、本当にあるかなーって確認するのは面倒臭くなる。世間の鞄運用の人は、確認面倒くさくないのか。あるいは確認自体しないのかな。

    鞄に穴開いたりしない?(しません)

  • ふでのゆくまま

    ちくたく

    アナログ時計が動くと、その機構のカチコチ音がする。PCと空調を止め、お布団に入って照明から伸ばしたビニールひもを二回引く。

    闇。

    聞こえてくる。秋には虫の声が楽しめる部屋だ、静かなもんでとても良い。耳をすませば秒針のコッ…コッ…と音がする。普通のご家庭では、時計はやや高い壁に掛けてあるものだろう、ふつう。目に付く場所に置くんだから必然、そうなる。自分は机のすぐ横、のスチールラックにひっかけて、ぶらさげている。布団に入って、ラック時計と耳の直線距離はおおよそ1.5mといった所だ。そら良く聞こえもする。

    スマホにPCがありながらにして壁掛け時計の需要があるとも思ってなかった。仕事も私生活もどっぷりとスマホにPCだ。時刻が分からなくなるタイミングなど、ない。そう思ってはいたのだが…案外役に立っているものだ。この狭い部屋に一人、しかしPCからもスマホからも離れるタイミングというのがある。朝の出勤前に身支度をしている時間帯がそれにあたる。寝間着でだらしなくヒゲ剃ったり冷蔵庫から飯を漁ったりする時間帯。PCはよほどの事がないかぎりは前夜からのスリープモードのままで、スマホはまた別の場所に置いてある。朝の身支度なんて一日で一番時間を気にする時間帯に、なんたること、時刻が分からない!

    このラック掛け時計が、玄関周り、つまり1Kの間取りでいうキッチンからも見えるのが良くて。歯磨きしながら時計を見て、時間がないから燃えないゴミをまとめるのは次回にするか~、などと役立っている。其のアングルから見えることを要件とするならば、この賃貸すまいでは、ここのラックのこの面に引っ掛ける以外にない。玄関から見てこのラックの奥側はベランダに出入りする大きいスライド窓。窓の上の壁面に引っ掛けても、台所からでは鴨居の裏になり、見えないのだ。

    しかしそれならば、台所に設置しても同じことではないのか?そう、地震で落っこちるその日までは。鴨居のあたりにあるブレーカーのハコに載せていたっけな…?

    現在の場所に時計を落ち着けてから、目線より低い所にあるその非日常な感じが面白い。見やすいように敢えて大きめのサイズにしたのも良い。パソコンのラックであるので、プリンターが隣にあったり、何かケーブルが周りを走っているのがとてもフォトジェニック。スチームパンクでなんたら映え。ずれ。闇と音の話だった。

    針が薄緑色に蛍光発色するアナログ時計を見つめていて、音はない。秒針は光らないがそこに動いているであろう針に合わせて頭の中でリズムを刻む。60,70と進めても分針が動く様子がなく、とても不安になり、布団を頭から被った。これは一体何の記憶だろう。

    おふとぅんに積んだ夜の底、蛍で削いだ白の粉。
    スマホが震えて喚く頃には、ビニル紐から仕込み針。

    朝。

  • ふでのゆくまま

    サンデー

    生まれて初めて、サンデーという漫画誌を買った。(一カ月ほど前の話です)

    知っている作品というと、毎回のように人が死ぬ著名な少年探偵作品だけかな。巻頭から読み進めると、そのコナンとは別の少年探偵めいた作品があり、冒頭から死体が転がってて失笑する。飯を食いながら、その他の作品を適当に読み進めると、やがてそのコナンも掲載されている。

    冒頭から死体が転がっており、これには本気で大笑いする。死体が起き上がって「あれ、寝ちゃった」と言い出した所でひきつる。サンデーは表紙を死体にするべきだなあ。そしてデアゴスティーニが週刊他殺体を発売する。

    コナンのファン層はどこなんだろう。わからん。

  • ふでのゆくまま

    せいか

    新たな勤務地への通勤に関して。「あゝ一日が23時間になってしまった」など18世紀の詩人みたいな嘆き方[要出典]をしてみたものだが、思いのほか苦になっていない。

    何日か通勤してみて気付いたが、住宅地と大きなマンションの近くを通ることで、ここ数年の日常ではあまり目にしなかった光景が目に入る。遅刻ギリギリで学校に全力の疾走をする中学生、小学校を終えた子供らが家の周りでぎゃいぎゃいの騒いで遊んでいる様、まるで市場のセリのように一斉に保育園から子供を引き取って散っていく親御さんたち。例年にない早さの梅雨明けにより、不安視していた天候にも恵まれ、何か楽しんでいる。

    何よりも、空が明るい。見上げれば、空がある。長い残業が無ければ、夕暮れにうっすらと染まっていく空を見ながらの帰路。これだけの事が新鮮に思えるとは。通勤時にも全力の青空。たったこれだけの事が…。歩きながら何かが効率的にできるものでもないので、毎日のように音楽を聴きながら歩いている…というのも15年ぶりぐらいなんじゃないか。楽しいなあ。仕事は炎上しかk…..

    とは言え、やはり、「今のところは」といった言い回しになる。例えばちょっと体調が良くないな、なんていう時に何にせよ距離があるというのは不安ではある。いや、そんな何キロもあるわけではないんですけども。
    飽きたらまた遠くてだるいふざけんな、しか言わなくなる。クッソ暑いし。今までより早起き必要だし。

    これが少しでも楽しいと思える期間が長い事を願う。通うだけで電車に飛び込みたくなんるなんてまっぴらごめんだ。そして今度はもっと近い場所になることを強く願う。あーでも、乗り換えが一回で済むのは遠くても苦にならない主要な要因かもなー。

    今年はグレープフルーツ不作なんだろうか、まだ美味しいのが見つからない。

  • ひどいもんだ,  ふでのゆくまま

    死刑失効よかマシ

    世界史に残る規模のテロリストたちを身柄確保しながら法の下の処罰ができないなんてあってたまるかっての。

    事件記事などを追っていると、地下鉄サリン事件と同じ年には阪神大震災も起きており、そんなご時世に親元を離れて一人暮らしを始めるにあたっては随分と心配もされた…と思いたい。親が心配するのも無理はない、当時の自分の甘えたぼんぼんっぷりではなあ。裕福な家庭の子という意味ではなく、過保護に育ったし、世間知らずな人間が大学に受かったというだけで都会に出ていくんですから…。

    親の世代の大学生たちは、「赤軍派」の騒乱の最中だった。母が言うには、父は思うように大学生生活が送れなかったことを恨めしく愚痴っていたとのこと。それらと比較なんぞしてもしょうがないけども、市民に毒ガステロってだけでも万死に値するという言葉通りだと思います。

    最近、誰でも良いから殺す類の個人の暴力が勃発しており、そういう人たちが教祖様の尖兵にでもなれば次に犠牲になるのは誰ですかね?そうじゃなくても神様気取りで刃物振り回しているというのに。…ここでそういうのを怖いと口にするのは思う壺なんでしょう。恐怖に駆られて先に手を下すようなことが。

    それを「不安だが用心すれば対応できるんではないのか」と思う拠り所が、人々の繋がりであり、また為政の振る舞いなんじゃないかと思うんです。現場の警官とかでもいいですけど。そういう意味で、死刑執行には私はひとつ安堵に似た感情を覚えた。

    紫陽花は枯れて、梅雨が明けました。