• ふでのゆくまま

    一年の計

    本年もよろしく、という話なんではありますが。

    大みそかには渋谷の喧騒に凸しようと思っておりました。大厄クリアへの最終ボス戦です!景気よくZ旗を掲揚しトラトラトラの打電と共に、なんてことを考えておったんですが、夕方からハチ公前に交差点のライブカメラなんか眺めておると急に馬鹿らしくなって…まったりお家で過ごすことに。

    まったりが過ぎて、23:00ぐらいには起きているのも馬鹿らしくなり、寝てしまう。節操がない。4:00過ぎに目が覚める。生きてる。大厄クリアばんざーい。なんとも実感がないので、今から渋谷へ出かけることにする。節操とは。

    五時ぐらいに到着する。ハチ公前にはまだ人が多く、警官も忙しそう。揉め事の仲裁などもしており…。少しふらふらと歩いてみたが、やや手持ち無沙汰、暗いし面白くもない。どうも警官の視線を感じたので、移動することにする…。実は事前に考えてあって、原宿の明治神宮か、青山の某施設の予定地。東京に来てから、正月期間に初詣いった事がなかった。去年は厄除けを意識したので行こうと思っていたんだけど、なんとなく行こうとした場所で殺人事件が発生などしており…。

    もう一つはブランドがどうこう言って自分の財産を守ろうとする住人と不動産が話題になった、児童向けの某施設予定地。青山というか、表参道駅の近くだった。原宿がすでに混雑してるだろうなと予想して、表参道へ。渋谷からだと、坂を登る感じになり、登りきってちょうど夜が明けてくる美しさに敬虔な気持ちになる。ヘリがうるさいのが気に障ったけども、この時は呑気に夜明け中継するテレビだろうな、なんて思ってた。

    例の建設予定地は、草ボーボーの空き地が思ったよりも広かった。洒落乙なお店も確かにすぐ側にある。何でここにって思う人もいるだろうけど、こういう街にあったほうが安心できるんじゃないかと思うんだが?

    https://goo.gl/maps/SUiG6Vis7X92

    帰ろう。どうせ原宿から乗って帰るつもりで、お参りするかどうかは兎も角、原宿駅へ向かうつもりだった。ところが、表参道から適当に散歩しすぎて、どこだかイマイチわからない。グーグルマップで一発なんだけど、スマホを取り出してポチポチしているうちに、原宿警察署が目に入った。それ以上に、カメラを構えた人々が目立つ…。いわゆる業務用の報道関係者が使うような、三脚で固定されたでっかいカメラ。Googleマップで確認して、竹下通りを通過すれば駅まで早いと。

    元日の午前六時過ぎだというに、竹下通りの入り口はごった返している。蓮向かいにlineがあり、かなりの人が並んでいる。まだこの時点でも、カメラはあの人たちを撮っているんだ、ぐらいに思っていた。人を避けて通りに入ろうとすると、警官がいる。黄色い非常線。ググったらテロ事件が起きていた。

    渋谷から原宿に移動していたら、はたして無事だったろうか。これで今年の運を使い切っていないだろうか。心底ひええええええとなってしまい、落ち着かないままに帰宅する。

    どうしろっていうのかね。避けるもクソもねーだろこんなの。厄だとかなんだとか、そんなところに人生は深くつながっていない。初詣とか来年以降も意味ねーわやーらない。都合の良い解釈による不誠実な人生の方針が一つ固まった、ある元日の朝で御座いました。節操。

  • ふでのゆくまま

    Logosに抱かれて眠れ

    以前にも書きましたが、冬の寝具が寝袋です。寝相が酷いので布団はどっか行きます。だからといって暖房を入れっぱなしはお金もかかり、健康面でもどうなんだと。とはいえ布団なしで目覚めるよりはマシだとは思います。そこで、寝る時にも温かい格好に身を包み寝袋で寝ることに相成りました。その上に毛布なんか一枚かけたりして。キャンプみたいなもんだ、と。

    この試みはしかし、寝袋のサイズが問題でした。自分の体形ではとりわけ普通の寝袋では窮屈で寝苦しく、しかたなく寝袋をホッケの開きみたいに開いた状態にして掛布団運用していたのですが…それでは寝袋の意味がない。そこで導入したのがでっかい封筒型のシュラフというわけでした。これがまた安いだけあって質は宜しくなく、二年目になると縫い目がほつれてきたので捨てました。綿に何か細かいゴミみたいなもんが混ざっているって本当なんですもん…。

    そこで次にお買い上げしたのが、LOGOSの寝袋二つセットです。ファスナーで二つの寝袋を合体させることができる!結果大分おおきな一つの寝袋になります。

    https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00HYTEAC4/ref=oh_aui_detailpage_o02_s00?ie=UTF8&psc=1

    高さ(長さ)がそんなにないので、気を付けの姿勢だと167cmほどの自分でも頭のてっぺんまではすっぽりと被ることができません。しかし、寝袋としての質は良いし、二つくっつけただけあって非常に広い。今のところ快適に使っています。これだけ余裕があると、中にタオルケットを敷いたりも。念のため書いておくと、床にこれで直接寝ているわけではなく、結構なお値段のしたマットレスを敷いて、その上にこの寝袋で寝てます。製品の最低使用温度は0度ではありますけど、ハードなシチュエーションでは厳しいか。

    非常時の備えにならなくもないですが、二つだとかなり大きいサイズになってしまい、一個ずつ丸めても持ち運ぶのは大変。避難所から家に戻れるような状況であれば、こいつを持ち出せば便利かもしれませんね。大きいので中に潜り込んで着替えなんかが余裕でできます。

  • ぎょうむれんらく,  ふでのゆくまま

    2018年をふりかえる

    厄という概念、その本当の所は良く知らないが、兎に角も満41歳となった今年は本厄という事のようでした。した、ってまだ終わってないけどな。その本厄も二週間で終わろうという日に、大厄って言うらしいと知る。アカンがなー。うひょー。

    今年、というか今にして明かせば2017年の夏ぐらいからもろもろストレス爆発な事案があったのです。今年も退勤中に駅前で電話に向かって罵る姿をぎょっと見咎められるなんて事もありーの。このストレス案件はまだ解決してないので心の健康状態は無限に本厄でしょうか。死にたい。去年も死にたかったなおい。

    会社員じゃなくなったというのも大きな変化でした。これ自体は初めての経験ではないですが…学生を終えてからは、引きこもりニートフリーター会社員フリーランサーと経験し、あとは大富豪と受刑者と日本国籍離脱ぐらいかおい。仮想通貨でも盗むかHAHAHA。なお今回は仕事内容やお客様の顔ぶれも大差ないので、人生がまたハードコアに寄っただけかもしれません。死にたい。いや不満はないのですが。

    2018年、新しい事は何もなかったと言って良いです。カメラ買ったとかそんな程度。仮想通貨の損失の話をしますか?まあ一人暮らしの築ん十年のアパートの家賃程度で済みましたので面白くもないのです。厄年を都合の良い言い訳にした感もあり、来年使えないかと震えていると後厄というカードがまだ残っていましたやっほい。無為にすごすぜーっ。人生も投げやりにかかっているというのが、素直な気持ちです。不貞腐れて生きるのでしょう。死にたい。死にませんけど。

    Amazonプライムの枠で、見たかった映画を全部消化してしまいました。今後は、ハリウッドの呪縛を離れた「オリジナルコンテンツ」とか呼ばれるもののほうが流行っていくんでしょうか。このエントリを書いている時点で、これは観たい/読みたいというものが一つもありません。

    その他、今年を雑多にふりかえります。

    志村けんのバカ殿をチラ見したら、白塗りのあの顔がしわだらけで「うわっ…」と引いてしまう。

    取引先との飲み会の席で、若い新入社員たちと「〇〇は知っているか?」などという会話で盛り上がる。めっきりおじさんになった。みんなもそうだと言ってお願い。

    いまさらPODCASTを初めて使ってみたんだけど、番組?に「本当の自分をみつける」とかがちらっと見えたのでヒイッってなった。鶴瓶の「日曜のそれ」があったので一回聞いてみただけ。他のコンテンツも2010年とかそういうのが出てきて、まあ古いのも楽しめるのはいいけどもさ…。

    山手線一周夜中に雨の中歩いた。東京で生きているうちにやりたいこといっぱいある筈なんだが、選んだのはこんなの。馬鹿なの?

    フェースブックで賞味期限二ヶ月切れたカロリーメイト食うかアンケ取ったら、全員食うって回答。引いた。

    2018年最初の外出で鍵をかけるの忘れたってログが残ってた。2019年の年明けは屋外で迎える予定である、気を付けたい。

    こんなところでしょうか。来年こそはいろいろサボり続けた人生の支払いをせねばなりません。覚悟なんてものは無意味ですが、自分を縛る呪文をここに残すは有用やもしれません。

    それでは皆様、(自分があと二週間無事であることも祈りつつ…)良いお年をお迎えください。今年の「このブログの」更新は以上です。

  • ふでのゆくまま

    本一冊さがそう

    あるコミック作品を、おそらく、最終巻だけ読んでいない。恐らく、というのは作品のストーリーの結末を知らないからという事と、自分が中学生の頃の事なので、何巻まで読んだのかということを正確に覚えていないからだ。ところがストーリー自体はくっきりと覚えている。それを基にネットで情報を探り、最終巻とその前数巻の表紙画像なんかを見ると、やはり読んでないのは最終巻だけだろう。

    実は数年前に気付いてはいて…どうやって読もうかなんてたまに考えていたんだけど、折角だから色々可能性を模索したいうわけだわね。数十年前の作品であるので、そこいらの書店においてある筈もない。そこでまず考えたのは漫画喫茶。いまはネットで店舗の在庫が検索出来たりする。何個かメジャーな店舗を探してみたところ、1店舗だけ見つかった。都内の店舗ではあるものの…一冊だけ読みに行くのかと言われれば…いかねえよなあ。移動時間と交通費と漫画喫茶の料金。では次に、中古書店はどうかと思えども、同じ理由でどこに置いてあろうと素直に買いに行くつもりにはならない。

    国会図書館にはあるのだろうか。すべての刊行物があると耳にしたことはあるんだけどな、こんな漫画も?しかし国会図書館は、別件で調べてみたことがあって、事前に登録だのなんだの必要なものが多すぎて行く気になれない。結局ネットで買う、みたいな事になる。数十年前の特に希少価値もない、普通の漫画本が欲しい、なんて実際かなり難しいはずだ。インターネット凄いですね…いつもの話か。ツマンネ

    もうちょっとインターネット凄いに寄せるならば、「持ってる人読ませて!」とか言い出すほうが凄いのか。まあ、漫画喫茶まで行く時間と出費を惜しんで置いて、この試みもないよね。ネット価格、800円ほどで手に入りそう。まーちょっとした自分のクリスマスプレゼントつうことでね。

    本気の自分クリスマスプレゼントは、カメラ買いました。ヲホホ、、、。

  • どくしょかんそうぶん

    “沈黙”を観た

    ウォッチリストに入れていたら、いつの間にかAmazonプライムの無料枠になっていたので慌てて拝見と。もちろん以下ネタバレ。

    テーマとしては何をいまさら感のあるもの。「神は何も言わなくなった」なんて初期の大友克洋の漫画にも出てきた台詞じゃないかな。言わなくなって何年にもなる。これは1980年代かしらん。ニーチェという哲学者は「あいつ死んだんじゃね?www」などと言ったとか言わないとか。物語の舞台はキリスト教を禁じた時代の日本。とっても苦難の道でした~というお話。そういえばこの「沈黙」の原作である遠藤周作の小説は、ブックオフで買って読んだ事がある筈なんだが、何一つその記憶に結び付く場面がなかった。本当に読んだのかね。自分の記憶も何も言わないものでありました。

    さて、現在、ここ、日本。

    都市部では街中に教会を見かけることも珍しくはない。ご近所の景色を思い浮かべると…自分が日常的に徒歩で買い物でもする圏内に、二か所ほど教会の存在を確認できる。となれば、教会自体がそこまでレアだという訳でもない。それでも、”日本人で”クリスチャンという人には人生で二度ほど出会ったことがあるだけ。数は少ないよ。休日に教会の側を通りかかるとき、中で礼拝のようなことをしている様子を見かけたこともあるが、そこには西洋人の顔が必ずあった。映画の様になにか使命を帯びて日本に来ているのかもしれないし、単に日本に移住してきただけかもしれない。彼らのお仕事なのか日常なのか、何とも判別は出来ないが、いずれにせよ教会でのイベントごとを日本人だけで何か行っているという印象がない。現代の日本でクリスチャンが一般的である、とは言い難く、なんなら物珍しいぐらいは言っても誤りではないのではないか。

    大航海時代の幕開けと共に、教会の関係者が現地を訪れ布教を試みた筈の地域は、現在どうなっているだろう。日本もだいぶ時期がずれてはいるだろうが、アフリカとか南米と同じように教会関係者の西洋人がやってきた地域ではある…。当時日本の様に諍いがあっただろうか。今は南米、南アフリカはキリスト教に染まってしまった。日本ではそうならなかった、その原因を、作中のような江戸時代の政治的判断だけに求めて良いものだろうか。いや、その疑問に答える趣旨の作品ではねえと思うんだけど、この宣教師を野良のクジラに見立てたような思想をする人がですね、云々。

    作中の「英語を理解する日本人が沢山いる、なんなら貧しい村にも」という設定は映画の都合すぎてズルい。サイヤ人が地球の言葉理解するみたいな。もうエスエフを感じてやまない。そんなわけねーだろってなる。他の村と道が繋がってないような海沿いの山間で…。当時は文字だって読めない人が殆どだった、というのが自分の知る処であるが、どうだろう。ま、そのぐらいのご都合は映画なんだから世の中にいっぱいある。あるんだけど、この宣教師と日本の人々のやりとりは、この作品のメインの部分じゃないかと思う。それをこんな違和感を覚えたままで消化するしかないのか…。あっ。よく考えたら原作があるじゃないかこれ。原作もこうだったんだろうか。ポルトガル人(?)が日本に来て英語で農村の村人と会話する。史実はどうだったんだ?キリシタンは実在したんだろうけど、宣教師と会話??

    映画自体は面白いと思うけど、”転んだ”宣教師とのやり取りの場面もなんとなく迫力欠いたなーとか思ったり、先に挙げた言葉の問題もあったりして、いまいちスッキリしなかった。エスエフではなくてもフィクションではある。わかっているけども。文字表現だと何故かペラペラ会話が成り立っても、その描写を読むこと自体に違和感は憶えない。ところがこうもはっきりと映像にしてしまうと怪奇にすら感じる。胡散臭いわ。史実はどうだったんだ。宣教師など来ていない、ぐらいのほうが真実味があるのではないか。

    クリスマスがもう近い。結婚式はチャペル、新年の祝いは神道、死んだら仏教。柔軟なのか節操がないのか混沌なのか。100年内戦が続いても元首は形式上は敬われ、おそらくは面倒事を押し付けられるような恣意的な利用されたりもしつつ、曰く、少なくとも1000年の歴史がある。まもなく200年ぶりの譲位イベントだ。それが神様扱いでもあったんだってさ。人間である、などと宣うも、未だにその位のものだけが執り行う宗教儀式があるとされている。あの神父たちはどう思うだろう。

    えーと、その他作品の内容としては音楽がやかましくないのがとても良い。あとイッセー尾形もさすがに歳を取りましたね。しかし兎に角、スムーズに会話がされている事自体の違和感は日本人なら拭い切れますまい。これにつきるかなー。