どくしょかんそうぶん

  • どくしょかんそうぶん

    「アルジャーノンに花束を」を読んだ

    !?!?!?

    最初の数行を読んだだけで驚愕していったんkindleアプリを閉じてしまった。これは個人的に思い当たるフシによるもので、全く以て世間の皆様には関係ないです。だけど、俺は”これ”を読んだことがあって、いや本書を読むのは初めてなんですけど、あわわわわ。わたくし本人にしか分からない事なのでここまで忘れてください。しかし私はこの驚きを忘れることはないでしょう。

    で。

    世界的に名高い本書を電子書籍でお買い上げ。当然日本語で読むわけですが、原文はどうなってんだろうなあと好奇心の沸き起こる仕掛けがしてある作品であります。ネタバレとまでは言わないが、下記のリンク先に少しその情報があった。ちょっと真似してどこかで使ってみたくなる。

    https://e-netamag.net/flowersforalgernon/

    この仕掛けによる文章表現が見事なもので、久しぶりにじっくりと読書したけど、内容はとてもありふれた…語弊のある言い回しかもしれないけど、ありふれたお話だった。脳外科手術を魔法とか夢落ちに置き換えれば同じ作品が何個か見つかりそうだ。童話に書いてありそう。ドラえもんに書いてありそう。なぜありふれていると思ってしまうのか。やはりこう、何か物語の偉大なテンプレートが存在して、それに沿っていると感じることがあれば、ありふれていると思ってしまうのかもしれない。

    ありれふたセックスの場面が出てきて、おれは思たんだけど、誰かと一対一という状況を日常的な空間から一瞬で用意するにはそういう関係が便利なんでなないかと思た。その気になれば、居間でも風呂でもやるし、だから、その行為を目的にすれば、どこにいても急に人目を避ける行動をとっても不白然じゃなく、普段なら絶対地べたに腰を下ろなさい人でも貂変したようにけつをふっても、まあセクースならしょうがないとおれは思ったからです。

    本作の根本的な筋書きとなる「ネズミで上手くいきそうだぞ、じゃあ次は人間だ!」という話が、現実的なものかわからない。(だからこそこうして作品になっているんだわ、という観点もあるか)ねずみの寿命って短いだろう。それはきっと現実科学にもフィクションにも都合が良いと想像する。命の回転が速いのであれば、その分実験サイクルを早く、数多く回せそうだ。うっかり大型犬なんかでシリツに成功したばあい、どのぐらい賢くなるんだろう。かわいくしてればエサがもらえる程度の犬のフリをするぐらいには賢いか。

    本作のメッセージは、”おつむ”が賢くなってもそれだけで幸せな人生を得ることができるものではない、という事だと思う。うおおお。見事にありふれている。論語に書いてありそう。そしてもう一個想像するに、「子どもは自分がされた仕打ちを忘れない」ということだとも思う。幼き自分が記憶の中から告げ口をする。賢くなった主人公が家族に会いに行くくだりは物語のクライマックスだと思う。賢くなって取り戻した記憶が、時に残酷なディテールを告白する。でも記憶してしまうのは、人間の本能だから、どうしようもないじゃないか。見事にありふれている。ドラクエに書いてありそう。ちょっと古い小説とか、とりわけ名作とかラベルが付いているものを読むと、ああどっかで見たなあって印象が先立ってしまう、偉大なるパクリ元。俺も何回同じ事いってるんだろうね。

    しかしありふれた普遍的な情緒で得る感動を忌むことは無い。良い事だ。夜明けの空は美しい。めしはうまい。おばけこわい。また、本作を読むことで、ビッグブラザー、ハートマン軍曹、トルチョックという文学memeのような言葉のボキャブラリーがいっこ増えた。その分かしこくなったかな、ははは。

    ところで。

    世界にインターネットが爆誕して長い。本作のレビューや読書感想文もありふれるほど積み上げられているだろう。だったら、だったらよ、絶対に本書の構成を真似たものがあってもよい。キッズ絵日記みたいな文章から始まり、ややこい単語が続く部分があり、それが読みにくい文章に変化していって終わるようなもの。どこかにないかな。

  • どくしょかんそうぶん

    「赤めだか」を読んだ

    落語立川流。

    落語家の組織には「落語協会」と「落語芸術協会」がある。そんな事実も、落語立川流設立の経緯を調べるまでは知らなかったと思う。ただ、それを知ったのは本書を読むにあたってではなく、だいぶ前ではあった。今回調べなおしてもっとあると知った。噺家のユニフォームあって所属によって違うわけじゃないからな、落語を見ても聞いてもそんなの知る由もないんですわ。もちろん伝統芸能に限らず、長く続く組織に分派が出来ていくというのは自然な事なんだろうか。例えば競技麻雀のプロ団体もそうだし、格闘技なんかもそうなんだろう。ボクシングのチャンピオンって何人いるんだ?

    落語立川流!

    立川談志が組織から飛び出て立ち上げた団体という事だ。つまりは異端、オーソドックスではない一派なのだろうか?噺家稼業の実情なんて知る由もないが、なんせ旗揚げしたのが「あの」立川談志である。これはそうとうに過激派に違いないぞ!と目論んだが、本書を読んでみるとーーー。

    なお噺家の団体事情はこちらにくわしい

    https://rakugotei.com/rakugorekisi

    「あの」などと言っているが、率直に申し上げて「立川談志が落語家」という印象が薄かったのだ、以前は。立川談志とは、テレビでたまに見かける頑固そうな爺であった。あとサメ退治の騒動も記憶にある。談志がテレビで落語やってるのは見た事ないんだもの。自分と同じく1970年代生まれだと、テレビで見た落語家と言えば笑点の面々はもとより、桂文珍、桂三枝あたりではないか?あと春風亭小朝が時代劇出てなかった?志の輔とか円楽がテレビCMやってたかな。談志の落語を見る機会は、その訃報を知ってからやってきた。(おそらく)amazonプライムだった。そうそう、ここ二年ぐらいは、竹書房が高座の様子をyoutubeにアップしている。無料で見れるぶんでも、かなりのボリュームがあって素晴らしい。

    https://www.youtube.com/@by7350

    「その」談志の弟子である立川談春による、主に修業時代のエッセイとなる。本書は雑誌連載時のもともとのタイトルが「談春のセイシュン」となっていたらしい。弟子と師匠の物語ということで、その師匠である立川談志という人物のイメージを多少なりとも掴んでいないと、本書の面白みが少し薄れてしまうかもしれない。本書の連載は2005~2007年であったことから、2011年の談志の死については何も書かれていない。立川談春の筆は評判が高かったようで、本書はなんとか賞を受賞している。確かにすごく面白い。「あの」立川談志の弟子として過ごした修業時代のエピソードは実に詳細に書かれていて、情緒に溢れ、文学っぽさがある。文学ぽさってのは自分が勝手に感じただけで何と説明しようもないんだけど。

    勝手に感じただけで言えば、現代っぽさも覚える。「〇〇が残したとされる名言」みたいなものインターネット界隈で目にする機会があるけど、そういうものの原典は、だいたい過去に出版された書籍だ。談志の語る「嫉妬とは何か」「馬鹿とは何か」という、どこかで見た事があるものが本書にも収められていた。こんな事例は本書に限った事ではなく、調べればいくつも見つかると思う。例えば流行り歌がカバーだと知った時みたいな心持ち。「World in Union」とか。

    ここまで談志談志談志談志談志談志談志談志談志談志談志ってばかり書いているけど、これは立川談春の著だ。”修行”も進んで一人前の噺家として羽ばたく頃合い、家元の影は少し形を変える。今までは師匠、その言葉通り通りの師匠だったんだけど、どこか…上客といった印象になった。「修行は不条理に耐える事」とまで言い切る師匠の言う通りにして、魚市場で修行までしてきた。それを自分の提案、芸、言葉で納得させる必要が出てくる。しかし本書で談春は以下のように書いている。

    談春(オレ)は、覚悟だの、けじめだの、一丁前のつもりで独り思い込んでいたが、談春の想いはそんなものじゃなかったんだ。子供が母親に向かって駄々をこねるように談志に、愛してくれ、みつめてくれと泣きわめいて甘ったれているに過ぎなかったんだ。

    談志は弟子入りを志願した談春に、弟子入りの条件として親の同意と立川談志の面前への同席を提示した。弟子入り、いやいや弟子受け取り披露の席だ。「これより談志が親御を襲名いたします」実際は談春の親には同意を得られなかった。談春は代わりに住み込みの新聞配達をして自分の生計を賄うと談志に申し出て、受け入れられた。こんな世界の「あの」師匠のところへ、高校を退学して17歳が一人、体一つ飛び込もうってんだから、親の同意が必要というのが当人から見れば一番の不条理だったのかもしれない。「どうぞどうぞ😊」ってわけにはいかねえことは容易に想像がつく。しかしそこさえ乗り越えちゃえばね?

    本書によれば、立川流には弟子の修業過程、一人前と認められるまでにはちゃんとルールがあった。いわゆる前座→二つ目→真打への昇級過程とでも言えば良いのか。最終的には談志が首を縦に振らないことにはどうにもならねえことは容易に想像がつく、ものの、これは落語の世界のためのセーフガードだったのかもしれない。これを不条理とは…うーん。そこさえ乗り越えちゃ…うーーーん。

    談志が亡くなって十年以上になる。落語立川流は談志亡き後も運営は続いており、弟子があり、二つ目だ真打だお披露目だという話題も見つかる。何かしら基準はあるんだろう。談志の墓の前でサイコロ振って決めるなんてのはどうだ。談志が言えば肝を冷やすヤツがいるかもしれないが、志の輔が言っても誰も本気で受け取らないだろうな~。あるいは親の同意だったりしてな🤣🤣🤣いやいや、他の真打の兄さんは家族も同然でやすから。

    じゃあ談志を名乗る基準もどこかにあるのか?「あの」立川談志も七代目だとか五代目だとか諸説あるらしい。次の談志はだれだ…?このまま空位のままか。立川流なんだから、やはり談志を名乗るにあたり両親の同意が必要なんだろう。しかしもう故人のケースも多い筈だ。この際、国民の同意に委ねてはどうでしょうか。衆議院も参議院も選挙が近いことですし。

    この選挙で大いに活躍した噺家が後の「立川談合」となるのですがそれはまた別のお話。

    -6点。

  • どくしょかんそうぶん,  ふでのゆくまま

    「たけくらべ」と「舞姫」読んだが

    樋口一葉の「たけくらべ」が青空文庫にあった。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html

    冒頭に目を通してみたが、こんな古文調?の文章だとは思ってなかったので面食らう。平家物語じゃねえんだからさ。なんかおかしいなと思って、読む前にいろいろ調べてみる。まず、太宰治とか芥川龍之介あたりと同じ、あの辺の時代の人だろうと思っていたが、実際は作品の発表時期が30~40年ぐらいずれている。芥川龍之介の「あばばばば」が1923年の作品だそうだ。また太宰治の「走れメロス」が1940年。いっぽうこの「たけくらべ」は1895年ですって。このたけくらべ、ぱっと見で採用されている単語がまるで芥川、太宰とまるで違うじゃないですか。自分の見識では「一緒の時代」で括ってよい程度の差なのか判断に迷うが、これだけ”文字”が違ったら別もんでよくない。

    たけくらべだけvsその他全部でくらべてもしかたないので調べるのはこの辺で一旦たなあげ。たけくらべ だけでくらべて こしくだけ たけやさおだけ よんでみるだけ。あっはい。で。上記のように作品について調べるついで、当時の出来事は何でしたかと漁ってみると文明開化があった。1870年ぐらいの出来事らしい。なんでも、1872年には鉄道が走ってるし、その後すぐに苗字を名乗れとかちょんまげやめろとかお触れが出ている。ちょうどそのころ生まれた一葉女史には影響は大きかったのかね。そもそも「女性が書いた」ってだけでも珍しい時代だったのかもしれない。大正デモクラシーもまだまだ先なのだ。それでも文章が芥川と比べてまるで違う。何があったかね。

    んで、「たけくらべ」が結構みじかいと気付いたのですね、青空文庫を開いているブラウザの、スクロールバーのサイズ感で。じゃあ拝読してみれば良いのはなし。2時間かからぬぐらいで拝読したのですが、あまり理解は追いつきませんでした。とりま実績解除ってことでよろしく。

    こういうのを教養って言うんでしょうか。作中、下駄の鼻緒が切れて弱っているところに、知人が通りかかり、俺の下駄はいてけって渡す。自分はこの場面が見事に漫画的表現で絵が浮かぶわけです。白土三平…ってカムイ伝しか知らんけど、ああいうの。横山光輝の三国志とか?そういう雰囲気の中で人物がやり取りをするような絵がうかぶ。だから、下駄をくれたのはやさしい呂布みたいな🐻男であって、下駄を受け取ったのは諸葛瑾みたいな書生ふうの…。でも、ちゃんと知識があると、もっと本物に近いというか、別の様子を思い浮かべるんだろうか。なんで太宰や芥川と文章が大きく違うのか、そんな理由も知っているのか。自分は「鼻緒が切れて弱っている」がどういうことなのあまりピンときてない。あの親指と人差し指の間の紐が切れたってことであってますか。

    えーと、流石に読みにくくて難儀しました。若者の群れが連れ立って喧嘩したり青春してたような話だった。んで女が拗ねた?恐ろしき理解度の低さ、これ教養って言うのでしょう。ぐぬぬ。

    では、この時代の他の作品も読んでみれば、ちょっとは腑に落ちる見識も得るかもしれない。じっさい一葉と面識があり、結核の治療も面倒見たという森鴎外。「舞姫」の発表年が1890年だったので、こっちはどういう文面かと探してみたら、これも短い。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html

    読み終えまして。人の勧めるままに身の振り方を決めていたら、自分の子を宿した女を捨てることになった、みたいなことか。貴方仕事と私どっちを取るの?どうしても古文ジャンルの文章に近い印象がぬぐえない。源平のころから文明開化まで、文学ってなかったのか。そもそも小説ってジャンルが存在しないのか?自分の教養で、調べなくても江戸時代のものだろうと推測できる書籍って「奥の細道」と「五輪書」しか思いつかない。歌舞伎は都市部で人気だったと思うが、その台本?原作?みたいなもんが流通したりしなかったんだろうか。流通っていうてもな…活版印刷無いもんな。瓦版?

    あるいは…話し言葉まで含めて大きな変化があったの?話し言葉を文章にする発想がなかったのか?

    ここで「東海道中膝栗毛」の存在を思い出し、読んだことも一応はあることを思い出す。現代人に読みやすい表記に改められたものと記憶している。これはスラスラ読めた。wikipwdiaによれば1800年ごろの作品だ。どんな文体で書いてあったのか探れないだろうかと思ったが、青空文庫には無かったのであります。なんでもかんでも収録されるわけではないんだろうけど。

    文章にする言葉ってなんなのだろう。自分だって、日常話す言葉とこのブログで使っている言葉が完全に一致するわけはない。「話す」言葉なんだから、単語・表現の選択にはその話相手と、場の空気感みたいなものが如実に反映されている筈。手書きの日記は少々話し言葉っぽいかな。例えば「今日はしごとの出来栄えがうんこだったのでストレスマックスうんこうんこ」きょ、教養…。

    この時代の作家について参考文献。国会図書館なあ…。死ぬまでに一度は足を運んでみるかしら。

    https://www.ndl.go.jp/portrait/pickup/003

    あら?膝栗毛あるやん。

    https://dl.ndl.go.jp/pid/878435/1/2

    表紙は明治16年とあるように読める。1883年だ。たけくらべよりだいぶ古い。

    もしかしてたけくらべも舞姫も、こういう文体にしようってネタだったりしねえかな。現代でもムツカシイ言い回しや言葉を使う作品あると思うけど、そういう類の。

    ナニ″っナニʖˋ≠″ャ」レ文字@┐″□勹″を残ιτ置レヽナニʖˋ将来レニ於レヽτイ可カゝ亊古攵τ″もぉ⊇せまι

    オチがよわい。トルチョック。

  • どくしょかんそうぶん

    「Issueからはじめよ」を読んだ

    イシューってのはよーするに、問題点とか、課題とか、「対応の必要がある事項」というニュアンスみたいな雰囲気で把握している。開発状況が公開されているオープンソースプロジェクトとか、ゲームなんかにこの項目があるの、見た事ありませんか。本書の主張はそんな雰囲気で分かった気になっても無駄やねん、という話でありんすが。

    「仕事を頑張る!」という時に、成果の質を上げるべく時間をかけて丁寧に取り組むわけだ。そこでただ作業量を増やすというのがそもそも誤りであって、先ずはどういう問題をどう解決するのが正しいのか、そもそも解決すべき問題ってなんだよ?を検討するところからはじめませい。という内容。「顧客が本当に必要だったもの」の風刺画の如く、成果物が意味ない状況になっては拙いですよ。

    なるほどそうですね。以上。

    さらに、本書では具体的にどうやって取り組んでいけば良さそうでしょうか、という方法論が書いてあります。「〇〇することが問題に対する答えだ!」と(一時的にでも)結論を出すには、おおざっぱで抽象的な理解を言葉を変えて具体的にするにはどうこう、仮説を立てて進めるにはどうこう。問題を解こうとする前に、問題はちゃんと把握するというわけ。…なんかどこかで耳にしたような気がするなあ、という場合は、そう、ネットのどこかでそんな話を見かけたんでしょう。現代に於いては、有名な本を読んだらもう全部そうなってしまうのでは。

    本書の立場では、この「Issue」をテッテ的に言葉で表現することに重きを置いている。概念は言葉でしか定義できないという主張だ。言葉にしたところで、本当にIssueとして良いものかを検証しましょう。言語には構造があり、形式がある。特定の形式に当てはめてみるという検証が可能だ。なぜ顧客が必要だったものが出来なかったのか、ではなく、何をするとかしないとか、どうやって取り組むのとか、細かいレベルで具体的にする。その方法論がなんたらかんたら。答えが出ないものに突撃してはならんのですわ。

    仮説を立てるという段階になってくると、貴方の知識と経験が要ります、という話になってそらそうだギャフン。知りすぎると知恵が沸いてこないとも言われて、一体どうしろってんだ!となります。詳しく知りたい人は本書を読めばいいのかも。自分はざらっと流し読み。

    ここまでが本書第一章の「イシュードリブン」という内容でした。ここから先はざっくり読み進めてみたけど、ワカンネってなったのでちょっと意欲は落ちてしまった。理解を諦めたとは言わないが、自分が取り組むIssueではなさそうだ。本書を買った他のみんなもどうせ読んでないんじゃないか[要検証] 本書は第五章までありますが、第一章で40%ほどのページ数なので残りは細かい話になっている様子。じゃあだいたいヨシ!

    ヨシじゃねえだろって話ですが。仮に本書を参考にしてなんかに着手したとして、本書の伝えたい通りに実践できているのかな?を確認するのはなんか難しそうだ。

    その後、ストーリーラインという用語の説明がある。これは、仮説から結論までを段階的に秩序立てると把握したけどよくわからない。さらにその後、絵コンテという手法が紹介されて、ここからは本当に何を言っているのかわかりにくく、付いていけなかった。何がわからないのかわからないが、わかったらなにがわかるのかわからない。高校生の頃、数学を諦めたときの気分だ!最終章は、ビジネス本らしく(?)プレゼンの資料がどうとか。

    こんな感じでふわふわした理解のままで読み終わった感じ。こういう理解が難しいことも根気よく学ぶのが世に求められているわけなので、ようわからんなんて感想文はしょんぼりだ(´・ω・`)

    難解な物事の理解を助けてくれそうなものは、

    またお前か。うーん。2024年3月時点でも、まだまだググったほうが信頼できることが多い。それでも、途方に暮れてchatGPTに問いを投げてみると、最初の一歩を何処に踏み出せば良いのか見えてくることもある。翻訳・要約はお手の物。もっともらしい事をスラスラ回答しやがる。そうだよ「このAIの回答が正しかったとして」という仮説ができるのではないか?🤔

    「AIからはじめよ」の大号令きたる!!HAHAHA


    Q :「顧客が本当に必要だったもの」という著名な風刺について論点をまとめろ。

    AI:

    「顧客が本当に必要だったもの」という風刺は、製品やサービスが実際には顧客のニーズや要求とは関係がないか、あるいはそもそも顧客が望んでいないものを押し付けられる状況を風刺しています。以下に論点をまとめます。

    1. 顧客ニーズとは何か:風刺が指摘しているのは、製品やサービスが顧客のニーズに合わない場合に生じる不満や問題です。顧客のニーズを正しく理解し、それに基づいて製品やサービスを提供することが重要であることを示唆しています。
    2. マーケティングの問題:この風刺は、時には企業が顧客のニーズに関係のない製品やサービスを押し付けようとする、あるいは誤った広告やマーケティング手法を用いることを風刺しています。マーケティングの目的は顧客のニーズに応えることであり、その理解が欠如している場合、製品やサービスの受け入れが難しくなります。
    3. 顧客との関係性の欠如:顧客のニーズを無視したり、理解しないことは、顧客との良好な関係を築く上で致命的な欠陥です。顧客が本当に必要としているものに基づいて提供される製品やサービスは、長期的な顧客忠誠度や企業の評判に大きな影響を与えます。
    4. 社会的・文化的な側面:風刺はしばしば、社会や文化の中での特定の価値観や消費行動を風刺することもあります。例えば、消費社会が押し付ける価値観や、本当に必要なものとは無関係な消費の文化を皮肉ることもあります。
    5. イノベーションと受容:時には顧客が自らが必要としていないものであっても、イノベーションや新しい技術が提供されることでその価値が明らかになることもあります。この点においても、顧客のニーズとのバランスが重要であり、必要とされるものを提供することが成功の鍵となります。

    総括すると、この風刺は顧客中心主義の観点から、顧客のニーズや要求を無視した製品やサービス提供を風刺しており、マーケティングやビジネス戦略において顧客のニーズを正しく理解し、それに基づいて提供することの重要性を強調しています。

  • どくしょかんそうぶん

    「東大思考法」を読んだ

    ビッグブラザーをインストール。

    「まあだ東大とか言ってんのかwww草ァwww」と煽りたい気分がないでもない。東大お受験をクリアするのは単なる力任せの(?)ガリ勉でもできなくはない。「さすが東大卒だねえ」と舌を巻くようなエピソードを生み出すには、ただのガリ勉では無理だ。こういう人物は、当人に生まれ持っての賢さが素養として備わっており、その素養を育むべく子供自体を過ごした環境にも比較的恵まれた面があった筈だ。これは世の中も当人も、ある程度認めるところの事実ではないだろうか。また、たまにとんでもない賢さを持つ人がいる。そのタイプの人は大学受験勉強ぐらいのタスクが、我々で言う中学英語ぐらいの難易度で処理できるんだろう。こういうのは、脳みその機能が優れている、みたいなレベルだったりするんだろう。

    “良い”大学の卒業生が企業から重宝されるのは、前述のような傾向が強いからだ。採用する側だって遊びじゃないんだから、確率的にあたりを引きやすいくじを選ぶ。そんな学歴社会がどうこう不満を述べたとしても、実際に太刀打ちできないことばかりだ。勿論例外あります。にんげんだもの。

    人生の成功って、個人の価値観に拠るところが大きい時代になったのかなと思う。身分相応でマターリやっていくという考えも、現状維持では破滅を待つだけだすすめすすめニイタカヤマノボレ!という考えも、まぁまぁ、どっちでもええよって考える人が多いんじゃないか。一方で「避けねばならない事態」みたいはものは概ね共有できるんじゃないかと思う。少し極端に言えば「火の用心」みたいなこと。では、具体的にどうすれば火の用心に取り組むことができるだろうか。例えば火気使用中にはそばを離れない、そもそも火力を使わない機材を使う、消化の手段を用意する、防火設備の備わった場所に住まいを構える、愛宕神社にお参りをする。いや神なんておりませんけどもー

    ほんでね。にんげんだもの、わかっていても取り組みがうまくいかない、取り組む気力はあるけど実行に移せない、ありますね。あります。あるっつってんだろ((他動詞))ぞゴルァ。人間はクソみたいな失敗から叡智を得ることもあり、火のついたベッドで寝ることだってあるものです。哀れなり人類よ!弥勒菩薩は箱舟の底でコケました。地獄があふれ出す前に、疾く東大神社へお参りいたしましょう。

    というわけで本書。の、Amazonリンク

    何かに取り組まねばならないが、どうしたいいかわからん、みたいな状態から、あるいはそのような状態に陥らないように、その手法が紹介されています。ただ、このような情報は断片的にSNSで振りまかれているようなノウハウに属するものでもあり、極端に画期的であるとも思えませんでした。他の書籍でも書いたと思いますが、そういう時代ですねえ。だからこそ、「耳にタコだけどやっぱりこういうのが真実なのかな?」と腑に落ちることもあるんではないでしょうか。

    自分の思いつき、発想を否定し、他人事のように掘り下げることで、感情あるいは本能的な自己防衛すら排しているように見える。自分の監視役は最後には自分自身だ。しかし自分など信頼に値しないので、紙に書いたりタイマーに頼ったりして具現化しろと。触れたり破ったりできるものに自分の一時的ハードコピペしていけ。脳内イメージと偏在オブジェクトでビッグブラザー互助会を形成しろ。「卵買って帰る」この文字列が自分自身なのだよ。買って帰ると冷蔵庫に既に卵があったりするので人間も終わりだと申しますが――。

    また、身近な目標から、ちょっとづつでも始めて、完了させていく。これを積み上げていく、とか、これこそどんな本にも書いてそうな印象だ。そんな簡単なことなのか、って誰もが思って、多くの人が実践できないから多くの人が実践できてないのです。習慣化という文脈でも表現されるかなあ。

    どっかで誰かが言っていた。人生にはハートマン軍曹が必要だ。その通りかと思う。願わくはあんな惨めな形でしごかれるよりも、もうちょっと誇りを持って日々の課題に挑戦が出来ればとも思う。そんな考えだって、邪魔な事があると本書は仄めかしている。思考に絡めとられているぞ、と。「嫌な思いをしたらその時の出来事を紙に書いて貼っておけ!!わかったかウジ虫ども!!」

    とまあ、実践に勝る学びなしというお話です。SNSどころか戦前から言われてねえかなあ。だとすれば、ま、そういうことなんですね人類~🤣🤣