ふでのゆくまま

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    寒中蒼天に紅の燻り火を仰ぐこと

    しばらく書いてないとダメだあああああああ。出だしが「そろそろ秋の気配が」、なんて下書きが何個かある。書き換えて徐々に公開していこうかと思う。それはさておき本日は、ここ数日のなにがしかをしたためる。

    駅前通りが充実した場所というのは羨ましいもんだなーと思う。もやもやさまぁ~ずのDVDを買ってからとりわけその思いを強くしており、長年住んでいるこの街はいかがなものかなとあたまん中で比べてみる。いわゆる庶民的な下町ストリートと、東京都内的な、新たな商いのお店が混在している感じある。ま、自分が引っ越して来てから駅前付近は開発しっぱなしの印象。にょきにょきとマンションが増えていってさー。いや建て替えはどこだって同じなんだろうけどさ、下町情緒的なものは深大寺に集ってしまったのかしら。で近代的なもんは吉祥寺に集うと。不憫。不憫なり三鷹の街。トトロさん助けて。

    しかし「モヤさま」マジで面白い。初めて日本のテレビ番組のDVD買ったし、大江の人気も頷ける。

    連休ど真ん中に出勤、そのため遠出はせずに(もちろん最初から予定はなひ)初日は朝から半年に一回の前職場訪問。五時半からそこら散歩。井の頭公演うろうろ。からの渋谷。昼過ぎに帰宅、爆睡など。2日目、午後から仕事なので用事を朝から詰め込み、昼前からどこかへうろうろしようと画策、秋葉原へ、と、いう、その途中でお茶の水で降りて歩くことに。

    聖橋からの眺めが素晴らしい。外人さんはあすこの景色が大変にお気に入りだそうな。お茶の水のホームなどから見える、秋葉原をバックにぎょっとするようなところから出てくる丸の内線、ビルの合間に消えていく総武線と中央線、なによりお茶の水駅の立地。いかにも日本、ということらしい。・・・ほんとかよ・・・あまりに日本に馴染みすぎた感じがあり、湯島聖堂でもいっとけって思う、が、そのご近所、神田明神というその存在自体を知らなかった日本在住35年がここにおります。行ってみた。

    (写真あるけどわざわざブログにUPするの面倒くさくなってしまった。ここ数年そうだ。ふぇーすぶっくとかああいうのが楽でねえ。写真の撮りためでもこのドメインで設置すればよいのか、ああそうするか。)

    花嫁入場、七五三に来た親子連れ多数、ということで一人で長居するのもいたたまれなくなったので早々に退散。秋葉原で買い物して仕事、トラブル勃発を、関係者一同、「あーあー」、な、テンションで乗り越えてスケジュール通りにこれまた退散、ブックオフで「鬼灯の冷徹」という漫画を買って帰宅。昨夜お湯を抜き忘れたユニットバスから微妙な匂い、お湯を張り替えてみかんを投げ入れてみるが風情はまったく出ない。数百円の音楽プレイヤーが一応動作したので満足、年末のスケジュールなど確認し読書しつつ寝る。

    こんな詳細に行動を認めた日記はいつ以来だ。日々の暮らしに自分自身が興味を持つこと、これ人生の楽しみ方で在る筈でございましょう。ああ人生に興味がなくなっていく、怠惰が何よりも致命的だということを、勤勉さからは学べない。

    お布団の角に目覚まし時計が転がっており、ぼんやり眺めていると、鳴った。

  • ううう,  ふでのゆくまま

    祖母の50日祭へ

    先月の末に祖母が亡くなってから一ヶ月経つんだな・・・なんて思っていたところ、すぐに50日祭となりました。仏式でいう、四十九日ですね。日帰りで郷里へすっ飛んでいきました。前日入りのはずがちょっと無理だったが、新幹線の始発だと十分に間に合う時間だった。正直荷物も少なくて助かる。

    自宅に新たな仏壇…とは呼ばないな…神棚でいいのかな…を設置。神主を自宅に招いて儀式、その後埋葬した墓地へマイクロバスで移動して儀式、隣町に移動して会食。帰宅、解散。小一時間ほど雑談し、帰路。僅かばかりの滞在ではありましたが、やはり顔も知らない親戚が、という話。葬儀のときに見た顔も多いんだけどね、どこの誰かってなるとなかなかわからないわけで。将来世話になるんだから、忘れちゃいけないんだけど何せ覚えるような会話も時間もないわー。

    オヤジが俺を写真を撮る係に任命したが、そういうのは遠縁の親戚とかに頼めよ、儀式の時も最前列なんだからパシャパシャやってられないのよ。そこで会食の時はうろうろして写真撮ったり動画とったりしてた。カメラ電池切れたので俺のスマフォ登場。写真と動画をそこそこ。後にプリントアウトして送れ、とか言われて萎える。お土産にするつもりだった8GのUSBメモリに入れて置いていこうとしたら、PCがスマフォをUSBデバイスとして認識してくれない。オワタ。またどこかにUPしてURLを伝えるようなことしないとダメなのか。

    会食の会場が良かった。料理も申し分ない。住宅地と山あいの境目に建っているような立地、まどからの景色は紅葉した森とご近所の雑貨屋の店先。好ましいじゃないか、外界を遮るためだけの竹林植えてマヌケなライトアップされてる料亭は燃えろ。

    墓地で儀式をしている時に、みな頭を垂れて祝詞を聞いていたんだけど、終わって頭をあげた瞬間に晴れ間が差し込んできた。祖父が「おおお…」と呻いて辺りを見渡した。俺もあまりの事に、たちの悪い悪戯を一瞬疑ったほどだ。映画みたいな、としか言いようがない完璧な間合いだった。キリストが起こした奇跡なんてものも、こんな程度の偶然だったんだろうなーと思った。

    途中の新幹線の中からも、山肌に妙に緑が明るい一帯があった。あれは晴れ間だったんだろう。この日、日本中が一斉に冬へ踏み込んだ。

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    非常時用の時計が壊れた

    震災以降、非常時のリュックを定期的に整備している。ものぐさ歴35年の俺には素晴らしいことである。なぜノーベル賞には災害対策個人の部がないのか!!!!といったような自画自賛を半年に一回ぐらいしていてまあ正直恥ずかしい。しかし「定期的な整備」ということには嘘は無い。無いが、賞味期限のチェックぐらいしかやることもないが・・・

    という

    いつもの荷物のチェック中に、非常時持ち出しの荷物からアラーム音が漏れてきた。小さい時計を入れていたんだけど、ごそごそしているうちにスイッチいれてしまったかな、と思った。取り出してみるとどういじってもアラームが止まらない。音程もおかしくなって不安を煽るアラームとなっている。うーん。壊れたな。電池を抜くと止まった。入れ直すとまた変な音程でなり続けた。電池を変えてもダメなので、何か時計内部の部品が壊れてしまったのだろうか。

    迷ったけど、まったく同じものをかった。

    アナログ時計にアラーム付き。ボタンを押すとその間だけ文字盤が光る。単四一本で動き、手のひらに収まるサイズ。安い。丈夫。(←実際壊れたから買ってるのに丈夫って評価はないなwネット上では丈夫って言われてますが)

    非常時の備えをいじる度に、無駄だろうか、という考えが頭をよぎる。そんな考えを払拭するように、津波の映像がまさに脳内に押し寄せてくる。被災したわけでもねえのに。実際に、こんなものが必要になるような事態が起こったとして、自分はどのぐらいの確率でこの部屋にいるのか考えるとMAXで見積もっても一日の半分。その時間の殆どは裸足で、身軽な恰好ですごし、5-7時間は暗い部屋で眠っている。助かるか、なんて運次第としか言いようがないし、非常用の荷物が最大限に役だったとしても一週間ぐらいで限界ではないかと思う。

    不安過ぎる。やるだけやったし、後は天に任せるしかない、などと言いながらも、もっとやるべきことはあると知っている。長距離歩けるような靴を勤務先に置いてはどうか?とかさあ。そもそも、そんなに地震が怖いなら東京離れれば済む。現実の暮らしと、その日その時。都合の良いライン上を生きようとする人が多すぎて、全くにっちもさっちも。現代社会では理想とはエゴのこと、非常時の備えに刃物を忍ばせる秋風の朝であった。

  • fuckyeahinternet,  ふでのゆくまま

    散らかし放題に生きており、お片づけほど苦手なもんはないが、そこに規律もノルマもないならば案外楽しい。名前は伏せるけど和民のような企業で働くハメになったような人とか、シビアな研究職とか、そんなものなんだろう。まあ世の中そんなうまくいかないもんで、効き目がありすぎるお薬の副作用で死んだりするように、一方を追求すると一方が貧する。走りつづけて死ぬか、寝転がって食われるか。嗚呼しかし、どっちかに針を振り切って死にましょう、なんて寂しくないか?

    おっと。それを咎めないのが人生というやつですね。ははは。なんでも死ぬ、死ぬ、言っているのはこのブログのタイトル上の演出であります。まあその演出も散らかし放題に向きを変えて、いき、そこを咎めないのが人生というやつですね。はははは。

    メールアドレスの整理などしていると、たまたまある情報にたどり着くことがある。具体的には過去にメールをやりとりしていた人の現在とかですよ。顔面帳とかのアカウントとか。うーん。どうするんだこれ。どうするもこうするもないけど、絶妙に「やあやあお久しぶりですね」なんて言いにくいもんだ。おほほ、おっさんの乙女心、見さらせうはは。顔面帳に足跡機能なんて噂が出たときには鬱陶しいと思っていたけど、足跡つけておくって行動も、あるしゅ戦略的であるように見える。ストレートに生きられない、それを咎めないのが、まあ、いいでしょ。

    la.dot

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    昨今のお買い物

    まずは、とある御座を挙げさせていただきます。二畳ぶんぐらいをカバーする手頃なお値段の御座をネットでお買い上げ。しばし日付が開きまして、はい届きました、梱包開けました、先ずはばさーっと広げてみたところが何と吃驚異常に臭いのです。あまりのことに咽せました。全体から漂い来る恐ろしい臭いです。異臭とはこのこと。どこかに変な液体でも着いていないかとひっくり返したりすると、その作りの粗末さに目を覆うばかりであり、目を覆うならば今度は異臭が際立って鼻に来るクソが死ね死ね死ね。

    天日干しなどで解決するやもと思いましたが、今年のガンガン照りの陽光に3日ほど晒すも改善はなく、飽きれてどうでも良くなって放置、ある日の夕立に濡れているのに気づいて「もおいいや」と遺棄を決心致しました由。作りが粗末なんでハサミで簡単に捨てるサイズになって嬉しいなったら嬉しいなー死ねー。まあ3000円でこんな口汚く罵るもんでもないのだけれど、あまりにアレでしたので。

    続きまして、映画DVDですが…こいつは項を改めて。

    次に、ディスプレイを載せてスペースを有効活用できます的な台。キーボードをしまえば机が広く使えます的な台。名前なんていうのかしらこれ。PC関連商品というカテゴリーで買いましたが、ホームセンターみたいな所だったら半額くらいじゃねえか、というようなお値段でした。あと5cm幅があれば言うことなしなんですがねえ。もう一つ上のサイズは20cmほどもデカくなり、そうすると収まらない&高いのでこの商品で妥協。こちらは満足。

    さて——–

    物欲という言葉の響きが愉しい。あれこれ所有を達成したいという欲求は、なければ困るという品々を求める事とは明らかに異なっている。この国では無ければ困る物は簡単に手に入るから、どうにも達成感がない。頑張って予算をやりくりしたとかはまた話が違うと思うんだけどね多分。物欲という響きには、欲しい欲しいという状態を心にもやもやと抱きつづけているニュアンスがあると思う。衝動買いなんて言葉もあるけど、そいつに比べるとどうも、淫靡な気配すらある。衝動買いの「買い」の部分を除く、残るのは一目惚れのような「きゅぴーん♪」とした感情。次に見かけたらどうしようかしらいやんいやん。恋する乙女かっつーのよ。はああん。

    という。

    ものすらインターネットで得ています自分、そんな珍しくもあるまいと思っている。マウスでコチコチとクリックすりゃおうちに届く、大変に素晴らしい。そりゃ買い物のほとんどがそうなるってもんだよ。でもやっぱり現物を目の当たりにするのとは違うんだよなー。人間の脳ってのは大変に出来が良いと思うんだが、やはり現物を見るのとネット上でスペックを眺めるのとは全然違うんだ。コップ一つでもそう。ただし、その、現物をみたいがために時間作っておでかけして、なんてことは殆どやらない。でも、買うつもりが無いとなると、現物を見て回るほうが楽しい。そりゃそうだ、ネットで適当な商品を見て回って何が面白もんか。

    ここに、商品と人間のあいだの関係性の変化が見られる(国語の教科書っぽく)

    現実のお店がカタログなんだ。現物そのものが見れる、場合によっては専門家の見立てをしてもらえる、なんと買うこともできる!すごい!ネットのお店は倉庫だ。そこに載っている全ての商品は自分用の在庫でしかない。発注手続きをすると、保管料金を運送料金を払って、家に届く。品物の値段なんて払ってる感覚がないよ!

    そういえばamazonの在庫が買える店ってできたようなニュースをだいぶ前に見たが。どうなってるのかな。