ふでのゆくまま

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    火遊び

    激動の時代とかいう言い回しを、若かりし日によく耳にした気がする。1977年うまれなので、1985年から2000年ぐらいまでを本件の若かりし日と仮定してみますと、世紀末というわけです。聖飢魔Ⅱのほうも印象に残りますが。SFに限らず未来を描いた作品にはこの21世紀を節目としてなんたらかんたらという舞台設定も多かった。コンピューター関連の2000年問題とか、今となっては珍騒動だけど、その日バイトだった自分は、「2000年問題のため一時停車します」などという案内を電車の車内で聞いた。1000年に一度の体験ができた。ハレー彗星見逃した身としてはうれしい。2038年問題まで生きているだろうか。まあ兎も角。珍騒動ぐらいの話に落ち着いてしまった。問題の起こりようによってはWW3ぐらいのインパクトはあったのだが。

    WW3即ち、第三次世界大戦というわけだ。「北斗の拳」という我々世代の男子ならみんな知ってる作品がありまして。舞台は核戦争で滅びかけた人類が辛うじて暮らしている世界。核戦争が起こったのは、作品冒頭で「西暦199X年、地球は核の炎に包まれた。」と表現されている。この作品の雑誌掲載は1983年から1988年なので、他の漫画、例えばドラえもんなんかよりは、作中の時代が具体的で、かなり近い未来に設定されているわけです。激動です。あべし。

    ドラえもんと北斗の拳て…作風が全く違う上記2作品で比較してもあまり意味はないのでしょうが、それでも、並べて見れば、世界が滅ぶという事に対するある程度のリアリティが1980年にはあったということでしょう。遠くない未来に、あるいは今現在滅びゆく我々に、救いの手は差し伸べられるのだろうか…みたいな、ね。1983年前後の情勢といってもピンとこないのだけど、自分の教養にあたると、ベトナム戦争は終わっている。イラン・イラク戦争は始まっていない。ユーゴスラビアの紛争はどうだろう。フォークランド紛争も80年代中盤ぐらいじゃなかった?マラドーナの神の手よりも前だっけ?ウーパールーパーのブームはこの頃か。ファミコンには夢中になり、未だにゲームに夢中だ。天安門事件もこのころじゃないか?

    …悲しいかな、きっと当時の世界は平和でありました、なんて絶対に思わない。中東あたりの火種は未だに解決していないですね。クリントン大統領の前で握手してたの、なんだったんだ。子供心にインパクトが強かったのだろう戦争の場面が今も思い起こされる。もちろんすべてテレビで見た。激動だったのはテレビもそうだったんだろう。今となってはもう…まあその…。今ではもう大きな事件、事故があると、ほぼ必ず現地でスマホで撮影された動画が残っている。ユーゴ紛争にしても天安門事件にしても、今やネットで見るものだ。

    ところでしれっと「火種」って書いてありますね。この言葉の意味ってどのぐらいの人がしってるだろうかと。「あべし」もどのぐらいの人が?当時はみんな知ってたのよ。じゃあ「スマホ」という言葉の意味はいつまで知られ続けるんだろう。激辛中華料理で使う香辛料だ、みたいな説明でも嘘が無いように思える。そら「踊り場」とか「足を洗う」とかみたいないろんな言葉がどうとでも嘘の説明が可能だ。それを間違いだと言えるのが教養ってやつなんだろうけど、ご家庭や教育の現場事情は兎も角も、教養のベースたる社会の状況の流れが激動なわけです。和服持ってなくても着れなくてもこれといって恥をかかないのは、そういう時の流れを経て現在があるから。

    火種についていえば、そもそも火をおこすなんてこと自体しないのが普通ですもんね。マッチで火をつけたことない人、実際に知ってますが、言われてみればそんな奇異なことではない。自分が最後にマッチで火をおこしたの何年前だって話ですよ。祖父母の墓にもチャッカマン的なアレ持って行って線香に火をつけるんですから。厳密には火種って発火機構の意味ではないと思いますが…とにかく。炊事場にもガスの炎はなく、タバコもみんな電子タバコに。Fahrenheit 451—それは電子羊が燃える温度。

    このまま炎が滅多に目にしないものになるならば、言葉自体が消えていっても不思議ではないかもしれない。直接言葉が消えることはない。インターネットのパワーにより、形式上残る。しかし人々のまわりから…間接的な状態や表現から徐々に消えていく。書籍も炎も知らない人にFahrenheit 451を説明するには?荼毘に付すとはなんですか?

    そしていつの日か「核の炎」という言い回しも意味が薄れる。それがポジティブな事であってほしいと思いますね。もっと強力な武器が一般になるとかいう事ではなく…。あっ。良い事言ったかもしれない。そういうことにしないと、思惑のない言葉遊びにはオチがない。いつものことだ。もがり、はその頃に流行ります。あとでマッチを売ろう。

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    主としての顔

    amazonさんには大変にお世話になっているが、実際、もっとお世話になっているのは配送業者の皆様という事になる。配送がなければamazonなんぞちょっと安い可能性のあるだけのお取り置きサービスだ。しかして、インターネットとの相性も非常に良く、大きく業績を伸ばして現在に至る。

    合わせて、配送業務の現場の疲弊っぷりも広く知れることになった。理屈で考えてもそらそうだろうという事だ。配送が土日に集中するのもそらそうだ、という話だ。一人暮らしの人間は家族で居を構えている人たちと比べれば、どうしても受け取りには難儀するわけで、仕組みのかみ合わなさに辟易する。

    といったところで、コンビニ受け取りなど諸々なアイデアが投入されることになる。その一方で、現場になんの工夫もないわけがない。ある時は、再配達を依頼した時間よりだいぶ早い時間に呼び鈴が鳴り、作業員から荷物を受け取った。「近くまで来たものでいるかと思いまして…。」こういう対応は有難い。またある時などは、帰宅してすぐに再配達の依頼電話をしたその数分後に荷物が到着した。( ゚д゚)ぽかーんとしながら受け取りのサインを書く。たった今再配達の依頼を出したところだ。言っておいたほうがよかろうか。あるいはもう一つ届くんだっけ??今受け取っているこれは再配達依頼をしたものと別物か?不安になって尋ねた。

    俺「早いですね。ついさっき再配達の依頼をしたところなんですが。」
    運送業者「先ほどお見かけしたので今ならいるかなと思いまして…。」

    !?

    確かにその日の帰路、荷物を降ろしている宅配便の車の横を通った。顔を覚えていたのか。ドライバーの配達範囲って思いのほか固定されているもんだと思う。数年前に毎週のようにamazonで物を買うタイミングが重なることがあり、毎回同じ担当者だった。今回届けてくれた人も、10回ほどは届けてもらっている。毎回週末で、毎回amazonだ。そら覚えもするか。

    amazonではドローンで荷物を配送するサービスの計画があるらしい。そういう一報を耳にしてから長いが、サービスが始まったという話は聞かない。あたりまえだ。例えば棒で殴って地面に落とし、そのまま品物を持ち去るとか…誰もが想像する。配送人を襲ってまで奪おうとはしなくても、ドローンだったらぶっ壊すことに躊躇がない、そんな犯罪者も絶対いる。

    うーん。今のところ決済が済んだものをコンビニ受け取りが一番デメリットもないが、扱える商品には物理的なサイズなどの制限がある。となると、いつでも受け取りに行けるなにか施設に届いていて、自分の都合の良い時間に出向く、ということが出来ればそれはそれで解決だ。いやそれって普通の商店やんけ。

    すっごいご近所にあって、常に受け取りが可能で、決済は別にするから必要なくて、欲しいものは絶対にあって、運ぶのに台車でも貸してもらえれば、なんなら台車の回収は”そちら”でやってくれるなら—自分は玄関まで届けてくれなくても良い。でもこれって配送業者のすることを自分でやってるだけだよな。そんな個別の好みに合わせるわけにもいかねーから、商店は「売れ筋」を店に置く。店によって扱う商品を変える。俺は薬を売るわ。んじゃおれは食品を売るかー。

    個別の好みを、今思いついたもの、というレベルまで商店が把握すれば、自分が足を運んでも売ってないなんてことにはならないのでは。いやいや、工場あるいは問屋から店舗まで、ふっと思いついた自分が向かうより早く運ぶ必要がある。ドローン以上に夢の話の机上の空論の。

    まあ一人で暮らしてるからだろって話でもありますよね。

  • ふでのゆくまま

    decade

    このブログを書き始めて10年経とうというのですよ。はっはっは。十年続けたことが人生にあるかと言われれば多分ないんじゃない?インターネッツを見渡しても10年続いたブログなんてそんな多くな、え、いっぱいある?ああそう。死にたい。

    10年。中学生がお姉さんになったりお嫁さんになったりもうちょっと複雑なものになったりする。僕はさえないおっさんになりました。富も名声もない。徳もない。死にたい。

    人類一般、亡骸には敬意を以て接する文化を持つことが多いようです。死体の自分が一番世間から愛されるのではないか、とか書こうと思ったが現状孤独死の可能性が一番高く、亡骸を通り越して腐肉ゴミになる。ご迷惑様でございます。死にたい。

    死にたい、という表現はこの10年のアイコン的な冗談なので特に意味はないです。死にたい。

    この10年での後悔があります。昨日の失敗を反省し明日に生かすということは出来るかもしれませんが、この10年の失敗を後の10年に生かせるという気がしません。死にたい。

    死にたいとか特に言わなくても人は死ぬし、死ななくても会えなくなったりするのです。もっと人に会っておくべきでしたが、奥ゆかしすぎてそういう感じになりませんでした。男女交際の話だけというわけではないです。例えば京都に遊びに行く、なんという時は勢いで会いましたが、その旅路で別の人と会う機会はミスりました。この10年よりもさらに前の10年になりますと、20代にして恥知らずだったりDQNだったりSNSとか出会い系とかよりも以前のインターネットだったこともあり、そこそこだった気がしますが、取材による試算では世間の人なみのようでした。死にたい。

    会えなくなる、というのは、遠方に移住する、連絡先を消失する。あるいは結婚などし、パートナーと自分が面識がないとなんかサシで会うのは憚られるのでなんかこう、とかそういうのです。これは常識的な判断かと思いますがまあ自分が歳をとっても冴えないのが悪い。死にたい。

    そろそろ死ぬにも飽きたので無になって俯瞰しましょう。

    この十年で自分が変わったこと、何か一つと言われればフィンガーソックスを履くようになった事。五本指生えてる靴下ですね。95%はこの靴下履いてます。これがまた実に快適でして、世の靴下はデフォルトこれで良いと思うのですが、そんな気配は一向にないし、履いている人もまだ少ない。生産されなくなってしまうのではないかしらと心配する。女性用のストッキングやタイツも五本指の物があるのでぜひ。

    あとはスマホを持った。白髪が増えた。ギターとか全部処分してしまった。買い物は殆どネット通販になった。大きな事故も入院するようなことも無し。しかしながら前厄となった2017年を考えると、2018年あたり本厄ではその死を免れる事能わずどこぞでぽっくり。2019年の後厄も過ぎた、そう、2020年ぐらいになれば、とうきおは神宮、競技場に人々のあがめる炎の中から蘇るのは私である。象徴としての炎からゆっくりと立ち上がり北辰への一歩目で臺から落ちて死ぬ。三日三晩青白く燃ゆるその芸術点は高きが故に、人類的な祭典となり、私には4年に1度炎から蘇り、芸術的にコケて焼け死ぬだけの人生がやってくる。

    そんな人生懲りごりんだ。

    2018年も御贔屓のほどを。なんだよこれひどい。死にたい。

  • ふでのゆくまま,  むじか

    世代をつなぐうた

    ビッグヒットには世代をつなぐ力がある

    読み人知らずなのだけど、その通りかと思う。現代以降に於いてはなおのこと、映画や音楽の映像は恒久的に残るものだろう。世代が変わりつつも。ほんで、その世代をつなぐ力とやらを持つビッグヒットというのを、押しなべて分りやすく感じることが出来るのは、ことに音楽においては、今はmetallicaかと思う。単にビッグヒット作品がある、というならば星の数ほどいるのだけども、今現在はmetallicaの存在が実にバランスが良いと思える。音楽の歴史なんかも鑑みれば、The BeatlesとかなんならJSバッハなんてところも候補になる。しかし先に挙げたような説得力のある映像が残る事や、現在も活動中であることを考えるとmetallicaに軍配があがりはしまいか。1980年代のバンドじゃねえの?ってその通り。しかし今でもアルバムを出すとアメリカのヒットチャート一位になったりする。ファンが多く→活動期間も長い→世代が繋がっているわけだ。

    何か企画モノに出演する頻度も高く、時には気さくなじいさまになったり…。

    また大きな場所でのライブの様子も見れば、若い人たちの多い事。親の代からのファンです、というのもあるだろうし、youtubeで見たらファンになった!というのもあるだろう。

    といった話の流れで。世界で一番みんなが知ってそうな歌ってなんだろう。アメリカ国家ではないか、とか言わないでちょーだい。世代をつなげそうなやつ。911のテロの時、拍手喝采で喜んでいた人々とも共に歌えるやつだ。自分はベン・E・キングの「Stand by me」かと思う。思うのだが、この選択もおっさん臭くて、本当に世代を繋げるに値するのだろうか訝しい。それでもね?この歌に含まれた、普遍的なメッセージの故に、潰えるものでもないと思うんです。普遍的であること。この価値観/事実の偉大さが10代/20代の頃にもっと素直に分かっていればね…。…いや、特に何をするわけでもなかったと思いますがwところが「普遍的」が宣伝文句に出てくるとまた距離を置きたくなるところが、自分も捻くれたもんだなと思います。

    はぁ。

  • ふでのゆくまま

    雲は剥がれて

    飛行機雲の…東から西へと一筋に沸き起こるがあり。冬空に映えて、出勤時からストレスMAXのご身分には実に染みるコントラスト。良い。

    電車でもあんな雲が沸いたりしたら格好良いかしらと想像する。例えば高架を走ると車両に白い雲がまとまり付き、後ろに流されると徐々に解きほぐされるがまま、やがて散ってゆく…。雨のF1みたいな風景になるんだろうか。となると空駆ける一筋の雲と呉場ればあまり風情がないかもしれない。あるいはド迫力なのか。

    …はたと思いついた。空を行く飛行機にも電車みたいなダイヤってあるよね?一応…。国際線乗ったことねえからわからねえけど、例えば毎日一便あったら、だいたい同じ時間に同じルートで空を飛ぶんじゃないの。毎回自由なルートで飛べるほど地球の空はスカスカと思えないし…常識的に考えて航路ぐらい決まっているもんだ。

    じゃあ同じ曜日の同じような時間には同じように飛行機が飛び、結果、同じような飛行機雲が毎回見れても良いのでは。しかしそうは思えない…。ググって答えを出すのは簡単そうだ。しかし自分で観察をすれば気付くことがあるかもしれない。実際、毎週のように同じ時間、同じ方向の空に出ているが自分が気付いていないだけかもしれない。

    東京には空がないと誰かが言った。帰省で往復する度に視界の差を体感する。それでもこの東京で、夕焼けや朝日に染まる街並みが大好きだ。曖昧で儚いグラデーションをぶっ壊しにくる街灯の眩しさとか、グラデーションを下から殴る黒一色のビルの陰の鋭さが、空模様の括りに紛れ込んでいるのが良い。

    自律。