どくしょかんそうぶん

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    「ハツカネズミと人間」…たち?を読んだ

    スタインベックの作品だけど、本書には翻訳者あるいは出版社の解釈によるものだろうか、邦題のブレがあるようだ。「ハツカネズミと人間たち」という邦題もある。原題は”Of Mice and Men”となっておりまして、複数形の単語をどう日本語のニュアンスにするかというブレなのかな。wikipediaによれば、そもそもこの原題も何か詩の一節ということで、日本語表現の正しさなんて。だいたい、mouse(の複数形mice)をハツカネズミと訳すのも本作の内容あってのものに…?あら?ネットで調べてみると、mouseとratの差みたいなところで、ハツカネズミと翻訳するほうが自然らしい。へー?例えば著作権ネズミと忍者亀の師匠みたいな差でしょうか。

    何言ってんだ。

    読み始めて30分もしないうちに、どうも、この話をしっているような気がする。鼠を隠し持つ人物。漫画版でも読んだだろうか?映画かゲームで同じ設定にでも触れただろうか。なんなら、最後の後始末も、何か戦争映画で似たような場面を見たように記憶している。たしか、楽しい思い出話をしながら介錯してた。

    本作はそこまで長くもなく、スジもわかりやすいので「ふーん」と言ってるうちに読み終わってしまう。貧しい流れ者の労働者という主人公たちだが、舞台は牧場一個だし、作品内の時間経過も3日ぐらいの話(だと思う…)1937年のアメリカという情報を得ても、作品の舞台には特に感じ入るものはなかった。知恵遅れの相棒の面倒を見るという状況のほうが、現代の日本ではウッとくる人が多ことだろう。かわいがるつもりだったのに、力が強すぎて殺めてしまう。主人公も弟分をかわいがりたかったに違いないが、殺めるに至った力と言うのは、まあその、なんだ。

    ところで。本エントリに際してハツカネズミについて調べていると冒頭のような事実を発見したのだが、リンクをたどっていくと当然、ミッキーマウスの項目があった。恐るべきかな著作権マウス、wikipediaを以てしてもその容貌を載せていないのである。女性器の画像だってハーケンクロイツだってあるのに、あのネズミの姿が無い。これは恐ろしいことだと思わないか。本作「ハツカネズミと人間」は、ミッキーマウスが人気の出たあとの発表であるからして、wikipedia云々は流石にありえないが、それ以外にもどっかに何か仕込まれていたらおもろいかもな。そもそもが詩からの引用なので、やはりそんな含みはありえないんだけど。

    しかし読者は本作に100年の歴史を追加しておるのだ、何か悪意を込めたパロディでもやれないかな🤔

    「ハツカネズミと上級国民たち」とか。

    何言ってんだ。

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    「ヴェニスに死す」を読んだ

    所々、早口言葉かよ、というほどに読みにくいなあと思う。これは古典的な海外文学を読むと毎回おもってしまうんだけども、この言い回しは何某の事を言っているな、とか、明示されていないけどもあのなんたらの引用だな、とか知っている人には明快なのかもしれない。発表当時の人々も、そうして読んだんだろうか。

    じじいが少年に(*´Д`)ハァハァする話なんだけど、めんどくさい言い回しが続いていくだけで面白くはない。内容についても特に感想がない…kindleで拝読したんだが、本を読み終えるまで20分とか表示されている箇所で本編が終わってしまった。残りはあとがき。風呂で最後まで読むかと意気込んだところだったので、二分ほどで終わってしまいずっこけて浴槽に沈んだ。しょうもないのであとがきを読んだけど、作者の名前はトーマス・マンだそうな。世界史で出てきたか?wikipediaも確認したけど、知っている著作もなく。興味も膨らまねえは。日本語翻訳版には「ヴェネツィアに死す」という書籍もあって、なんだこれ???と思ったが、ヴェニスとヴェネツィアは同じ都市だった。現地語と英語読みか。トウキオと東京のパターン。一番の収穫はこれやないけ。

    以上。

    ところが。

    モデルなった美少年は実在しており、しかも身元が割れているという!ウホッ。wikipediaに当時の写真まであるが、1911年の写真ではなんとも言いようがなく。自分も本書を読むには読んだので、どんなキッズなのかイメージしながら読んだ。西洋人で、じじいがウホる美少年。自分の記憶にあてがえる人物ストックはない。自分はなんとなくウィーン少年合唱団に居そうなキッズを連想した。作中で年齢に言及あったかな?ケが生えるような年代だと、ターミネータ2のあいつ。

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    「Newton」二冊読んだ

    「確率パズル」と「数学パズル」という二冊。昭和時代の言葉では頭の体操ってやつだ。電子書籍でお買い上げしたんだが、この値段はいくら何でも高いな。

    まずは確率パズル。直感的な期待値が実はそうではない、という話が半分ぐらい占めていたような気もするが、中身はこんなもんだろなあと想像通り。結構難しい内容が書いてあると思う。なぞなぞコーナーまであったけど、なぞなぞは唐突に小学生向けみたいな難易度になっているのは何だ。確率とは銘打っているけど、数列とか組み合わせの話にもなっていく。各設問とも、ちゃんと解説されているが、「高校の数学の授業で聞き流したな~」っていうような説明がでてきた。式を作ってグラフ化する…あー、そんなのもやったね。グラフ上の図形で解法を導けるみたいなの。天秤をn回使って偽物を…という定番の問題もでてきた。

    こういう知識を実用的に使おうとすれば、「効率」とか「儲け」関連で使えそうではある。実際使う機会がそんな頻繁に訪れるかは疑問だが、それでも知っておくこと即ち教養というわけだ。こういう教養のストックが応用に結びついて実用を得る。これが論語にも書いてある確率を求めてみよう。

    次に数学パズル。冒頭はマッチ棒移動パズルがならんでおりました。す、数学…?ピザを等しく分けるには、とか、切り抜いて組み合わせてできる図形は、とか、こちらのほうがさっきの本よりパズルっぽい。テレビ番組なんかで出てきそうなクイズの形式。なんと言ったら良いのだろうか、普通のパズル。数学とか枕詞要らねえんじゃないの、と思わなくもないが、直角に交わる補助線を引いてから~~なんて考え方は数学カテゴリか?

    こういうパズルで素人にも理解できるようなものは、ネタ切れなんだろうか、知っているものもいくつかあった。「3と5と10リットルの容器で4リットルをはかるには」とか「1時間で燃え尽きる蚊取り線香二つで45分をはかるには」とか今更何が面白いんってんだ。実際に答えを出せなくても、聞いたことあるなーってなると、わざわざお金出して買うほどの中身ではなかった。残念。

    読んでも三割も理解できないような記事のほうが、却って一時的な満足度が高いかもしれない。ま、まあこれら二冊のような「何に逃げたら買う気になるんだおぉぉん?」って煽られそうな内容でも、教養にはなりましたってことで…。重力加速度を無視して動く点Pをとらえる日は遠い。

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    「AKIRA」を観ろ今すぐ

    なんでも、作者の大友克洋氏の何かが来年発売になる記念ということで、2021年12月28日までYoutubeで無料で見れる。お前らも観ろ。アニメでAKIRA、ゲームでportal。この二つは義務教育。細かい話はオタクさんがたに任せて我々パンピーはとにかく観ましょう。

    「バックトゥザフューチャー」と同じで、小間切れに引用された場面とかが幾つもネットにある。本編通して観るというのは子供の頃以来だ。その子供の頃にしたって、ローカルなお祭りとか垂れ流しにされているのを見たような記憶。電話帳みたいなサイズのコミックは、大人になってから読んだ。

    https://www.youtube.com/watch?v=kVaTwhJ_PHg

    まごうことなき傑作。例えばこのサムネイルの場面。バイクに乗ったまま横に滑らせて、視線をカメラに向けながら遠ざかる。この場面のオマージュ、パロディだけでも世中に幾つあることだろう。

    個人的にはやはり漫画版の印象が強いため、このアニメ版は「なんか唐突に終わったなあ」という印象になる。爆発の場面繋いでエンディングまでワープした、みたいな。とにかくみましょう。

    あ、オマージュを集めた動画もあった。のび太も出てくるんだけど、あれ本物か?ww

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    「寄生獣」を読んだ

    懐かしい。以下、ネタバレです。

    Amazonプライムで無料枠で3巻まで読んで、知っている場面と記憶にない場面があった。多分、以前読んだ時には立ち読みでもしたんだろうなと思う。床屋で待ってる時とか?4巻以降を電子書籍でお買い上げ。やはり所々知っている場面があったりした。

    連載は1990年から、1995年。当時はやっていたタイプの漫画のように、すごいパワーを得た主人公が格闘アクションする。連載時期はドラゴンボールで言えばナメック星に向かう~連載終了までの期間。本作は強敵と戦うだけではなく、地球と人類のありかたについての疑問を呈するというシリアスなテーマがある。最終巻、作者の後書きも載っているんだけど、印象深い一文がある。

    「寄生獣の開始・第一話を描いた頃、世間は現在ほどエコロジー流行りではなく、環境問題についてもさほど騒がれてはいなかった。つまり、『愚かな人間どもよ』と言う人間が滅多やたらにはいなかったのだ。」

    寄生獣 10巻あとがき

    作者のいう「エコロジー流行り」というのが具体的に何かはわからない。ただ、この作品が連載されていた当時の自分は中学生、高校生だった。自然環境への取り組みがされていなかった、なんて記憶はない。ダイオキシン問題で、そこいらの庭の焼却炉でゴミを燃やして処分することなんてできなくなった。フロンガスの件もこの頃じゃねえかな。人類がなんとかする必要がある、という認識はだれしも持っていた。それこそ「人類が悪い!」みたいなのはモチベこそ違えど似たようなことが聖書関連にもあるとかないとかあるとか。

    適当な事いうておりますが。

    で。

    最後まで一気に堪能したんだけど、物語の最後のほうで少し首を傾げるところがあった。市長を名乗る寄生生物を射殺したところ、実は市長は普通の人間であったことが判明する。なんとビックリ…ところが、その人物はミギーにより寄生されたものと判断されている。5巻ぐらいかな、街中で演説しているとき、ミギーによって壇上に六人いるとカウントされていた。その六人に含まれている。ミギーは「私もこの距離では見分けにくい」と言っているから、確かに彼が寄生されていると断定はしていないが、壇上には彼を含めて六人しかいない。おやおや?

    こういうのが伏線っていうのか?(どうも、伏線が伏線がって読書感想文ばかり目について辟易するんですがー)

    こいつが寄生生物組織のボスであると、一部の隙もなく読者に思い込ませるためのフリなんだろう。作中では、街頭演説の場面の後すぐに、ミギーがこの”人物”の事を評している。「人間に成りすまして勉強しているうちに、本当に政治に関心をもつようになったのではないか」とか、「案外立派な市長になるかもしれん」とか、「戦っても勝ち目もないし」など。これで人間であると思って読んでいた読者はいないんじゃないかなあ。

    ところが、人間だと判明したときの「あれ、こいつ人間だ」で済まされてしまうのもまた見事な展開だと思う。こいつが人間だったという事は、どういうことか。読者に投げかけているわけだ。演説の場面は、正体不明の敵を偵察に行ったら想定以上に大人数でマズイ、という緊迫した場面。この場面ではト書きでしかない彼の演説の部分だけあらためて読み返してみれば、割と普通の政治的主張に読める。実際は、連載当時では尖っていたのかもしれない。

    どうも人類の存在自体が災いであるという発想を人間自身が持つということ…そういう発想に至ること自体が、そういう目的の”生物”が誕生すること自体も、生命の大きな仕組み、流れの中にあるというなら?

    あほくさ。

    なお、本作はイエローモンキー種以外の人類は登場しない。地球と生命という大きなテーマがありながら、地方都市の騒動で畳んだのも、見事なもんだなあと思いました。本当にそういう処理をしそうじゃないすか。