どくしょかんそうぶん

「めし」を観た

カレーは飲み物、めしは観るもの。

本作は林芙美子の小説を映画化した1951年の作品。とwikipediaに書いてあるが、タイトル以外に興味を惹かれた点はないのでとりま見てみよう。結婚してしばし経ち、ちょっと気まずくなった夫婦があれこれして仲直りするお話。雨降って地固まる。

映画の内容はなんとも言い難いけど、あらすじ読んだらその通りというか。本作は作中設定どころか、リアルライフでもこの5~6年前には戦争してたわけで。黒沢作品もそうだけど、戦後数年の作品を観るとどうも自分は「戦争で何もかもひっくり返ってなくなった」みたいな印象を強く持ちすぎているんじゃないかと思ってしまう。文明が滅んだわけじゃあるまいし、戦争前後に当然文化の繋がりがあるという当たり前のことを、忘れてしまう。戦中も、貧しくとも普通の暮らしだってあったに違いないのだし、妻としての人生とは?なんてテーゼもあったに違いないんですわ。たぶんね。

やはり作中の風景が面白い。台所にはかまど?ガスコンロが最新鋭の設備として広告に出てくるのが1951年ごろらしい。でもやかんがガスコンロっぽいものに乗ってるように見えるなあ。電球は傘のところのスイッチを捻って点ける。これも祖父母の家にあったような…。キャバレーなんてものに人が集まってて、売り上げはそろばん弾いて帳簿に記入、洗濯板でがしがし洗って。それでも「プレゼント」なんて言葉がセリフに普通に出てくる。夫人がはいてる靴は、雪駄っていうのか?人々も、大して今と変わらないじゃないか。作中にスマホを放り込んでも、そんな違和感ないのではないか。

物静かで頑固なおやじが、卓に着き、「めし」と呟く。奥方が食事の用意をして、家族が集まり食事が始まる。そういう景色は自分の記憶にある。実体験だか、テレビでみたんだかわからないが、登場人物は誰でもよい。夫と夫人だ。何だよ偉そうに、って思う人もいるだろう。自分も子供の頃はそうだった。カーチャンが忙しそうにしているのに父親はどっかと座って「めし」だなんて横柄な。いやいやそれは違う。実際、家族を食わせるために苦労している父はとても偉いのであります。

家族とか家庭のありようが変わりゆく21世紀ですが、どのみち一人では暮らしていけません。習慣もまたゆるゆると変わりゆくと存じますが、どこかしらで”習慣”の枠に嵌っていくのも人生でしょう。いびつになった枠との軋轢を滑らかにするのも、結局はその人の腕前なのではないかと、思うのです。

物語の感想がないな…まあいいや。めしにしましょう。

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