どくしょかんそうぶん

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    「超雑談力」を読んだ

    「初対面沈黙もう怖くない!」

    メンタルヘルスの本みたいなあおりがついてますが、内容は良くありがちなビジネス書だと思う。ノウハウの本。続いて「誰とでも信頼関係が築ける!」とも書いてあるけど、これほんまでっか…?

    本書は「回避できずに雑談せねばならなくなってしまった」事態への対処方法まとめ、というコンセプト。嫌々ながらでもそうじゃなくても、ぽつんと二人になることってありますからね。ただ、勤め人の経験をいくらか積めば、ここに書いてあるようなことはある程度身についていると思う。これは大人になるにつれ身についていくものというか…常識というか…それでも、自分の常識をいちいち見つめなおして戦略を組んで会話する人も少ない。なんとなくでパターン化してあるのよ。

    コンサルとかならまだしも、知らない人とばかり会話する機会は普通はそう多くない。半端に顔見知りになった後のほうが困ったりもする。そういう場面での対応もできそうなことが本書に書いてある。このテのスキルを体得している人からすれば、本書の内容はやかましいマナー講師のように感じるのかも…なに勝手な事言ってんのこいつって。自分も本書を会得したとは言わないが、最後まで面白く読んだ。

    本書は基本的に「〇〇なとき→××しましょう」という構成で淡々と続いていく。これはPVP(人vs人)ゲームのチュートリアルみたいで読みやすい。例えば格闘ゲームとか、オセロとかの初歩の理屈。選択肢の狙いとメリットが分かりやすい。

    何を話していいか困ることって確かにある。こういう時に、芸人や噺家みたいに面白トークを披露しなくては!と思う事が誤り。雑談する理由は、会話でお互いに警戒心を解いて、次の関係性へシフトするための助走みたいなもん。オチとかいい話とか要らない。なんとな~く会話のラリーが続くことが大事。

    自分はとても納得した。なるほど。確かに、変なエピソードトークぶっこんで滑る人もいる。若者言葉でいうならわかりみがふかい。じゃあ具体的にどう会話のラリーをつづけますか~?というあたりは、本書を読んでくださいまし。

    本書の具体的な”対策”を自分に置き換えながら読んでいくと、だんだん、ただ雑談のために自分の本心とは離れていくように思えてきた。本書を素直に実践するには、実は結構な豪胆さが要るんじゃないか。あるいは逆に空っぽか。初手から自分側は打ち解けたというテイでふるまう必要があるように読めてしまった。でもやっぱりそんなの難しい、気後れしがちな人にも向けて、かなり具体的に書いてある。本書通りに相手を”取り扱い”すればできそうだなあって思えればそれはそれで良いのかね。あくまで次の関係性までのステップと思えば…。

    本書を読んだ人は、実際に頭の中でシミュレーションしてみるはず。同僚、上司、取引先、を相手に、自分ならどうするか。と同時に、自分の相手が「こんな感じ」だったらどうだろうとも考えるだろう。本書の処方を忠実に再現してくるような対応…「なんだこいつ適当なことばかりペラペラしゃべるやつだ」と思うだろうか。会話上手で助かると思うだろうか。

    こころのどこかで、打ち解けたくないタイプがいるから、こんな事を考えてしまうのか。そもそも、相手もこちらも打ち解けるための手段でしかなんだから、受け入れるのが良いのだろう。お互いそうやって打ち解けたというロールプレイするための手段なんだから、広く豪胆なこころで以て臨む。

    しかしこれ…お互いに誤解するかもしれないよな。その場限りのアレなのか、仲良くなりたいのか…そんな誤解を含んだままの二人が「この前はどーもー」と会話を再開する。どうなるんだろう。本書の教えでは、忘れたことは素直に聞き直せば良いし、会話を止めずに先へ進める、変えたい話は変えればいい。人間関係が遭難しそうだ。誰とでも信頼関係ねえ…前へ進んだ人間関係はそうそう変えれない。センテンススプリング。用法容量を守らなくても便利なところだけ齧れればいいけど、こういった書籍は適切に服用しないと危ないんじゃないかなと思いました。

  • どくしょかんそうぶん

    「蟹工船」を読んだ

    🦀

    買ったら漫画版だった。あらま。まあ良いか。電書の表紙で判別できるようにならんもんかね。原作は小林多喜二で、漫画の作者は原恵一郎という方だった。名前に覚えはなかったが…読んでみると麻雀の漫画を描いていた人だと気づいた。

    さす蟹、いまさら本作の内容で衝撃を受けるようなこともなく。わたくし汚い大人になりました。それでもね、21世紀なのに酷いなあという現場はこんにちの日本でちょくちょくお目にかかる。自分だって、法の定めではアウトな勤務条件を体験したことも御座います。とはいえ拷問されるとか死んだら海にポイされるなんてことは無いです。代わりに、近代ではもうちょっと巧妙になったのです!あゝおとろし。三万人のヒステリア。

    本作の筋書きざっくりと言えば、もう我慢ならんと団結し、一揆を船の上で起こしたようなもん。漁民一揆。そういえば、一揆とか年貢の話は学校で学んだ。大塩平八郎のLANというジョークもありました。あれは農民ではなかったっけ…。それは置いといて、当時の漁師は年貢ってどうだったのだろうか?いわゆる士農工商の…工に含まれていたのか?ググってみる。

    (((各自学んでください)))

    つまり、蟹工船で働いているのは農地でいうところの、小作人ってことになるのか。考えてみれば本作は士農工商とは時代が違いすぎた。一揆からの→年貢なんて発送の例えは無知でアオい発想でありました。時代はWW2のカウントダウンぐらいの雰囲気だろうか。それでもこの状況では、殿様が社長に変わっただけでねえべか!という憤りもあるんじゃねえかな。

    作中に共産主義思想を伝えるロシア人が出てくるが、本書刊行の1929年は、スターリンが独裁体制を確立した年でもある。わざわざ作中に登場させた理由はなんだろう。ホットなトピックだったのか。アカの思想について、世界的に喧々諤々だったんだろうか。本作は「俺たちの戦いはこれからだ!」みたいな終わり方をしているので、共産主義に警鐘を鳴らしているのか、賛美をほのめかしているのか、どちらだろう。労務者に報われない物語なので前者だと思うんだけどねえ。

    作者について何も知らないので調べてみると、出版した作品の内容ゆえに、権力に目をつけられてしまい、拷問の後死んだとある。おいおい近代とは。昨今、例えば「ブラック企業良くない!」という意見をどうどうと個人が主張できる(主張もなにも完全に悪いんだが)なんなら世に訴えるケッテ的な情報を流すことができる。パ〇ナを批判することも竹中平蔵のYoutubeチャンネルに低評価ボタンを押すこともできる。そんな人々が拷問されて死んだという例は聞かないが、近代はもっともっと巧妙になったもので…。

    なお、wikipediaによると、2008年に何故か本作のブームが起こり、蟹工船の読書感想文コンテストが行われたという。なにやってんだよwwwヘイトを向ける相手を見つけ、あるいは困難に立ち向かう人に寄り添うポーズで団結してパワーを得られた気分になってしまうのは、近代の若者のイクナイところだというようなゴーマンかました人がおりましたね。あーこれ20年前の話だ。現代は近代よりもっと巧妙になった。

    近代のカニ漁はこちら。ハイリスクハイリターン。

  • えさのじかんだ,  どくしょかんそうぶん

    「ミスター味っ子II」を読んで食べた

    初代の「ミスター味っ子」は単行本で読んだ。自分が読んだのは、多分中学生の頃かなあ。懐かしさついでにwikipediaの情報をざっくり眺めると、どんな料理勝負したのか、ほぼ全部記憶にあった。好きだったんだねえ。最終回が妙にしんみり感動的に終わったのが印象的だった。

    で、本作。Ⅱってどういうことよ。子供が出てくるのかwwwって思ったら本当に初代主人公の息子だった。初代に引けを取らず料理勝負に明け暮れるという作品。読者層が大人向けなんだろうか、農家の窮状とか過剰なサービス要求とか実店舗営業の難しさ、というトピックがちょろちょろ出てくる。前作のキャラクターもふんだんに登場して、Ⅱと名付けるに相応しい内容。おっさんホイホイですわね。自分が初代を読んでから30年たったわけだし。本作クライマックスの「長い…夢を見ていたようだ…」というセリフも初代を読んでいれば心に刺さるひとこと。

    さて。

    おっさんになった今。30年経った今現在、まさか一人で暮らしているなんで当時は想像もしてませんでした。ぴえん。でも今では好き勝手に材料を買う事も出来るぞHAHAHA。本作のメニューを何か真似て作ってみるか?なんて欲が出てきた。ただし、作品の設定上、魔法のように食材が沸いて出てくる。聞いたことも無い特殊な高級素材や調理法、器具がやまほど出てくる。だから、そんな本格的に真似できそうにはないんだ。それでも、作中に出てきたもので形だけでも真似できそうなものないだろうか。

    ネギ油でネギと豆腐を炒める。本当に明日にでも出来るけどそういう事じゃないんだよ。初代も読んだんだし、幅を広げてそっちからも何か…というところで、初代でもⅡでも登場した料理があった。おこげに中華あんかけをかけたやつ。米を鍋で炊けばおこげを作るのはできるけど、面倒くさいし煎餅でいい。あんかけは中華丼の素で良いじゃん。まな板すら使わず味皇を吠えさせることができるぞ!

    本当に作る由

    画像も動画もないのは仕様です。

    まずは煎餅から。選び放題だけど、お米の焦げた感じに近くないとなあ。まずは米じゃないと。南部せんべいとかポテチとかおからクッキー脱落。玄米フレークなんかも除外していこう。えびせんいかせんたこせんは、うっかり優勝してしまう可能性があるので次の機会に。濃い醬油せんべいも、あんかけを前提に考えると違うかなあ。たぶん揚げせんべい方面がよいのかね。じゃあ歌舞伎揚げか?少しでもアツアツ、できればあんかけでパチパチ爆ぜるほどのものが用意できると遣り甲斐がありそうだ。油分の多い揚げ煎餅ならレンチンに耐えるのでは?いや逆にだめかもな?

    コンビニによく置いてある「しゃり蔵」とかいう煎餅が米の感じがあって良いけど、もうちょっとサイズが大きいほうが良い。サイズ感に関しては、まずは箸で食べるのを目安としてみよう。同じく亀田製菓の「手塩屋」が良さそうだけど、食べたことがある。今回の用途には、うまみがありすぎるかな?

    この時点で迷いすぎて、「レンチンご飯をいったん食べれる状態にしてからフライパンの上で押しつぶし、そのまま加熱して焦がす」という方法を思いつく。これもうっかり優勝してしまうので、今回はあくまで既製品の煎餅でいってみよう。ネットに情報を求めると、これという商品がある。しかしご近所にないので、やめた。適当にそこらでお買い求め。

    中華丼の素のほうはあまり選択肢がない。それこそ、そのへんで売ってるもので。味にはそんな期待はできないと。ところがこいつをパリパリの煎餅と一緒に頂くとですね!別に美味しくありませんでした。中華丼のレトルトの弱さ。長崎ちゃんぽんの麺とせんべいとりかえるような方法で頂くとまだマシかもしれない。

    本書のように希少で高級な材料を並べなくとも、手間暇かけて作らなくとも、メシはうまい。料理は愛情との金言もあるが、愛情がなくともうまい。犬や豚、人参にキャベツをも手懐けた、人類の執念が薄汚れたキッチンで結願した。楽園を追放されたあの女の罪は、美味い果実を選別したという事にある。

  • どくしょかんそうぶん

    「塗仏の宴 宴の始末」を読んだ

    一応ネタバレ。ぴえんな人は死んだふり。

    結局、「支度」も「始末」も読んだ。こンだけ長いのを読んだのは初めてだったかもしれないサ。案の定、誰がどこと関係があってどこどこに移動した、とかあまり把握できなくなった。メモとかとって横に置きながらじゃないとだめだあ。とはいえ、流石に全く右も左もわからんほどに忘れるものでもなく、存分に楽しめた。正直な話をすると、加藤〇〇って誰だか最後まで読んでも思い出せなかった。主人公が「うっかり関わった」と失態を認めたものなんだけどな。ほんとう?誰だよ。

    そういうわけなので、おそらくは他の人よりも体感でマシマシに散らかったスジがまとまり始めた終盤はお見事なものでした。なぜてんやわんやで現地にまで移動する必要があったのか、という点にもちゃんと回答があった。各人が催眠術で自分の記憶を…。本作には「不思議なことなど何もない」という決め台詞みたいなもんがあったが、本作のメインのトリックである催眠術こそがたいそうに不思議なものだと思うんだけど…まあそこはお約束みたいなことかな?よくわからない。「記憶を改ざんした」で済むんだから不思議と言わずしてなんと申さむ。んでシレっと記憶が戻るってなんだエスエフかな。

    読み終えて、冒頭。「宴の支度」の冒頭を思い出す。あれは死体だったのではないか、みたいな文章があったと記憶している。確認してみると、文章はちょっと違ったが、その「場」にいた人物の名前が書いてある。その後しばらく読み進めると、物語の後半でも出てくる人物、これらの人物が何年までどこどこにいた、みたいな情報もさらっと書いてある。「建物の位置は同じように思うが住んでいる人の話が容量を得ない」という核心まで触れるようなことを書いてある。とても記憶しながら最後読めるものではないと思うけど、これを覚えておかないと後ほど意味が分からないような小説は作らないだろう。このテの情報などをちゃんと覚えて読み進める読者なら、先の展開が読めたぞってニマニマできるんだろうか。なるほどなるほど。

    そう思って何か所か飛ばしながら読み返すと、やっぱりこれどういうことだろうか、と思う場面がぽろぽろでてくるけどもういいや諦め。自分が忘れておるんだろ。

    記憶がどうとか出てくるのでまたBIGBROなんとかってオチで〆ようとしたけど、イマイチなのでボツであります。以上。

  • どくしょかんそうぶん

    「塗仏の宴 宴の支度 」を読んだ

    本書を知ったきっかけは、ある漫画だった。作中の人物がこの「塗仏の宴」を読んだと描いてあった。その人物はおそらく桜玉吉だったと思う。十年ぐらい前か、あるいはもっと前かもしれない。昨年の冬、何か読もうかなともろもろ物色しているときに、ふっとそれを思い出して、本作を購入していた。

    さて。

    複数話が収録されている形式と知らなかったので、その最初の作品である「ぬっぺっぽう」の最後は唐突にやってきた。とても面白かったのに、そんな〆はアリなのかと憮然としたもんですが、気を取り直し、続く「うわん」を拝読して驚く。繋がってるのか。

    ーーー桜玉吉はこう綴っていたと記憶している。「たまさか徹夜で堪能した」

    文字量も情報量も多く、まさしく堪能。作中に識者たちの会話が続く場面は、あれは作者の脳内で組み上げているんだろうか。凄いことだ。おそらくは取材に行ってインタビューをしたとか、充実した資料があってのことだとおもうが、とにかく濃密。小説を読んでいるというより、歴史モキュメンタリー、あるいは妖怪研究家のツイッター連投を読んでいる気分になる。作中、また巻末の参考文献に柳田國男と折口信夫の名前が出ていた。高校生ぐらいかな、遠野物語なんて本があると教諭から教えた貰ったような…あとは姫神のCDアルバムとかで知った名前かしら。

    読み進めながらも、どうやって終わらすねんと思っていたら、唐突に何か繋がりのある展開になった、かと思いきや、終わってしまった。…??どうも、この「宴の支度」のほかに、「宴の始末」シリーズがあるらしい。同じぐらいのボリュームっぽいが、ちょっと手を出すかためらう。どうしたもんかね。本を読むのは疲れるお年頃。

    小説の登場人物って、頭が良く、ものを考えるタイプじゃないと演者として務まらないのだと思う。そうじゃなければ作者が書く内容に乏しくなるのかもしれない。特に考えるでもなく思いつきと愛想笑いだけして順調に生きていては、物語のスジができないんじゃあないか。本作はよくもまあ、というぐらいに書いてある。二人の会話で読み進めるのに小一時間ぐらいかかった。人間っていうのは、こんなにゴタゴタ自分についての思索を巡らせながら生きるもんかね?なにか縁遠い。SASUKEを観るかの如くに、登場人物が縁遠い。故に楽しめたとも思うがどうだろう。今までに読んだ小説ってどうだったっけ?忘れたなあ。

    そうなのよどうしませう。どうせ自分のこと、間をあけると内容を忘れてしまう。「宴の始末」を読むかどうか。「宴の支度」は三巻。個人的にはこの分量を一週間ほどで読むのは、なかなか頑張ったぞ。ニートみたいな暮らしのころは、このぐらいは一日でさくっと読んだもんだが、もう難しい。初老だなあ。実際、二巻の半ばごろにはもう登場人物の名前と関連性を忘れかけていた。この人だれだっけ?なんてね、いつものこと。現代的解釈によれば不思議な事などではない。ようかいのせいなのだ。

    …:;(∩´﹏`∩);: