どくしょかんそうぶん
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「サルでも描ける漫画教室」を読んだ
AIが動画を作る2023年に、1990年刊行の本書を読む。21世紀愛蔵版とのことだ。他でも耳にしたことあるけど、愛蔵版って具体的に何??時は平成2年。バブル経済のお弾け遊ばせられる年ながら、ちびまるこちゃんとスーパーファミコンが子供たちに人気。自分も実際にその時代をエンジョイしたキッズの一人であった。記憶にあるにはあるが、今となっては遠い世界と言って差し支えない。東西ドイツが統一され、ナミビアの独立によってアフリカから植民地が無くなった。本書冒頭には「紙の消費量は、その国の文化のバロメータだと言われます」とある。今そんなことを口にすれば蛮族扱いされかねないし、さらにはサブリミナル画像を仕込めとまで言い出す。遠い。遠い時代の古い書籍だ。
「教室」ということで、漫画制作にあたってのノウハウを愉快に紹介するといった内容。漫画家を目指した事がないので、どこまで本気でどこまでジョークなんだか微妙な内容もある。とはいえ、それは本作の味であり、噓八百並んでいるわけでもない。制作技法に始まり、漫画のジャンルごとの要点、そのカラクリを解説していく。ちゃんとした学びもあるだろうけど、今風に言えば「漫画あるある」という雰囲気かな。正直に言えば、2023年現在においては本書の漫画制作ノウハウは新しい情報とは言えない。でも自分にとって必要な情報だったら、それを古文書から得てもサルの鳴き声でも街の落書きでもなんでもいい。それが現代でも通用するのであれば、猶更のこと。
幼年向け漫画についても項を割いて語られている。「キャラクターが商品化されて儲かる」可能性があり、この儲けがウマいと。自分は同じノウハウを読んで感心した記憶がある。あいまいながら、「燃える!お兄さん」4コマ企画みたいなものだったと思う。自分は中学生ぐらいか?これは現代に至るまでの35年と100日後に死ぬ歴史を経て、鉄板の常識なんだろう。自分がキッズの頃に何か欲しかったアニメグッズあるかなあ。幼稚園キッズとかなら本当の子供だましで良いんだろうけど、10歳ぐらいになるとあまりにくだらない玩具に興味を示すわけもなかったが、そうだ、ファミコンソフト!北斗の拳、ドラえもん、ドラゴンボール、聖闘士星矢。全部遊んだことあるぞ。
小学生でもスマホ持ってる現代だったら、ゲームやアプリになりやすいような漫画にするんだろうか。それだったら、今となっては漫画の内容がなんだってソフトウェア化できそうだ。競馬場でかけっこするゲームが大ヒットってんだからなあ…。料理の画像を撮るとラーメンハゲが真っ当な批評してくるアプリとか、位置情報を指定するとゴルゴが狙撃可能な近傍の建物を教えてくれるアプリとか。後者は大炎上待ったなしの予感もする。
漫画はサルでも描けるのかもしれない。でもサルでも売れる漫画となると話は別だと思う。売れている漫画を解析(?)して本書で紹介されるようなメソッド、法則が見いだされる事はあるかもしれない。逆に本書のノウハウを準えれば売れるかと言うと、そうでもない。これは当たり前の事を言っているが、売れる/売れてないの境目から細かく細かく分け入ってみれば、何もかも同じだったとはならないだろう。マニアに人気とか芸術的価値だとか発売日に雨が降るとか良くわからないものを振り分け振り分け、突き当たったその先にある、僅かな僅かな言葉にならない1フレーム未満の差異があるだろう。神髄と呼ぶのかもしれない。
人とサルの違いほどは大きくないだろうと、想像するんだ。
なお内容は面白くはなかった。実用性はわからん。
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「世界金玉考」を読んだ
きんたま。男性器の一部である睾丸の一般的(?)な呼称である金玉についての著作。
著者はもともと雑誌編集者。書庫にこもって、また足で稼いで、どこかで聞きかじったような断片的な情報から専門的な知見まで幅広く収められている。例えば、「こんな急所がなぜ体外に露出しているのか?」という疑問がある。しかしながら、受胎して人間のかたちづくりの初期段階においては、金玉なんてものは存在しない。雄という情報が決定されてなお、すぐに金玉が登場するわけではないというのだ!そもそもどういう経緯で露出してくるのか。これは母の胎内で過ごしているうちに、体内からまたぐらに徐々に「降りて」くるのだという。へええええ。確かに、受精した細胞が最初から人間型のわけもなく、次第に人間っぽく形作られていくわけなんだけど、金玉が所定の位置に収まるのも、その一環と言うわけか。ところが、一部の哺乳類は金玉が体内にあるという…例えばゾウ。この違いはどういうことか。われわれ人類の金玉は何か理由があって外に出ているものと考えられるが、中に納まっている生き物とはどんな事情があって分かれているのだろうか。
などなど、真面目に読むと大変に興味深い一冊。
金玉について興味深いという態度を見せるのは男性が主なんじゃないか。女性だって金玉を目撃したり触れたりする機会もあるかもしれんけど、そんな興味を持つことがないだろう。例えば男性が女性の乳房に示すようなベクトルでの興味が、女性から男性の金玉に向けられることはないと思う。😳「ウホッいい金玉」なんて無いよな…。…。…あったりするんでしょうか…?念のため付け加えると、ここでいう金玉は男性器全般をさしているわけではなく、睾丸(ビジュアル的には陰嚢が正しいかな)のことですよ?
ただ、興味深いという態度を取ったところで、一般人には所詮雑学の域を出ない。金玉の知識が必要だったんだよな~って人もまた、おらんのよ。ところが、著者の集めてくる情報はなんにせよ金玉に関係するものなら何でもおkと言うレンジの広さで、ドイツ人の金玉ジョークから二・二六事件、「たんたんたぬきのきんたまは~♪」さらには宦官、カストラートの話題にまで及ぶ。俺は一体何の書を読んでいるんだ、という心地にもなる。しかし、どこか身近な事件に思える。
それだけ金玉は、男性の人生には密接なものだということだ。「たんたんたぬき」の歌も男女で認知度に差がありそう。金玉は男性しか持ってないとはいえ、目とか指と同じ主要なものなんだと。さて。人間に置かれましてはこの状況に不具合を訴える個体が出てまいりました。本書には、前述のように受胎後に性別が分化する仕組みにも触れられているが、その過程において何かがうまくいかず、金玉の有無だけでは雄雌を二分しかねる状況も科学的に存在するようだ。いわゆる性同一性障害がこれにあたるらしい。単に性行為の嗜好でウホッ😳しているというわけでは無いと。外形的な特徴と、内面の自認やらがどこかズレた状態で成長することがありえる。なるほど。
自分はいわゆるLGBT活動に詳しいわけでも興味があるわけでもないので、上記のような話を読んでも、ふーん、ぐらいの感想に留まる。例の(賑わいトピックと言う意味で)炎上したトイレも、誰にメリットがある見込みだったんだか、なかなか理解が追いつかない。例えばホテルの部屋に男性用女性用がないみたいに、トイレの間口を一緒にしても平気なんじゃないかという発想かな。どのみち、”そうでない”人への配慮がなかったらどちらの立場からも不便なんじゃないか。なお、そのトイレ、ネットで調べたら後追いで仕切りが出来たり、警備員の方が現地でいろいろ案内対応する事態になっているらしい。落語やん。
肌の色数種、大きな宗教数種ぐらいで情報取り扱い注意のホモォサピエンスが、性別って200色あんねんと言っても、じっさい無理があるのではないか。金玉の有無、f(x,y)のbooleanぐらいがお前らのおつむ限界だというDNAからのご神託。確かに存在すると考えられている四次元を、普通の人は素直なビジュアルで捉えられないように、性別という仕組みの存在理由を解明するのは人間には無理なのかもしれない。
つまり、そもそもなんで分かれるのか。多様性による生存確率上昇を期待している?雄と雌に分かれると、とたんに爬虫類が厳冬を生き延びたりするの?そんなことない。種の生存って、どんな事態を想定して生存確率を上げようという備えなんだろう。あるいは何か狙いがあるわけでもなく、ただただ意図的に仕込まれたランダム要素、たまたまツイてるほうだけ生き延びたりするんだろうか。
2点。
なお、これは子供の頃にテレビで見た、デーブ・スペクターのジョークです。
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「カメラを止めるな!」を観た
以下ネタバレですが、五年も過ぎてるし良いよね?良くない人は作品を観てからお越しください。
零聞も一見に如かず。
本作公開当時、ずいぶんと話題になったと記憶していた。評価も高かった印象があった。しかし興味がなかった。どうせ「〇〇ファンに大人気」みたいなものなんだろうと思っていた。あらすじも面白いとは感じなかったし、自分はお客様ではなさそうだと。ポスターもちょっとそういう気配がプンプカ匂っていた。しかし最近amazonプライムビデオに登場して、これは観てみようかという気になった。これだけの話題作を、今日まで全く、マジで全くのネタバレをせずに過ごした自分にサムズアップ。ちなみにプライム無料枠ではなく、レンタル枠。
こういうの、作中劇っていうのでしたっけ。作品を撮っている様子を捉えた作品…あれ、違うか。さらにその様子を撮っている作品か。んでエンディングまでいくと本当の撮影風景だから、えーっと…?カメラを止めるほうが難しいねこれは。
途中の「一か月前」を挟んだところからがネタばらしとなるわけだが、この時点で動画の再生時間の半分程度だった。ここまでで十分に面白かったと思っていたので、ナニコレーってスキップしながら消化していたのだけど、目に留まる場面が全く意味不明で…。そのうちに本作の仕掛けがわかる場面が映って、なるほど~となる。だからその間はあまり観てない。映画館で観た人は、この合間にどんな気持ちで観てたんだろう。
以降は”本編”部分を観たときのなんだこれ?って違和感の説明がされるんだけど、とっても腑に落ちる。なんで急に棒読みになった?なんで意味なく二回も止まるのwwwなんであの状況で黙って座ってるんだよ?みたいなものが全部明かされていく。カメラを止めない理由は偉い人の持ち出した企画にあった。なるほど、と納得がいく描写になっている。
そういう無茶を見事やりとげましたよ、という物語であったわけだ。実際に映画の撮影に関わった事があるような人たちには、共感できる点も多かったんじゃないか。実際の映画作品にも、プロデューサーなどが無茶を言い続けた結果駄作になったとか、事故が起こったとか、なんでこんな作品になった?という事があると思う。「映画 デビルマン」でググろう。まけるかこんちくしょうと現場の気合で切り抜けていく様は、実にアツい。撮影現場ではきっと本当にこういう事が起こっているんだろうなあ、なんて…そんな…
ああ…
そんなアツさに、また本作の仕掛けに共感する「映画ファンに大人気」だったということ?
それもまた納得、お見事な作品でございました。
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「MONSTER」を読んだ
浦沢直樹のコミック、…と但し書きしないと同名の作品ありそう。どうかな。大変に面白かった。堪能した。
王道の雰囲気。例えば、銃声のコマを経由して場面が切り替わるというのもよく見ると思うのですが、これを何度使うねんって。でた~~~wwって愉快になってきてしまう。何度も「本当の恐怖」なんたら~とかいって展開が進むのは、ドラゴンボールの戦闘力インフレを連想する…!!!!!!!!!!!!それらが不快なわけでもないけど、そういう造りのジャンルってことなんだろ。
Freedom is slavery
作中の世界観、および発表当時のリアルご時世で「東西対立」という問題が背景にある。東側って何か怪しいことをやっているという王道テンプレがあると思う。自分はそんなに多くの創作に触れたわけではないですが、ゴルゴにしろなんにしろ、敵役?は東側という印象がある。例えば、共産主義体制の個性や人権を軽視した権力によって〇〇〇が生み出された!的な。史実も概ねそんな感じだったんだろうなあと想像する。自由が生み出すMONTERもおっかないというのは現実世界の学びではありますね。
War is peace
世界情勢をベースにした物語というのは、創作に於いて良くあるものだと思うけど、2023年にはどういったものがありえるだろう。インターネットやSNSという言葉が浮かんでくるけど、この20年ずっとそうだろって話だ。この3年ぐらいだと、コロナは世界的な出来事だったけど、ウイルスや疫病は類似の作品が過去にたくさんある。世界が平和で…人々が貧困な暴力におびえていない世界が長年続いた結果、そんな物語を作ってもリアリティがなくていっそ退屈だったら良いのに、現実は人々が貧困や暴力におびえ続ける世界しか存在せず、うまれる物語には毎度の説法臭さ。
Ignorance is strength
本作の最後の舞台。雨の降る田舎町。2023年だったらこの筋書きにリアリティが無くて退屈か?そんなことはない。戦時中でもない街中で、子供たちが逃げまどいながら銃で撃たれる
コマ世界はここにある。世界の東側、壁の向こう、隣の部屋の中、インターネットのプロトコル。MONSTERは「どこにいるのか?」ではなく「誰なのか?」という疑念が人々を恐怖に縛り付ける。誰なのか。それはきれいな顔をしている、大人しい、しかし社交的、要するにあなたも含めた普通の人。こんな数十年来のテンプレが、リアリティを失う事がないのは、あなたも身に覚えのある、世の中の本当の事だから…か?「自由が生み出すMONTERもおっかない」という学びは信頼できるかね。恐怖から逃れる術とやらは、誰が誰に伝えたのか。あなたに伝えたのは誰だったか覚えてる?きっと、きれいな顔をしていて、大人しくて、カーリーヘアーで、眼鏡をかけた初老の漫画家。
恐ろしい話で御座います。
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「はだしのゲン」を読んだ
実は読み終わってもうずいぶん経つ。しばらく、感想文をどんなふうに仕立て上げたもんか迷っていたら、広島でG7が行われる予定と知り、んで、あっさり終わってしまった。もう夏だギギギ。
はじまりは少年ジャンプの連載作品だったということだ。主人公たちもキッズであるから、元気いっぱいだ。苦境にめげず立ち上がっていく姿を描いた。…という情報に偽りなく、確かにそういう作品だという感想を抱いた。ドキュメンタリーとはちょっと違う、漫画の形なわけだ。作者が実際に被爆経験をしたという事もあり、もっと悲壮な感じなのかと思っていた。筋書きは戦禍の悲劇ではあるのだが、なんかこう、とてもエネルギッシュだ。エネルギーに溢れるままに、「君が代反対」とか「天皇の戦争責任」とか登場してウッとなる。これは作者本人の強い主張のようだ。
少年ジャンプでの連載を終えたのちに、本作品は数誌を転々として物語を終える。その数誌のラインナップと、1970年代という時代で、何かこう色眼鏡を通して眺めてしまう…。戦中は勿論、1970年代だって実際に知りはしない。昨今、毎日のように戦場の映像が流れているロシア-ウクライナ戦争だって、自分には”知っている”といえるほどの体験は何もない。
小学生の頃。ある老先生がこんな話をした(うろ覚え)。アメリカの空襲で街は焼けたが、お寺なんかは焼け残った。アメリカは日本の文化財を狙わずに攻撃をしていたんだ、と。その姿勢に感服したと。子供の頃には、「へー」ぐらいの話だったんだが、すこし考えてみればとんでもねえ(censored)の与太話だと思った。じゃあ防空壕なんか掘ってないで寺を作って寺に逃げればいい…。それにしたって、寺なんて幾つもあることだろう。3月11日の東京大空襲は、夜の攻撃だった。当時、夜間に寺だけ避けて爆撃なんてできた筈はない。ご丁寧にもナパーム弾だったと記録されている。(※wikipediaによれば1944年の11月にはレーダー照準で夜間爆撃テストした、と記載がある…)
ただ…その教師の体験では、真実だったのかもしれない。実際に寺に逃げたら助かったということがあったとしても、不思議ではない。何度か寺の境内で空襲を生き延びる度に、確信に変わったのかもしれない。実際は…うまく表現できないけども…たまたま?それがたまたまだろうと何だろうと、神仏のご加護を感じるぐらいのエクストリームな状況だと思う。だからってそれがアメリカの手心だと宣うのはいったい何なのだ。(censored)か。当時で戦後40年も過ぎ、教職が子供に語ることにはどういう意図があったのか。愛と平和の複雑さでも学べと言いたかったのかもしれない。
そんな事はすっかり忘れて、わたくしはぼんやりと大人になった。
大人になって…世の中には、この国や社会が崩壊することを望むような人までもいると実感することもある。さっきの教師がそうだったのか?こんな数十年前のうろ覚えエピソード一個で疑わしいとか言い出すわけではないが、”そういう”考えに近い人たちが、血気盛んに国際的テロまで起こした時代があった。自分の体験はそれから少し後の時代の話だ。ありえるじゃないか。恐ろしい。寺に逃げろ。
しかし、戦争と言う苛烈な体験をしたという事実に頭があがらない。「寺だけ無事だなんて、そんなことあるわけないじゃないですか」「黙れクソガキお前は黒焦げになった妹を素手で掘り出したことがあるのか」自分の世代だと祖父母がみな戦禍を体験している。暴力に晒されること以外にも、戦争が終わってみれば天皇は人間でしたテヘペロとか、なんかこう…いろいろ信じられない激変があっただろう。田舎の親戚の墓地の隣には、戦場に散った方々の共同墓碑があった。ずいぶん古いものだで風雨にさらられて土台には苔が生えている。どなたも未来ある若者だった筈だ。できあがったのは戦後だろうか?戦中であれば、軍神と崇められたんだろうか?
何が本当かなんて、わからない。少なくとも当時はわからなかった。そこら辺の誰かの与太話や思い込みと合致するわずかな事実が、とんでもないデマになって広まったりすることは、今日でもなおある。戦時中の民間人の勇ましい記録も残っているが、本当に全員が全員勇猛果敢に戦おうとしていた筈なんてない。本作の主人公の父みたいに、本土に戦禍が及んでなお戦争には反対だという人だって、いたんだろう。嘘をついていた。お国のため、自らのため、家族のため、世間体のため、死んだ若者を奉るため。しかしリトルボーイとファットマンに嘘はなかった。(censored)も経て、終戦を迎えることになる。
本作にも嘘のないことを期待したい。客観的な事実云々ということではなく、せめて(…せめて?)作者の心情の本当のところが顕れていると思いたい。そうじゃなければ本書は(censored)でしかない。
下書きを何度かこねくり回しているうちに、どうしたら良いのかわからなくなる。こんな言い回しをするのは良くないんじゃないか?とか、ネットで調べた情報を引用しようにも、付随する情報が多くてなんかニュアンスが変わっちゃわない?とか、もう考えるのもめんどくせ、とか。こんなもん、自分の感想だけ残れば良いのに、本書を体験している時には思ってもいない所感を継ぎ足してしまう。なんなら★みっつとかそんなマウスポチだけしておけばいいのかもしれないが、もう読んだことないって言っておくのが無難だ。80年前の話にあれこれ意見を持つだなんてどうにかしている。
私は本書を読んでいません。みなさんもそれでよろしいですよね?ただみなさんは黙っていてくれれば良いです。それだけで私もあなた方も問題ありません。私たちは何も知りません。
何も知りません。何も見たことも聞いたこともないのです。