どくしょかんそうぶん

「はだしのゲン」を読んだ

実は読み終わってもうずいぶん経つ。しばらく、感想文をどんなふうに仕立て上げたもんか迷っていたら、広島でG7が行われる予定と知り、んで、あっさり終わってしまった。もう夏だギギギ。

はじまりは少年ジャンプの連載作品だったということだ。主人公たちもキッズであるから、元気いっぱいだ。苦境にめげず立ち上がっていく姿を描いた。…という情報に偽りなく、確かにそういう作品だという感想を抱いた。ドキュメンタリーとはちょっと違う、漫画の形なわけだ。作者が実際に被爆経験をしたという事もあり、もっと悲壮な感じなのかと思っていた。筋書きは戦禍の悲劇ではあるのだが、なんかこう、とてもエネルギッシュだ。エネルギーに溢れるままに、「君が代反対」とか「天皇の戦争責任」とか登場してウッとなる。これは作者本人の強い主張のようだ。

少年ジャンプでの連載を終えたのちに、本作品は数誌を転々として物語を終える。その数誌のラインナップと、1970年代という時代で、何かこう色眼鏡を通して眺めてしまう…。戦中は勿論、1970年代だって実際に知りはしない。昨今、毎日のように戦場の映像が流れているロシア-ウクライナ戦争だって、自分には”知っている”といえるほどの体験は何もない。

小学生の頃。ある老先生がこんな話をした(うろ覚え)。アメリカの空襲で街は焼けたが、お寺なんかは焼け残った。アメリカは日本の文化財を狙わずに攻撃をしていたんだ、と。その姿勢に感服したと。子供の頃には、「へー」ぐらいの話だったんだが、すこし考えてみればとんでもねえ(censored)の与太話だと思った。じゃあ防空壕なんか掘ってないで寺を作って寺に逃げればいい…。それにしたって、寺なんて幾つもあることだろう。3月11日の東京大空襲は、夜の攻撃だった。当時、夜間に寺だけ避けて爆撃なんてできた筈はない。ご丁寧にもナパーム弾だったと記録されている。(※wikipediaによれば1944年の11月にはレーダー照準で夜間爆撃テストした、と記載がある…)

ただ…その教師の体験では、真実だったのかもしれない。実際に寺に逃げたら助かったということがあったとしても、不思議ではない。何度か寺の境内で空襲を生き延びる度に、確信に変わったのかもしれない。実際は…うまく表現できないけども…たまたま?それがたまたまだろうと何だろうと、神仏のご加護を感じるぐらいのエクストリームな状況だと思う。だからってそれがアメリカの手心だと宣うのはいったい何なのだ。(censored)か。当時で戦後40年も過ぎ、教職が子供に語ることにはどういう意図があったのか。愛と平和の複雑さでも学べと言いたかったのかもしれない。

そんな事はすっかり忘れて、わたくしはぼんやりと大人になった。

大人になって…世の中には、この国や社会が崩壊することを望むような人までもいると実感することもある。さっきの教師がそうだったのか?こんな数十年前のうろ覚えエピソード一個で疑わしいとか言い出すわけではないが、”そういう”考えに近い人たちが、血気盛んに国際的テロまで起こした時代があった。自分の体験はそれから少し後の時代の話だ。ありえるじゃないか。恐ろしい。寺に逃げろ。

しかし、戦争と言う苛烈な体験をしたという事実に頭があがらない。「寺だけ無事だなんて、そんなことあるわけないじゃないですか」「黙れクソガキお前は黒焦げになった妹を素手で掘り出したことがあるのか」自分の世代だと祖父母がみな戦禍を体験している。暴力に晒されること以外にも、戦争が終わってみれば天皇は人間でしたテヘペロとか、なんかこう…いろいろ信じられない激変があっただろう。田舎の親戚の墓地の隣には、戦場に散った方々の共同墓碑があった。ずいぶん古いものだで風雨にさらられて土台には苔が生えている。どなたも未来ある若者だった筈だ。できあがったのは戦後だろうか?戦中であれば、軍神と崇められたんだろうか?

何が本当かなんて、わからない。少なくとも当時はわからなかった。そこら辺の誰かの与太話や思い込みと合致するわずかな事実が、とんでもないデマになって広まったりすることは、今日でもなおある。戦時中の民間人の勇ましい記録も残っているが、本当に全員が全員勇猛果敢に戦おうとしていた筈なんてない。本作の主人公の父みたいに、本土に戦禍が及んでなお戦争には反対だという人だって、いたんだろう。嘘をついていた。お国のため、自らのため、家族のため、世間体のため、死んだ若者を奉るため。しかしリトルボーイとファットマンに嘘はなかった。(censored)も経て、終戦を迎えることになる。

本作にも嘘のないことを期待したい。客観的な事実云々ということではなく、せめて(…せめて?)作者の心情の本当のところが顕れていると思いたい。そうじゃなければ本書は(censored)でしかない。


下書きを何度かこねくり回しているうちに、どうしたら良いのかわからなくなる。こんな言い回しをするのは良くないんじゃないか?とか、ネットで調べた情報を引用しようにも、付随する情報が多くてなんかニュアンスが変わっちゃわない?とか、もう考えるのもめんどくせ、とか。こんなもん、自分の感想だけ残れば良いのに、本書を体験している時には思ってもいない所感を継ぎ足してしまう。なんなら★みっつとかそんなマウスポチだけしておけばいいのかもしれないが、もう読んだことないって言っておくのが無難だ。80年前の話にあれこれ意見を持つだなんてどうにかしている。

私は本書を読んでいません。みなさんもそれでよろしいですよね?ただみなさんは黙っていてくれれば良いです。それだけで私もあなた方も問題ありません。私たちは何も知りません。

何も知りません。何も見たことも聞いたこともないのです。

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