ふでのゆくまま

Fahrenheit140

ワクチン二発目も済んでさらに二週間。根本的な治療はまだ難しいので世の中的には解決したとは言い難い。何しろ感染源にいつまでも黒いうわさが付きまとっているし、おそらく真実だと思っている。世の状況も良くなっているので数年ぶりに会食となった。とはいえ、油断するとここ数年の取り組みがおじゃんなので、どうするかと思っていると、参加者の身内の店舗があるということだった。そのお店は事実上の休業状態だが、店主が金銭的にはまだ余裕があるので、昨今の事情ではこうした貸し切り的な営業を身内相手に時々行っているということらしい。その、店舗を紹介してくれたひとは夫が医療関係者であったりして、まあまあ、信頼できると言っていいのかなんというか。

当日、雨。

スタンダードな和風居酒屋テイスト。入り口に近い、お座敷に通された。割烹着にマスク姿の大将がカウンターでぺこりと会釈をしている。すでにコースをオーダー済みで、飲み物だけ適当に選んでよいらしい。コースの内容が気になったのでテーブルにあるメニューを見たら、コース自体が載ってない。なんでも、今回のために適当に見繕って出してくれるという事だった。この程度の人数でこんなに気を使ってもらって恐縮してしまう。特に自分は正直な話、人生でこの街に来ることが今後あるのか疑問なほどに縁がない。掘りごたつ形式のテーブルに5人で座る。当然、なんとなく、まばらに距離を置く。待ち合わせてからここまでごたごた寄り添って歩いてきたんだが…でも傘の距離があれば、まあね?

テーブルには爪楊枝と紙ナプキン、アルコール消毒のディスペンサーがあった。そして灰皿が無いのが時代を感じる。ぼんやりと会話をしながら時々料理が到着するという塩梅。大酒飲みはいないようで、飲み物の注文も多くはない。お通夜でももっと賑わうという塩梅で、個人的にはそうして静かで気を使わなくていいのは大歓迎なんだが、知らない人が二人いる。こういう人はかえって楽で、自分が何度も話したことがあるような話をしても良いものだ。話題に乏しいので助かる…ってわざわざこんな時に会食を共にして持つ感想ではない。人間の小ささが溢れんばかりでとほほ。「YouTubeの最初の動画って何か知ってます?」「Me at the zoo」「あっはい」とほほ。

お手洗いを申し出て、マスク装着して立つと、その知らないうちの一人も、「あ、私も…」という感じでついてくる。30歳ぐらいの女性。このぐらいのサイズ感のお店だと、トイレが男女共用パターンもある。扉の前で待ったりするのは、初対面だとやはりこう気まずいな、なんて思っていたら、「お先にどうぞ」とか言われてしまった。ちょうど、大将が両手に皿をもって厨房から出てくるところだった。トイレどこですか?階段の後ろの扉、はぁどうも。

男女別であった。安心して小用、放屁などするもこれだけ静かだと席まで届いてないか不安になる。いや、隣の女性用トイレのほうは言わずもがな。ごまかしようもないので、やらかした~と思いながら出て、そそくさと手を洗い席へ戻る。窓から通りが見下ろせた。細長く、薄暗い坂道にわずかに人通りがあり、傘をさしている姿がちらほら。まだ雨だ。

席へ戻ると、サンマの話をしていた。テーブルには握り寿司があった。そして案の定、ここでトイレの水を流す音が微かに聞こえてきた。これなら放屁はセーフだと思う。サンマの寿司なんて見たことあるか、という話をしていた。…?一皿150円みたいな回転すしでも出てきそうに思うが、そんなに珍しいだろうか。と伝えると、みんな納得というリアクションだが、一人だけサンマの寿司なんて全然知らなかったという感じ。

お手洗いから女性が戻ってきた。その、サンマ知らずが「これ見たことありますか」と尋ねる。女性が皿を覗き込みながらマスクを外すその時、少しマスクに汚れが付いているように見えた。口紅かな?彼女はそりゃあありますよ、と答える。サンマ知らずはなお一層仰天して、「んじゃ食ってみます!」と意気込む。酒で朗らかになるタイプのようだ。ぱくりと一口放り込んですぐに、これ、本当にサンマ?などと言いだす。サンマ知ってるズの我々も頂いてみるが、そんな疑問を呈されると困ってしまう。鯵ではないのは確かだと思うが…油が乗っているんだろう、箸でつまむんでも滲み出した油で崩れそうになってしまう。

先ほどトイレを共にした彼女、共にはしてねえけど、その、タイミングがね、彼女はサンマですねと回答。みんな、そうだよねサンマだよねと同調。サンマ問題も解決しほどなく、アツアツゥの茶わん蒸しが出されたところでそろそろお開きかな、というタイミング。彼女がまたちょっとおトイレといってそそくさと席を立ってしまった。どうも様子がおかしいので、体調でも悪いのではないか、と皆が口にする。この店舗の身内だという女性に、トイレに様子を見に行ってもらうことにした。マスクがテーブルの上に残されている。赤黒い汚れが端のほうについていた。口紅ではなさそうに見えた。様子を見に行った女性は、トイレから険しい顔で戻ってきた。どうやら戻してしまっているらしい。サンマという回答は「あたり」だったわけですね、とは口に出さない程度の良識はございますので黙っていた。彼女は大将からコップ一杯のお水をもらい、何かこそこそ話してからトイレに戻っていった。

我々も撤収準備をしたほうが良さそうだ、ということになった。このままというのも申し訳ないので、茶わん蒸しをハフハフいって大急ぎで流し込み、忘れ物ないですか~とゴソゴソする。茶碗蒸しがすっげえ美味いのが悔しいな。お店の大将も気が気ではないし、我々もたった五人で貸し切りにしてもらった上にこれでは気まずいったらないが、致し方ない。彼女がまたトイレから戻ってきた。お会計は済んでいるので、とりま撤収しましょう。だれか私たちの荷物も頼みます、とのことなので、自分が持って出ようとしたんだが、具合の悪い彼女のマスク…。自分が手で持つのもちょっとどうかなと。帰り道があるのでここに置いていくわけにも。

そこにちょうど、トイレから彼女が出てきた。いかにも顔色が悪い。大将が「大丈夫かい、お姉さん」と声をかけたところ、あいまいに頷いたようだった。ふわりふわりと席のほうに歩いてくる。タクシー呼んだほうが良いのでは、と誰かが言った。大将が即座に「じゃあタクシー呼んでおくから、外で待ってて」と言った。少々の苛立ちが語気に含まれているのをみんなで感じて、外に出た。彼女は自分がマスクをしてないことに気づいて、席に戻っていき、すぐにマスクを着けて外に出てきた。

雨に濡れて坂道がてかてかしている。女性二人組は少し離れて寄り添って立っている。事情をしらない呼び込みが二次会どうっすかー!?と声をかけてきたので追っ払う。タクシーが来るまでは気遣っている体で、傘をさしてぼんやりするしかない。雨脚が強まっている。もし、何か食あたり的なものだとすれば我々みんな危うい。明らかな生ものはサンマの寿司だけだが、食べた感じ危ない気配はなかった。サンマってアニサキスいたっけ?いたとしてもこんな速攻で症状でるものか…。彼女は住まいはどの辺だろう。誰か近くの人がいたらタクシーに相乗りしていったほうが良いのでは。珍しくできた人間っぽい発言をかましてみると、男性陣は誰もしらなかった。女性陣のほうに歩み寄って声をかけた。

すると、彼女の様子が明らかにおかしい。目を見開いて口に手を当てている。マスクの端から何か黒っぽい液体がしみだしており、さらには内側から何かにおされて膨らんでいるようですらある。えっ。ゴフッ!とせき込むとマスクがずれて何か飛び出してくる。道路に落ちた。みために細長く、激しくのたうち回っている。濡れた道の上で、ペタペタと音を立てている。すぐに坂の下へ滑り始めた。この事態に気づいてない誰かが、これを見つけて「何あれサンマ?」と言った。確かにサンマに見える。すると彼女は隣で膝から崩れ落ちた。

顔を覗き込むと、口の中から数匹のサンマが顔をのぞかせている。「ぬおおおえあお!?」叫びながら飛びのいてしまった。刹那、彼女の口から途方もない数のサンマがあふれ出てきたのである。漁船から水揚げされるときのような、太いホースで吐き出されるあの感じ。坂一面をサンマが転がり落ちていく。誰かから悲鳴があがった。周囲が少し青白く輝いたようにも見えた。坂を上ってきたタクシーが慌てて後退し始めたがそれを巻き込んでサンマは坂の下のほうへ続々と転げ落ちていく。彼女はもはや路上に横倒しになっているが、サンマの勢いはとどまらず、彼女の事は誰も気にかけていない。彼女の体はサンマの放出する勢いにおされて、床に置いたホースのように道の上でくねくね波打っている。バックを続けていたタクシーがピザ屋の立て看板にぶつけ、直後そのまま電柱に衝突した。ここでふいに、サンマの放出が止まった。

タクシーの衝突を皮切りに、騒ぎに気付いた人々が坂の下のほうにあった店やマンションから外に出てきた。足元の惨状を認めると、みな坂の上のほうを見上げた。当然、雨の中呆気に取られて佇む我々に視線が集まった。人間は驚きすぎると固まるものなんだろう、誰もスマホを取り出して撮影などしていない。自分は坂の上から見下ろしながら、YouTubeで見た津波に呑まれる宮古の映像を思い起こしていた。あの濁流の中に人間がいるのだろうか、と想像していたが、魚類も豊富にいただろうか。この一瞬、我々と坂の下の人々の間で見つめあう時間があった。彼らの視線が足元に横たわる彼女に集まった気がする、ひそひそと話しているようにも見えた。

店の中から大将が、発泡スチロールの箱を持って出てきた。「そろそろタクシーが」と呼びかけたところで眼前の景色に絶句する。我々も力なく振り返るばかりではあったが、坂の下のほうから隣の呼び込みの兄ちゃんまで、みんながみんな大将のほうを見つめてしまった。「なんだいこれはどうしたんだ」足元に横たわる彼女を抱き起こし、タクシーに手招きをする。2,3度激しく身振り手振りをして、運転手がようやく気付いた。クラクションで答える。のろのろと車が動き始め、それを合図とするように皆が我に返る。

大将と女性たちは先ほどのお座敷の、一個奥の部屋へ入っていったようだ。ふすまを閉めてゴソゴソ動いている音がする。タクシーが来ているというのに、布団でも出しているんだろうか。仕方がないのでふすま越しに帰る旨を伝えると、「うん、先に帰って」と返事があった。タクシーどうすんの…と思ったが、何も答える気にならず、外へ出る。この坂を下って駅まで行くのかと、おっさん三人組がたじろいでいると、坂の上からたまたま別のタクシーがやってきた。大慌てで止める。おっさん三人で密になって駅まで移動。最寄りとか路線とか確認する気にもならず、とりあえず近めの乗換駅へ車を進めてもらった。ぎこちなくも努めて朗らかに挨拶をして解散。我々のどこかに間違いがあって「こういうこと」があったんだろうかと考え始めていた。人間の口からサンマがでる理由とは。

帰宅すると、すでにネットでは道を埋め尽くすサンマの写真がバズっていた。タクシーが電柱にぶつかった場面を撮られていたりもしたが、サンマの放出源まで映っているものはなかった。少し安堵する。我々のいた場所からは坂の下、交差点あたりの様子は良く見えなかったが、これらの写真には血だまりにサンマが転がっている様子が見て取れる。翌日の昼休みの時間までには、ニュースでも街の怪奇現象みたいな扱いで報じられてしまった。その映像には、区役所の方々だろうか、トラックの荷台にサンマの死骸を積み上げていく。猫やカラスの姿もあり、ゴミの埋め立て地みたいな賑わいになってしまった。顔にはぼかしがかけられていたのだが、 なんと店の大将がマスコミのインタビューに応じていた。「ここが目黒だったら洒落で済むのになぁ。はっはっは」などと答えており、いかにも不審人物のような扱いになってしまった。街の人々には如何にもな姿を目撃されている筈なので、阿呆がマスコミの取材に何か伝えたのだろう。こうして陽気にインタビューに答えているということは、真相を聞かされてないか、あるいは肝が据わっているのだろうか。逞しいことだ。

「とっ捕まえて食ってやりゃあよかったなあ?わあっはっはっは」

あのサンマを食う…。本来、釣ったばかりの魚はその水温とほぼ同じ体温をしている。場合によっては、人間が素手で掴めばその温度差でダメージを受けるほどだ。彼女の口から飛び出たサンマの温度はいかほどだったんだろう。あのサンマは明らかに生きていた。確かに、とっ捕まえてみればよかった。

刺身はもとより…水、果物、スープ、焼き鳥。メシはすべて、人類の体温から遠い温度で美味しく頂きたい。アツアツのものは香り高く油分にうまみがあって、冷たいものには文字通り腑に落ちる穏やかさを。体温と同じものは、文明が断ち切ったはずの繋がりを掘り起こしたように思えて、薄気味悪いと思ってしまう。食べ物は死んでいてほしい。わたくしたちが称える活きの良さとは死体の美しさ。魚の死体の美しさこそが、凍れる音楽の例えに真に相応しい。もし刺身から湯気が立ち上れば、そこで一つの文明が死に絶えてしまうとは思わないか。油が滲んでしたたり落ちれば、それは下品な死体の切れ端でしかない。我々がそれがわからなかった、口下手な彼女は吐き出すしかなかった。

やはりサンマは、マグロにかぎる。


今年は秋が来なかったのが悪い。2点。

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