太陽と財布に背いて

財布を忘れた。取りに戻れば勤務先に遅刻となる。

別にそれはそれで仕方ないで良いのだが、こういう時のためにカバンに現金があるんじゃないか。財布を落として以降つづけている対策だが、家から徒歩五分の所で気付いたので戻ろうか迷ってしまった。ここで日の目を見る。こういうわけで一日過ごしたが兎に角斬新だった。数年前まで自分も、あるいは世間の誰もがそうしていた事、が、覚束ない。以下、覚束なさの記録となる。

まずはかばんの中に忍ばせた現金が幾らあるのか把握してない。何かの時にはタクシーで帰れるほどの金額は入れているはずだ。かばんを覗き込むと、マネークリップに挟まれた諭吉が見えた。行きと帰りの交通費、額面の心配はない。とにかくも、先ずは勤務先まで切符を買わねばならん。勿論運賃などは把握していない。マネークリップを取り出すと、諭吉の裏に漱石が二人いた。

いやタクシーで帰れねえだろこの額じゃ。何かで使ったっけ?阿呆すぎる自分に呆れつつ、人の流れに逆らい駅の券売機に向かう。流石に買い方ぐらいわかると思うが、なんと間違えそうになる。地下鉄への乗り換えはそれ用の経由駅を選択して切符を買わねばならない。ここ15年、ただタッチしながら改札を通るだけだったのでこういう事を忘れている。

ほげほげ駅経由ふがふげ線の切符を買う。運賃は券売機の上の壁に貼ってあるでかい地図。目的の駅に丸囲みの数字が表示されている。それがここから乗った場合の運賃だ。都内でこれを見つめるのもなん年ぶりなんだろう。大学生以来か?漱石さん1号にお別れし、無事に切符を買う。遅刻しないために仕込み現金に手をつけたのだ、遅れては意味がない。そそくさと改札へ向かい、…今度はどのゲートが紙の切符に対応しているのかわからない。遠目からではわからないんだよねあれ混雑時だし。しょうがないから適当に近づき、結局三列ぶんぐらい斜めに進んで改札を通る。

で、切符何処にしまうの?ポケットは如何にもなくしそうだ。かばんの何処かだろう。程よい内ポケットに放り込む。で、お釣りの小銭は。かばんにぶちまける気にもなれず、ズボンのポケットへ。ポケットに小銭ジャラジャラ入れるというのも、中学生以来か?いやいや何年か前に財布落とした時どうしたんだっけ。ホームまで階段を急ぎ足で降りると、ポケットで小銭が音を立てる。懐かしいねえこの感覚。

電車の車内ではいたって普通。えーこの人財布がない人なんだぁ等と悟られてはいけないので余裕の表情。到着。また紙の切符で通れるところがわからない。改札は何個かあるが、紙の切符で通れないとかありえるだろうか??普段と同じ所に向かうと、無事に通れた。

勤務は普通。漱石二号を握りしめて昼飯を買い、お釣りをまたジャラジャラいわす。110円を持って自販機エリアに赴き、お茶ペットボトルが120円で退散するなどした。小銭をまた家まで運ぶ気にならず、机の引き出しに入れておく。明日回収だ。退勤。

帰りの切符を買おうとして、最後の諭吉を券売機に挿入も、吐き出される。マネークリップに挟んだまま数年の紙幣がボロボロなのは言われてみれば当然であります。折り目から裂けている。小銭は机に置いてきた。あそこの自販機で受け入れられたりしないかなーって近寄ってみたが、一万円使える飲料水の自販機なんてあるわけねーだろ…。

キレてタクシーに乗り、これで行けるところまでと諭吉を投げつける、やうな事はせずに、コンビニで本日3本目のペットボトルを一万円から。お釣りで切符を買う。まあ、帰り道は流石に何事もない。

定期と財布の分離作戦を取り入れるとするか。現在取り入れてない理由は主に定期の方を落としたり無くしたりしそうだから。Suica一枚きっちり持ち運ぶにはどうする。手持ちのアイテムでは名刺入れがちょうど良い。これだと財布から名刺入れに引っ越しただけだ。改札を通る時に出し入れするアイテムが財布から名刺入れに変わる。うーん。これでは財布忘れ対策になっていないのでは、、、。財布忘れても移動できます、だったら今回のように現金で良い。

今回忘れた理由を考えてみれば、平日滅多に行かないコインランドリーにこの財布で行ったからだ。横着してお散歩用の財布を持ち出さなかった。結果、翌朝出かける時にはかばんの中に入ったままのつもりで忘れてしまった。

何も出がけにドアの鍵をかける時にでもチェックすれば良いのだが、今回は信号2つほど歩いた所で気がついた。財布がなければドアの鍵を開け締めできないようにするか!つまり財布に鍵を、って財布を落とした事のある男が何を言い出すのか。保安上もよろしくないわ。

今回、かばんに現金があった事でアクシデントを切り抜けた。うまく行ったという事で今後も良しとしよう…。自分もチェックもせずに出かけるほど阿呆ではないつもりだったのだけど、なんでこの日はしなかったのか。酷い話でございました。

龍脈の瘤を

通り道の飲み屋が突然休業してしまった。その店に入ったことはないのだが、そこそこ繁盛しており、洒落乙志向でもない、しかし下品でもない、実に雰囲気の良さそうな店。一人客も子供を連れた家族の姿も見られた。休業を告げる張り紙には「水道管が不慮の事故で破裂して、営業できる状態ではなくなってしまった」というなかなか強烈な理由が付されていた。通りから見た感じではハコが損壊したような様子もない。例えば地下の配管工事をしないと水が出ないといった実態だろうか、などと推測する。そら営業どころじゃないが、それにもまして一階のこの飲み屋の上は6階ほどの集合住宅でありますよ?ビルごと水が出ないなんてことになっていたら、住民も大変な思いをしていることでしょう。

再開するお知らせに変わったのは梅雨に入ったころ。「駐車場の事故により水道管の破裂云々X月X日より再開します云々」と具体的な理由に変わっていた。確かに裏手には15分お幾らの、都内に良くある駐車場がある。ということはなんだろうか、たぶん駐車場から壁を破って店内に突撃でもしてきたのだろう。

店は再開後も盛況。

この都市の地下にはこれだけの人口を支える上下水道がある。東京に住んで20年以上、一度も大きなトラブルに見舞われたことはない。実に凄いことだと思う。

東京の地下鉄を3Dの模型にしたやつ、一度見た時のインパクトが凄かった。地下鉄の車両ではなく、地下に張り巡らされた線路の模型だ。ジェットコースターのよう、というかそれ以上に複雑怪奇で不気味と言っても過言ではない。

さすがに実物より上下軸を強調しているらしい。実際に地下鉄に乗ってるけど、こんな急な勾配を走ってるわけないものなwこの作品は「東京動脈」と名付けられている。毎朝、そこかしこから人々は動脈の中を中心部へ向かい、エネルギーを使い果たして送り返される。その経路、動脈に相応しいような。我々は血液か。混雑時の車両からぶわーーーって飛び出てくる人々の様子を思い起こすと正に、ですな。

一方…上下水道の配管は住居ある処どこにでも届いているのだから、地下鉄よりももっともっと広大で複雑だろう。だろうけど、一つ素人なので疑問がある。高低差だ。動力を持った電車じゃねえんだから、勝手に坂を登りはしない。住宅で蛇口をひねれば水が噴き出すからには、どこかで圧力かかってる。

血液である我々のおどおどした頼りない足取りにくらべりゃあ、いつでも天に還るが如くの圧に満ちている水道は龍脈であり天地そのものの漲りを奉じて…とか中学生っぽい格好いい事書こうとしたけど「あれ?下水道はどうなんだ」と考えるとイマイチなのでおしまい。

水は人類の持つべきものとして一番に価値が高い筈…。その高さ故に過去の、現在の人々の努力工夫により、また地勢の事情によりこの国ではわりと容易に手に入ります。だからここ半世紀の産油国と同じぐらい強権をふるうことが将来あると思うんですよ。産水国。まあそうなるころにはお隣と戦争してまた勝ったの負けたののお話でしょうね。

あるいは原油から水が生成されるかもしれませんし、水の要らない生き物になるかもしれません。木星の衛星あたりから取ってくるかもしれません。コチンコチンに凍って宇宙空間を運ばれてくる”水”を、銀の龍と呼ぶようになった、そういった昔話をしたいものです。

夏爪

足の小指の爪が裂けているのが治った。

特に治療を受けたわけではないので、仔細は不明だが治った。爪を見下ろした時の、いわゆる肩の位置から、親指側:外側=8:2ぐらいに分割できる線で縦に割れてしまっていた。付け根のほうまでいくと根っこは同じである。途中から木の枝みたいに分かれていた。靴下を履くときなどたまに引っかかって捲れてしまい、あいててて、となるのでした。しかし歩くのに不自由するほどでもなく、ちょっと違和感程度のものなので特に対処もなく。その都度細いほう、外側の爪を根本の分岐点近くまで切って、捲れないようにするといった作業をここ数年。これがさっき見たら治っていた。ふつーの一枚の板となっていたのであります。

…と思ったのだけど、よく見たらどうも割れた層よりも一枚下に層が形成されて伸びてきたように見える。即ち、8:2の8のほうが爪の上にうすーく載っているように見える。やや変色しているので僅か二層の河岸段丘と言った塩梅だ。怖いので変にいじらないようにしておくけども、もし二枚に分かれて今後も育つというのならば結構な面倒事になりはせんかと心配しております由。

今年も夏が来たが、もう一年エアコンなしの夏を堪能してみたい。正直しんどかったが、具合を悪くするほどでもないもんだった。むしろこう、何か納涼の工夫でもしてみたいと。そういうのが却って手間もお足もかかるからこその近代社会なのですが、なかなかどうして人々の知恵もテクノロジーに負けておりませんことよ。

まあそういう知恵とか道具もインターネットで調達してくんだけどな。

昔の下書きを消化する

思いがけない出来事に遭遇する、ということがあります。しかし人類に未来予知は能わず、ほとんどの事は思いがけません。結局は後で客観的に評価して、これは思いがけないものと言って問題ないか、みたいな検討を経て「いや吃驚した」だの「こんなことあり得るのか!」だの、色を足したり引いたりして認めてみたりするものです。

「客観的」という言い回しの実質は風土とか慣習。ここ数年、夏には特に東京で度を過ぎた夕立が降るようになった。なるほどこの土地はそういう気候なのだなと納得され、なにかこう、洪水対策でもなされて、ああこれがこの土地に暮らす知恵なんですねー、なんて。住まいは夏を旨にはできるが水に流されるを旨にはできない。しかし多分、これは思いがけない出来事という範疇ではない。実効的な知恵があり、知恵能わぬ時の覚悟か諦念がある。

まとまりのない事を書いていると落ち着きがなくなる。ティッシュを取ろうとしてひっかけ、麦茶をこぼした。

このような場所に置いて、溢すとどうなるか、避けるにはどうするかの知恵がありながら、考えてみると、どうもこれは「思いがけない出来事」に含まれるようだ。知っていてもどうでも良いとそ知らぬふりをする。だって飲み物は手の届くところにないとねえ。そうよそうよ。見て見ぬフリをしてやがて迎えるささやかな未来のハプニングを、「思ってもいなかった」と宣い、嘘をつく。これはすでに見たことの筈だ。責任逃れ。そ、人類に未来予知は能わずとは、過失の無い事への主張であり業への抗弁である。

我々は実は未来を知っている。踵を浮かすぐらいの背伸びで見えるものが、見なかったことにしてよいものかどうか。それを見えたというなら未来が。見えないというなら、それは思ってもいないことだ。未来は心のうちにある…。

数年前。駅へ向かったら思いがけず、黒人の盲人が駅へはいり歩いていく所に出くわした。身なりは思い出せない。髪には白髪が目立ち、初老と言った感じである。映画「セブン」のモーガン・フリーマンを彷彿とさせる。ひとりで点字ブロック沿いにのろのろと歩いている。不思議な光景だった。なぜ一人なのか。ここいらに、あるいは東京にお住いの人物なのか。この国は長いのか。旅行なのか。

偏見と言えばそれまでだが、一人で盲人が旅行などする筈もない。なればこの人物はどういう理由でひとり歩いているのか…。実は盲人という確証はなにもない。ただ、杖をついて歩みはゆっくりで、探るようにコココと杖で足元をなぞりながら進んでいる。日本の言葉はわかるんだろうか、点字ブロックって国外でも同じ意味なのだろうか、ほら手話って国ごとに違うらしいじゃないです?

数秒。

彼のプロフィールに思いを馳せていると、向かい側。駅の反対側の入り口から改札へ続く通路。同じく点字ブロックが続いているのだが、その上を女性がこちらへ向かって歩いてくる。その瞬間、映像美を売りにした映画のような写真が脳内にストックされた。このまま二人が歩めばぶつかる。しかしお互いにそろりそろりと歩いている。本当にぶつかってもどちらも怪我はないだろう。ま、大事にはなるまいと横目に、通勤の電車に乗らんと改札を抜けた。

以上。おそらく二年ぐらい前の出来事。

ほしの降る街を

星が降る夜、などという表現を最初に使ったのは誰だろうか。

例えば実際に星が降ってくればそれは未曽有の大災害であり、下手をすれば地球ごと無くなってしまう。いま自分が知っている表現とはだいぶん印象が異なる。観測事実から生まれたものではないようにおもう…であるならば、例えば「河童の川流れ」なんてのと同じ、たとえ話や説話のようなもの。あるいは「杞憂」のような故事成語っぽいなにか。ことわざとか。

しかしそれならば何かその表現の影に真に意味するところがある筈なのだ。河童の川流れならば、達人でも失敗することはある→みんなも気を付けようみたいなこと。辞書にあたれば「星降る夜」は夜空に多く星が可視状態であること。雨というのは空が雲で満たされやがては雨粒となって空いっぱいから降ってくる。この現象に例えて、昼で言うならば雨雲が淀むが如くに、夜空にお星さまの賑わいがあるという感じ。雲に同じく見上げればそこにあるという事で、ご都合もよろしい。

よろしすぎないか。

実際に降ってきたことはないのだ。流れ星を見つけて星が降るとしたのだろうか。だったらあれは流れ星ではなく、語呂もよろしく降り星(くだりぼし)とでも言うような。ああそもそも読み方が違うのかもしれない。ほしふるよるではない、ほしくだるよる。

読み。あっ。文字より先に言葉。「ほし」「ふる」という言葉に、我々の馴染みではない意味があるのではないか。日本の古典や文学に詳しい人材おらんかな。おらんかなあ。あなや、こんなところにインターネットがおはします。ここでは無限に情報が降ってくるのだ。引用部はリンク先。

http://linguisticrootsofjp.web.fc2.com/expressiontowonder/expressiontowonder_1.html

「ふ」という言葉はいろいろの意味を持っているけど、そのひとつは、「表面」、「外観」、「界面」

を意味する。「ふりをする(振りをする)」、「ふくれる(膨れる)」、「あふれる<あふる>(溢る)」

など、同じ謂れだ。ここの場合は「ふる」というのは「表面を覆う<おおふ>」ことを意味する。

説明としてはとても納得がいくものだ。星の降る夜とは、星が一面に視認できる夜空である。雨が降るというのも、視界が全て雨に覆われるもの。高所から水分が落ちてくるという事象との相関はこの星降る夜という表現においては、実はあまり問題にされていないのではないのか。

いやいや…。我々の頭上というのは単にモノが落ちてくるだけの世界ではないではないか。天の恵みの例えの如く、その御座には神様たちがおって、何がしかこの地上に寄越してくる。其のありがたみにあやかっているのだ。星々の美しさを素朴に例えた、などと薄甘いだけの由来ではあるまい。星が降る夜があれけば、お天道様のご機嫌な一日がやってくるやも?慎ましく大地に生きた人々の、明日への希いがここにありはしないか。

現代も星空に願いを託す人は少なくない…ろまんてっくな観測によれば一応はそういうことになっている。お星さまはご健在だ。だけどもう少しすれば、夜空にはきっと何か目視できる人工物が浮かぶかもしれない。ほら、大地を離れて暮らす人々の巨大なお住いとか?案外お星さまよりは願いを聞いてくれそうであるな。

我々はこの星を離れ、いずこに願いを託しましょう。星は上下左右に「降って」いる。星空どころか空や星座ですら地球でのローカルルールでありました。絶やされることのない祭壇の炎の如くに、象徴としてのお星さまが、見据えて願いを託す、人たるものとその外を隔つ門が要るのです。篝火よ。そらこぎわたるわれぞさびしき。

街の明るさに塗れてお散歩などしていると、そういう気分になることもあります。これからストレスのたまる季節になりますが、そのほんの少し手前の今だけに許される涼やかな夜更け。