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「夢」を観た
一応ネタバレですよ。
世界のクロサワ的な映像作品ですが、過去に見た記憶があります。どれかなーっとシークバーを探っていくと、2番目のエピソードで御座いました。その他のエピソードは初見の筈でしたが、映画の作風的にもじっくり見入るようなもんとも思われず、ぼんやーーりと観ておりました。見せ場はまた祭りということで良いのでしょうか。最後のエピソードは実にぐっとくるものでした。美しく映える映像で、自分は案外こういうの大好きなのかもしれねえ。
ゴッホ役の人、マーティンスコセッシって書いてあってたまげた。ちょっと前に彼が撮った「沈黙」もamazonのプライムビデオにあったな。プライムは無料の対象外だったけど、GWに見ておけばよかったか。原作たる遠藤周作の小説は十年以上も前に読んだはずなんだが、流石に細かい中身は覚えていない。小説とかの場面場面を覚えていられる人ってどういう頭してるんだ。
しかし不思議なことに、夢なら自分もえげつないものを見ている。いまだに覚えているものもある。そういうものを書き留めてネットに公開などをしておりましたが、すでに手元にもなく。結構グロい感じのものが多かった筈だ。狙ってそういうのを書いたもんだ。けけけ。黒澤の見たという夢はどこまでこの作品に近いのだろう。原子力発電所が~~なんて夢に見るのか。そこは流石にうさんくせえわww
で、提供:スチーブン・スピルバーグ要素はどこ?絵の世界を人物が歩く、とかその辺の発想か?お面取ったらユダヤ人だったりすんのか(暴言)
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栗城史多氏の死亡の知らせに関して
そりゃそーですよね。
彼の活動には多くの専門家が疑問を抱き、ついには野次馬からはプロの下山家とまで揶揄されてしまった。批判されるに値するような活動だったのだろうか。そういう情報はネットを探るにいくらでも出てくる。結局はまた無謀なんだか自棄なんだかという挑戦の最中に亡くなってしまった。亡くなってしまえば…というのも引っかかる言い回しだけども、まずはご冥福と手を合わせるしかない。
素直に言って、なんかこう、美談になって欲しくないんだよね。寧ろ周りに彼を止める人は居なかったのかって思う。強くそれではダメだと言うような人が…。子供じゃないんだから本人がやると言えばやるんだろう。そりゃそうなんだろうけど。
彼の活動歴はwikipediaにも、彼の活動い疑問を持つ人たちの間でも情報はまとめられている。挑戦は多いが失敗も多い。単独だとか無酸素だとか仰々しい宣伝文句も、誇張に満ちている。死亡を確認したのも現地シェルパだという。最後まで単独云々は嘘でしたって事になってしまうの?なんだろう…納得できない。挑戦したいならすれば良いじゃないか。なんでうそつき呼ばわりされるような設定までして挑むんだ?そうでもしないとスポンサーはつかないものなんだろうか。あるいはスポンサーがそういう”方針”を決めているとしたら、そのスポンサーは無責任でいられるか?
ここまでが、「そりゃそーですよね。」という感想の根拠。彼について、何度か挑戦すればいつかは、というレベルではなかったようにしか読めないんだよね。もしかしてチャーリー・ゼレノフみたいな人なんじゃないかと思ってしまうんだ。(自分の別ブログで書いた記事)
大きな目標に挑戦し続ける事は素晴らしいと世間は言います。そうでしょう。何事か成し遂げることが出来ることもあるでしょう。でも、資格というか、超えるべき壁を超えて進んできたという積み重ねが要るもんだとおもう。そんな壁を超えると、あるいは壁を超えることが出来ずに諦めかけた時、鍛錬とか経験という言葉では説明できない何か一つの、感情のようなものを得ることがある。
栗城氏は自分を見つめただろうか。冷静に現状を分析したのだろうか。良くわからないけど次こそ行けそうだ、なんて毎回気軽に思っていただけなんだろうか。自分はそういう、兎に角挑戦の数を重ねようという心構えが、良いものだとは思えない。トレーニングだというならそれで良いのかもしれないけどね。
彼の心境など彼でしか知り得ないものだし、どうこう論じようもないけど、どうしても想像してしまう。どうやら今度こそ命が危ないという時に、「何で無酸素とか言っちゃったんだろうなー」なんて後悔してなかっただろうか。「もっとトレーニングしておけばなー」とか。「あの人のいう事聞いておくべきだったなー」とか。
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審判の非
スポーツ観るのは好きです。
現地で観戦の面白さも分りますが、やはりわてくしは今時のインドア派ですから、おうちでインターネットで楽しみます。昨今はネットでも中継など当たり前のようにされますし、そういうネット配信環境は現地観戦に比べると競技の内容だとかが把握しやすかったり、解説が付いていたりで、大変に楽しめて良いです。内容把握できないもんを現地観戦には行きませんがね。ネット配信はどちらかと言うとマイナーなものも多く放映されています。ダーツとか、スヌーカーとか。どっちもメジャーだと?では、丸太を切ったりする大工の競技会とかどうでしょう。スポーツとは言わないかもしれませんが、ポーカーなんかもありますね。お家のPCだと、見ていて面白くない時に一瞬で他の事に切り替えられる、というネガティブだかポジティブだか怪しい特徴も良いです。例えば映画を見ている時だって、ツマンネやーめたって思えばすぐに他の事が出来る。
そんなインドア観戦で楽しむ映像の質もだいぶ向上して、リプレイのスローモーションも被写体がブレブレのコマ送りなどではなく、その一瞬まできっちり映し出すことができるようになりました。こういった映像が見ている人すべてに伝わるとなると、現場で働く審判は大変ですね、という話です。スポーツの種目によっては、どうやっても人間の目にはリアルタイムで追えないようなものをジャッジする必要があるのですが、追えないんだからそら無理だよって。さてどうしましょう。サッカーなんかは選手以上に走りながらの仕事なので、現状でもとても良く仕事してると思うのですが、すべては見れませんからね。
画質やら撮影技法の向上により、細かい挙動も確認できたりするのです。これによって、審判やプレイヤーを欺こうとするような選手の行為も我々はまざまざと目にすることになります。サッカーとか。サッカーは元来、現地よりも映像のほうが楽しめると思って観戦大好きだったのですが、正直、前述の行為のイメージが強くなりすぎてもうあまり好きではありません。どう見てもファールなのに両手広げて審判にナンデダヨーみたいなアピールとか。クッソはずい。そら選手や観客の思惑通りにはジャッジされないこともあります。だからって、どう見たって相手に肘を入れにいってカード貰ってるのに審判に悪態をつくとか、こういうの見てて興味失います。こちらはその証拠というか、判断に足る情報見えてるので。あなたバレてますよ?って。勿論、毎回毎回そういうことが行われているわけではないですよ。とはいえなんかね。プロのスポーツでこういうの見る気失せます。
そこで昨今、人間に頼るのではなく、ジャッジも迅速で正確後から参照する証拠も残せる何かテクノロジーに替えたほうが良いのではないか、という事になります。話の方向性としては自然ですよね。ここ数十年はまさにそれこそが文明の証とでも言わんばかりの、人間の作業を何かしら半自動化する流れ。自分の身の回りでこれが実に上手くできたのではないか、と日常的に実感できるものに、お店のレジと駅の自動改札があります。もっといろいろ思い当たる人もいるでしょうが、日本の都市部に住んでいればまずはこの二つじゃないかなー。何かを読み取ってピッ。自分で写真が撮れる、なんてのもそれに含まれるのかしらん。
ではスポーツでもそんな仕組みをうまく取り入れてなんとかできないか、となるんですけど。はたしてスポーツのそのシビアなスピードに追い付けるのかということ。明確性を満たせるのか。その設備は現実的に導入できるお値段になるのかということ。技術面については可能だろうと思う。例えば今でもドライブレコーダーの動画なんかを見たりするとそう思う。あれのプロ向けというか高性能品だったら…と想像すれば、余裕でいけそうだ。ご予算はシビアだろうけども…。少なくとも、世界のプロスポーツの何処も手が出ないなんて事にはならんよな?アメフトなんかドローン飛ばしたりしてんのに。だから、実際に審判を機械メインにしてみましたーってのを目の当たりにする日が来るのは、そう遠くないと思っている。
おーできるじゃん、と。しかし、それでもまだ技術面で懸念している点がありんす。機械というかコンピューターの力で情報を取得し、後追いでなら、判断は明確にできるようになりました、と。でも、それを観客とプレイヤーに分りやすく表現できるのだろうかか。ジャッジはゲーム中に行われるもので、選手もそのジャッジを判断して次のプレーに移るわけですから、リアルタイム性とぱっと見の分りやすさが担保されねばなりません。スポーツによっては大袈裟なアクションに代替するものが必須になりますが、どうだろう。機械が得意そうな光と音で対応できる?もしかしたらゲームの演出をリアルに映し出す、ぐらいの大袈裟さが必要なんじゃないかなと思う。ボールがラインを割ったら芝の色が変わる、とかですよ。
…そんなのは流石に難しそうじゃないかな?なるほど、そら現時点ではまだ人間と技術のハイブリッドになるわけですなあ。出来る所から導入していく。考えてみれば…NBAのブザーと、バックボードが光る仕組みを見た事あるでしょうか。バスケットボールには何秒以内にシュートしないとダメってルールがあります。その秒数を経過すると、バックボードが光ります。あれが光った後のシュートは得点になりません、ということですね。なので以下の動画のような見せ場も、一旦ジャッジのほうを確認する、みたいな必要がなくて観客の盛り上がりにもスピード感がでます。野球で言うと文句なしのサヨナラホームラン的な。
自分は結構ゲーマーなので、人間のジャッジが居ない世界で遊んでいます。だから一発で全部テクノロジーに切り替えるには云々とか考えだしてしまう。そうじゃなくて、取り入れらるところから、仕組みとルールを調整していけばいいんですよね。あとから証拠参照で、ジャッジの結果を変えれますよって。野球でたまにあるチャレンジとかいうアレ。こういう仕組みの導入を何度か繰り返し、もろもろ足して引いてしていって、何処かでこれで良いんじゃないか?ってポイントが見つかって、その時点での解決策とすれば良いんですよねー。考えてみれば、みんなそうじゃないか。電光掲示板にリプレイが出る、選手の名前と背番号の一覧が出る…みたいなものも、昔はなかったじゃないか。先のバスケットの動画だって、そこまで高度じゃないテクノロジーを効果的に使うことで、秒数経過という客観的には分かりにくいルールを明確化に成功しているじゃないか。ど当たり前の話で御座いました。
だけど、個人的にまだ懸念点があります。そんな素直にテクノロジーを信頼するもんだろうかという心配です。というのも、リアルタイムの映像加工なんて現時点の技術でもできてしまうじゃないですか。ちょっと線の外か内か、なんて…。テニスを例に出しますと、あの土じゃないコートでは、ボールの跡も残らないだろうし、そりゃ機械に頼る。サーブの速度なんて200Km超えてきますから人間の目には厳しい。ではリプレイ映像を参照しましょう、というこの映像が悪意で改竄されていないと言い切れないのではないか問題。これでは映像証拠を確たるものとする、という前提が揺らぎかねない。信憑性があるからこそ、ルール内の一定の範囲に於いては機械的な判断結果を人間のジャッジに優先するようにするってアイデアなんですから、本来。
さてどうしましょう。これでは今の人間の審判と立場が一緒では?結局は納得のいかない立場の人が出てきて、すったもんだする。結局は人間同士での権限のぶつかり合いで決めるのでしょうか。ここに「この映像が加工されているんじゃないのかチャレンジ」が始まってしまいます。これは言うなれば、この電気審判は買収されているのではないかチャレンジ。八百長疑惑の追及をリアルタイムで。試合中という限られた時間でその尻尾を掴めるでしょうか!?…もはや新種のスポーツと言えましょう。
そう、これがe-sportsの興りでありました。翼よあれが審判の灯だ…。
本日の漫談ここまで。あまり実のある考察にはなりませんでしたね。ちなみにe-sportsはFPSのハードコアなのが好きです。
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サッカーで例えたら本編におさまりきらなかったので。野球のように、ルール上ゲームが一旦停止的な扱いになる場面があり、それに当てはまる状況か否か。また、プレイヤーの次のプレイへの意思がどうかでジャッジが変わったりするようなものは、機械には難しいという感じもあります。そらサッカーだって意図してない衝突とかありますけどまあ。
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家政婦は撮ったー
スーパーに行くと、どっかへ駆け出そうとする子供と、それを叱る母親ってどこでも見かけるもんですね。自分も子供の頃はそうだったかなー。
という、この母親。鮮魚コーナーで店員さんからお刺身を受け取っておりました。サクを切ってくれるサービスですね。お子様に見せて「凄い量になったね~~」と話しかけており、お子様は「スゴイスゴイ」と言いながらどこかへ駆け出そうとする…やめなさいと言いながらこの母親は、そこらの台にこの刺身になったパックを並べ、スマホで写真撮っておりました。
何だコイツ…と思ったのですが。きっと家では出来ないんでしょうね。だってそこらの「転用禁止」とか書いてある箱の上ですよ。スマホだって持ってないことになっているのかもしれません。あるいは休日お仕事中の旦那に晩飯の速報を流しているのかもしれません。自分は黙って300円ぐらいのやっすいサクを買い、安い鰹は安いマグロよりマズイという事象の確認に余念がない、ある一日で御座いました。ほんと美味しくない。
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記憶もあてにならない
チャレンジャー号の爆発事故をご存じの方は多いと思いますが。
先日、とある街を初めて訪れてちんたら歩いていたら、視線の高さ、思わぬ近さに旅客機が見えた。ほえーと眺めていると、さらに続いてもう一機ゆっくりと続いている。位置的にはもう羽田空港しかありえないので、旅客機が見える事は直ぐに納得できた。あのまま着陸するんだろうか。快晴の薄汚れた都会のそらに霞んで、滲んでいる。爆発せんだろうなあ、なんて思っていると、ふと、滲んだ機影で冒頭のチャレンジャー号の事故を思い出したのだった。あの日は確か、小学校を休んでいて、昼下がりに元気になって祖父母の居間でテレビを見ていた筈だ。やがて事故の一報が入り、ちょうど休憩中だった両親もテレビの前に佇んで「ひえ~~」なんて驚いていた記憶が、ふと、よみがえった。
まてまて。
チャレンジャー号が空中で爆発飛散した映像はくっきりと記憶に残っている。地上で悲鳴をあげる現地の人々の様子までも。これがおかしい事に気が付いた。前掲のwikipediaの情報では、現地時間では午前11:39だそうな。日本時間では深夜の1:39であり、自分が見たのがライブ映像の筈がない。時間的にも、日本の翌朝のニュースに間に合わないわけがない。みんな朝のニュースで知るだろう。その日学校を休んだ自分は朝起きてこなかったため、自分がニュースを見ていなかっただけ、と考えると辻褄はあう。事故の日付は1986年1月28日で現地は火曜日、ならば自分が事故のニュースを見たのは水曜日の昼過ぎということになる。家族は朝のニュースでは映像を見ていなかっただけかもしれない。
記憶などあてにならないもんだね。ならばついでに、平成になった日も自分は学校を休み、同じように家族そろってテレビであの小渕さんが色紙を披露するシーンを見た、という記憶になっているんだが…。実際どうだったんだろうか。検索したら1989年1月7日は土曜日だった。例の色紙のお披露目は14:00過ぎ。なあんだ、やはり記憶違いだった。家族はあまり曜日に関係のない仕事をしていたが、こんな大きなイベントに仕事の手を休めてテレビの前に集合したんだろう。
今と違って、手元のスマホでyoutubeの動画を観れる時代じゃない。テレビは二台あったと記憶しているが、それでもみんな一ヵ所に集ったもんだなー。今更30年前の、そんなパーソナルなものでもない記憶を訂正したところで、何も起こりはしない。だけど、なんかの折に記憶違いで単なる嘘を言ってしまうかもしれないしな。こうして調べる事ができるテクノロジーに感謝し、ついでに2001年9月11日とか、2011年3月11日の記憶にパッチを当てて、どうでも良い事に時間を使ったわけです。
このエントリを書いたのは2018年5月17日の0:30ぐらいであります。将来この日の事を覚えているだろうか。今日は天気予報に反して晴れ。30℃を超えた。シャツの色は白。上着は着て出勤。クールビズでこの一年ずっとネクタイなし。水曜日。定時帰りが推奨される曜日で、30分ほどの残業で退勤。地下鉄の車中、ずっと技術系の真面目な雑誌を立ったまま読んだ。カテ6のケーブルの扱いだとかを読んだ。読んだ本の発刊が2011年で、少々内容が古いが、為になるものだった。初めて二台持ちにした安いスマホ、SIMも刺さずに、電力がどれだけ持つのか試すべく持ち歩いた。そのことは誰にも言う機会がなかった。晩御飯は戻した乾燥ワカメと、茹でた鶏むね肉。練り物と豆腐の煮物も食べた。1:00を回り、そろそろ寝るかと、布団に入る。
…ところで、当時小学校は土曜日休みだっただろうか。
あゝなにもわからない。ぼくにはなにも、わからない…