ほかのまち
朝より出かけ、所定の時間まで、時間つぶしに駅前の、まるいベンチに腰かけてぼんやりと周りを眺めている。人の多い街は、見ていて飽きない。最近、昔は理解できなかった「街中でそこらを行く人の観察が面白い」などという人のここちが少しわかる。目の前を過ぎる十秒ぐらいの間に、誰かに似ているだの、装いが奇抜だの。人々というのは、やっぱりユニークなものなんだな。平和な社会のなせる業。
政治家というのは、どこからが政治家だろうか。現役の国会議員は異論ない。大学で研究をしているような「政治学」の先生は違うと思う。各自治体の首長は…どうだろうか。うーん。では拡声器で演説をしているこのやかましい市議の候補者は。彼の政治的チラシ配りを手伝っているこの人は。まるいベンチに座っている人にも順に手渡そうとして、皆に断られ、煙たがられている。自分ももちろん断る。
「若い人は政治に興味がない」とぼやく人がいるが、若い人が興味をもった結果、「ダメだこりゃ」と見放されたという風には考えてはいないのだろうか。危惧しているよりもっと状況は悪い。…あるいは、良い傾向なのかもしれない。何かを変えようと風が吹くかも、というやつ。そんな呑気なことを考えていると、根こそぎ悪意に持っていかれるというのが歴史の教えかもしれないなあ。
自分は何をするにしても不注意が多いので、ずっとそれを前提に生きていこうと決めたのです。決めてはいるのですが、勿論、決めたぐらいで解決はしません。改善はありましたが。メメントって映画のレビュー書いた。あれはいくら何でも極端だけど、なんでも忘れるから何でも記録を残したれって発想には至極頷ける。ところが、記録を参照し忘れる、みたいなことが頻発する。自分で自分をチェックする機構が上手く動いていない。自分がbotにでもなったつもりで、毎日何をするか、何をしなければならないかというのをアウトプットしてみようと思い立った。設計図であり、聖書を作ろうと。自分自身など信用できるか。
こんなことを考えていると予定の時間を過ぎそうになる。メモ帳に「時計を見る」って書かないと!終いには、メモ帳に「メモ帳を見る」って書かざるを得なくなり、スマホに「メモ帳を見る」ってメモを残さざるをー。名前を「メモ帳みろ」に改名したりして。ああ。キリスト文化圏で、聖書の聖人の名前を付ける風習は、あやかりたいという以外に、キリスト者であることを常に忘れるな、みたいな事なのかもしれない。自分は不注意者であることを忘れないという名前にするにはなんだ、与太郎とかにすればいいのか。あるいは茗荷。
冗談抜きで考えても、街角にある「出会いがしらの事故に注意」とか、小学校にある「廊下はしるな」みたいなもん、目につくところにあるから効果がある。自宅にそういうの置けば良いんだよな。で、実際置いていたのを思い出した。玄関のドアにホワイトボードぶら下げて、予定を書いておく。造り上、風呂トイレに行くたびに目に入る可能性が高い。外出時には猶更。なんで止めたんだっけ、と思い起こす。宅配便を届けに来る人に丸見えだからであった。受け取りのサインとか書いている間に、ね。今考えれば、裏返してドアを開ければいい話だわ。
なんというか、もっと工夫して人生に取り組むべきなんだよ。何度も自分あてに書いているフシがあるなこれ。できれば穏やかに静かにぼんやりしたまま平和に人生を終えたいと思う。でもそんなの高望みが過ぎる。十億円宝くじで当ててから考えればいい。そう思って月に一回ぐらい宝くじ買うのに、日々の細かいチェックや工夫がアレなんだよなー。
それでも必死で船を漕いでいれば風向きが変わるというのが、良い人の人生でしょうが、どうも自分には。令和の世に期待すっかなー。こんな言い方はあれだけど、この春は自殺者が少なくなった、みたいな統計が出ると面白い。どうせ作為的な数字だろ、で終わりかねないが、さすればほれ、又の国難にも改元。早良親王とか道真の祟りに対応するみたいな発想。そうよ、天皇は神道に於いて高位の呪術師とみる向きもあるところ、俺も共に祈りたい。ハァ十億円~~~。