• どくしょかんそうぶん

    “兜町コンフィデンシャル”を読んだ。

    兜町とは、東京証券取引所の存在するあたりの住所。東京証券取引所から、茅場町駅のあたりにかけて証券関連会社などが多く、ゆえに兜町と言えばそれは自ずから金融証券関連のトピックを連想させるものである。

    前評判の良かった本作、実際に読んでみるとこれが非常に読みにくい。唐突にいろんな人物が現れては消えていく。場面に登場するのではなく、ただの説明で出てくる。〇〇の関係者の××がオーナーのなんたらかんたら…そんなことを大量に書かれても、関係が把握しにくいったらない。しかしこれは、致し方ないとも感じた。作者が追っかけた、実際の事件がそういう構造なのだ。裁判の過程を追ったりしたら、こうだったんだからしょうがない。複雑さを利用して不正に(あるいはグレーに)資金を調達したりしていた、というような事件だったのだから、文章にしても複雑で読みにくい。

    じっさい、作中の登場人物や、企業は実名であり、試しにそれらの単語をググるといくらか情報がヒットする。もめ事や裁判などの情報がヒットして、そらそうでしょうな、と。

    つい最近、DLEとかいう会社が上場以来ずっと粉飾決算でした、みたいなニュースがあった。兜町コンフィデンシャルを読んでいる間にもこのニュースが頭をよぎり、証券取引所も舐められたもんだなあ、などと思っていた。DLEは経営陣の逮捕はされなそうだし、3000万円ほどの追徴金で済むらしい。ヒラの会社員だって場合によっては経歴詐称は解雇にも相当しよう。職によっては刑事罰の対象にもなろうものだ。それがねえ…。

    あまり投資に詳しくはないけど、定期的に「公表前から不自然な株価の動き」と揶揄されるようなインサイダー疑惑の取引の噂を目にする。アウトかセーフかで言ったらアウトなんだろう。しかし交通法規とか租税の話と同じで、どこまでも純なまま、100%法規に従ってやっていけるものなんだろうか。まったく往来のない場所で赤信号無視したこと、本当に一回もないですか?

    されば、金融の世界において「これより先アウト」の線はどこにどうやって引かれるんだろう。日々の営みに織り込まれた、アウトとセーフの判定が存在するだろうか。先の信号の例で言えば、「歩行者の時はセーフだが車の運転中はアウト」という線を引いたら、皆さんどのぐらい納得します?

    本作が上梓されたころ、アフィリエイトのスパムはあった。例えば、広告とは判別困難なリンクや画像を踏ませるための、ある種の工夫が存在する。これはどこまでがアウトで、どこまでがセーフだろうか。web技術者界隈では、web技術用語を使ってある程度筋の通った説明ができる。そうして一定の基準が出来上がる。こういうの、コンセンサスと言えるかな…?では仮想通貨はどうだろうか。某スピンドルはどうなった? coinhiveはどうだ?それよりも遥かに遥かに長い歴史をもつ証券取引所、株式市場はどうなんだ?

    ここに線は引かれました。光の速さでめぐらされるのです。そして線を人間が引くのであれば、引いてる人間が線の先頭におる、これまた道理。3億円強奪がとはしゃぐ与太郎を後目、500億円の窃盗譚が風化。あなや、仮想通貨自体も風化し、この風は光を超え、流れてゆくのでございままままままま。

    株とか事業に出資というのが、そもそもローカルなスキームだということですかね。未解決の犯罪ではかる話じゃあねえけども。経済わかんない^q^

  • ふでのゆくまま

    袖の扱いに困る

    袖と申しましても、不正なマネーの話ではございまっせんで、被服のお噂でございます。

    家事などしておると、袖というのは邪魔になります。単純に濡れますからね。また、こんな体形の都合でXLとかXXLなんて服を着用していると、ちょっと袖が長かったりすることもあって…。もちろん家事をするときに着ているような服は袖をまくりやすかったりもするんですが、ずっとやってると袖口が伸びちゃってビロンビロンになってしまう。経験上、ジャージが一番袖がびろ~んとならないので、エプロンのような扱いで家事の時はジャージを着ることにしましょう。ちょうど今ジャージの持ち合わせがないのでこんな事をしたためました次第。

    これからは寒さも和らいで来るので、半そでの服になればそれで済みます。世間の奥様はどうしているのだろう。厨房の洗い場なんかはどうだろうか。自分がバイトしていた頃は袖まくりだったかな~。

    今年度というか…去年の分の納税も済ませて、こちらの袖にも困ってはいるのですが、窮するほどでもなく。いまんところはね。未来とか不安でしかない。そんなに希望ばかり投げつけてあの方たちは、とつてもはしたないのね、ヲホ、、、。あとは世界にSodeなんて街でもあればと思いましたが、なかなか見つからないのでここで〆。今回も実用性と機知に富みました。

  • ふでのゆくまま

    書を捨てよとおくの街へでよう

    さあ地震だ何を持って飛び出そう!という準備や心構えが役立つかどうか、結局は運であるとしか言いようがない…。それでも、非常時の持ち出し袋なんかをまとめると、「これを持って脱出すること」という明確なミッションが誕生する。あわわわわわって慌てるよりは遥かにマシな被災生活のスタートになる…かもしれない。毎日半分以上外に出てますけどね。

    さあ引っ越しだ!ふと思いついただけで、何の目途も立てていないのに持ち物の処分に余念がない日々であります。実行に至る準備は何もできておらず、物件も決めてないからには退去日も引っ越しの手続きもなにもない…。ただ、どんな形であれば転居となれば、確実なことには部屋にあるものすべてを持っていかねばならない。んで自分の持ち物を眺めると、ここに「これを全部運ばねばならないが、事前に減らすことが出来る」という明確なミッションが誕生した。何かの時に役に立つはず、良くわからないから取っておこう、みいなものをどんどん処分することになる。すなわち!コンピュータパーツ関連の箱や、ジャンクパーツそのもの、数年前の役所の書類…あなや、十数年前のものまで出てきた。十年袖を通していない衣類、あれやこれやなんかや。

    こうして不用品が減ったからと言って、セットで必須のアイテムが増えるわけでもなく、その活用の幅が広がるわけでもない。押し入れにスペースはできたが、タオルなど日常取り出す品を入れてもしょうがない。今置いてある場所から移動しようもない。ほかに三段カラーボックスが丸っと空いたが、そこに何かを入れようか?しかし入れるものがない。ではこのボックスがもう邪魔なのか、というところの判断が先送り。さらに本棚までまるっと空いてしまった。もともと、この本棚は背の高く軽い板でできた、不安定な物なので重い書籍をそこにストックする気になれず、薬箱や領収書の類といった軽いものをケースに入れて積んでいた。一連の処分を経ると、そういうものが全部押し入れに収まってしまった。薬箱が押し入れでは不便だわ、と元に戻すなどすると、押し入れにも本棚にもカラーボックスにも空虚が点在するという、歪な計画が露になった生活空間が爆誕してしまったのである。本棚の隙間に顔を突っ込んだら高次元に繋がっていてにょきっとのぞき込めるぐらいしないと寂しいわ。インターステラー部屋だ。わはは。あのシーンの元ネタはドラえもんの引き出しだって知ってました?嘘です。わはは。

    そういえば「インターステラー」がamazonプライムビデオの無料枠に入っている。まだの方はぜひ。

    本質的には暮らしの快適さの追求ではなく、運搬の手間を軽減する、というお題目で断捨離したわけで。具体的にXXXがスムーズにできるようにとか、XXXを置くスペースを作ろう!ということではないのだ。ところが実行してみると、余裕を得た。いわゆる遊びという意味での余裕。これをこっちにまとめれば…と考える余地ができた。物理的にも、こころもちにも。その思惑こそが却って抜け出せない沼地の感も強いが、一旦動かしてみる、いまいちなら元に戻す、という作業はスムーズにできるようになった。これはもう一度工夫してみる余地があるか。

    いや引っ越すという仮定だろうがと。この部屋でいまから工夫してどうする。ごもっとも。

    単に引っ越したぐらいでは、日常必要なものが変わることもないだろう。だったら、部屋に置きたいもの、押し入れに放り込む物の選択も同じになるハズだ。でもウォークインクローゼットなんてある部屋になったら、スーツと上着、衣料品は入るだけ全部そこに…またロフトなんてものがあったら、やはり布団はそこになるだろうか。いやいやロフトは面倒くさそうだなー。現在住んでいる街は気に入っているので、なんなら数件隣でも良いかなって思わなくもない。でもせっかくだから、ご予算などに応じて何処かへ行くだろう。なんて…そんな選択を楽しめる余裕があるかの如く勘案している、そういう緩みがダメ人間。遊びと緩みは違うのだよ。

    書を捨てる話書いてねえな。

    昨今は不用品の処分の方法が多様化致しました。オークションやフリマ形式で自分でネット上に出品出来たりしますね。公園とかでやるようなフリーマーケットはもう下火なんじゃないかなー。では自分も、というところで、ものぐさ属性が発動しました。こうかはばつぐんだ!これらのサービスを利用するにあたり、売りたいものを「出品」という表現になりますが、実際買い手が見つかるまでは手元に置かねばなりません。発送するには、梱包してコンビニへ持って行ったり特定のサイズの梱包を事前に用意する必要があったり、それなりに手間です。こちらの手間だけを都合にすれば、できるだけまとめて売りたいものですが、買うほうからすれば、その選択はシビア。無駄な物品まで買う人などおりますまい。

    どーしよーかなーと思っていると何もしないのが自分の性格。ローカルな古書店を訪れることにしました。ついでにDVDとCDも数点。十年以上も前でしょうか、お金に困ってCDを売った時は、両手ピキピキ言わせる重さだったものですが、今回は紙の手提げ袋にややずっしりという程度。

    買取額の計算を待っている間に、「野村證券第2事業法人部」が売られているのを発見してピクッとなるが、ここで荷物を増やしてどうするよ。殉じましょう。amazonさんから闇金ウシジマくんが月末に届きますがそれはそれ。結果として1450円という買取価格で、皆さんはどのぐらいの量を想像されるでしょうねえ。CD一枚だけ400円の値が付いたものがありました。そんな売れ筋なものを持って行ったつもりはなかったし、最新ものものではリリース日は二年以上まえだったはず。なんかプチプレミアでもついたろうか。あとは100円とか50円とかそんなもん。

    こうして大騒ぎしてなお、手元に残った「書」にはいかなる理由があるだろう。技術系の書類は当然売らずに置いてあるんだけど…それ以外。お気に入りの書物。こういうものまで全部捨ててしまうという方針は、実際とても合理的なものであるんだが…自分にとっては大事なものというのがあって良いじゃないかと。あるべきですよね、と。文庫本3冊、CD3枚に収まってしまった。

    「電子書籍」の一言で書いてある内容ぜんぶ吹っ飛ぶのはわかるんですけどー。音楽だってamazonプライムミュージックじゃねえかよ。 技術系の本、たいして読んでないものも有用な事が載ってると思えばこそ取っておくわけで、段ボール三箱にもなっている。当然、ほぼ全部が電子書籍で読めるだろう。ようやく防水を謳う電子書籍リーダーも出てくるようになったし…風呂で読めるならな~~~。ところがその端末、利用者の評判がいまいち。紙の温かみ~~なんてオカルトなことを言わないけど、こういうボトルネックがあればこそいつまでも躊躇っている。紙の本のボトルネックは暗いところで読めないということなんだけど、そんな状況ねえよ。

    引っ越しの着手まで間があるので、その技術系の書籍も捨てちゃう選択を考えるのだろうなー。電子書籍が流行りだしたころ、こうした多量の本をスキャンして取り込むサービスがあったのを思い出す。当時はいまいちピンとこなかったけど、十年近くたって需要を実感。

    でも「自炊」って言われてたのはなんでだ???

  • えさのじかんだ,  ふでのゆくまま

    カラスが鳴くからかえろう

    映画レビュー祭りもひと段落である…。映画レビューを重ねるうちに気づいたんだが、ほぼ絶対記載する内容の被りがないということに気づいた。あたりまえやん。同じ映画のレビューを二回書く阿呆がどこにいるか。そらそうなんですけど、平和な国でのほほんと暮らしておると気ままな筆も路頭に迷い、自らの足跡に慄くようなことが御座いますのよ。ほら、映画レビューもひと段落、って書いたの何回目だおい。ガクブルでありんす。

    で。

    定時退社を朗らかに炸裂させたら、見上げればまだ空が明るい。あけおめとか言ってたのは確か先々週ぐらい、そんな気分でいたらもう冬も終わりそう。日が沈む少し前の薄い茜に二つ、鳥の影。カラスかな。日の出日の入り、あけぼの飽きもせず。

    カラス増えた?石原慎太郎が都知事だったころは、確かポスターに本人が登場してカラス退治を訴えていたように思う。いやスギ花粉対策だったかな…。ご近所ではほぼ一匹も見かけなかったというレベルだったと思うのだが、氏の退陣してからというもの、ゴミ袋をついばむ姿をたまに見かけることがありとても鬱陶しい。今上の都知事はトヨス対策に腐心しておられ、って移転時の騒動以降あまりニュースを耳にしない。ひどい施設だというような話が流れてきたかと思えば、それは”活動家”によるフェイクだと流れてきたり。この冬は食材に乏しかった、なんて実感は自分には微塵もないところ、果たして市場移転が庶民の食卓へ影響があったかどうか。まさか、質は下がって値段も上がったなんてことだったりしないか。愚鈍にしてわたくし気づきもせず。それこそゴミを啄むカラスのほうが知ってるんじゃねえのか。ガクブルでありんすーの。

    冬の庶民のごちそうといえば、ミカンなんかは如何か。是なりと。しかし、あまり好んで買わない。ミカンって、そこらのスーパーで買うとおいしさの当たりはずれが大きくない?だもんで、隣に並んで売っている別の物を選ぶことが多い。例えば伊予柑や、八朔だ。八朔は少々苦みがあっても、ジューシーでよろしい。それに加えて、房の半透明な皮が剥きやすいとご機嫌だ。綺麗に剥いてタッパーに詰めて、軽く塩を振っておく。冷蔵庫へ。翌日のお弁当なんかに持っていくともう有頂天。この冬は今のところ100%好ましい塩梅の物を買えている。ミカンなどカラスに投げつけてやればよろしい。やーいやーい。

    しかしながら、油揚げに恵まれないということが起こるのが愚鈍な庶民の不徳。なんでも、油揚げの中に納豆を入れて包むようにし、そのままカリッと焼きあげると美味いらしいと聞き及んだ。では早速試そうと納豆と油揚げを買ってきたものの、あけてびっくり油揚げが袋状になっていない商品だった。どう言えば良いか…一枚の「揚げ」だった。風呂敷。布。しょうがない、まな板に風呂敷揚げを広げて、包丁を振るい、魚を捌くかのごとくスイーと切れ目を入れてどうにか袋状の部分ができた。その部分を使って一個だけ焼いてみたものの、薄すぎる部分からナットウキナーゼがこんにちはして崩壊。捨てるわけにもいかず口にするけども…これが不味くないのが悔しい。ちゃんと作ればそら美味そうなのが悔しい。

    後日別の商品を探してみる…どころが手に取っても袋状になっているかの判断が意外と難しい。どこから見れば判断できるのかわからない。仮に袋状になっていても、それが外側に向いているっておかしいもんね。売ってるの全部ひとつずつ買おうか?なんて迷っていると、お稲荷さんの袋を発見。おほほ、なるほどこれなら間違いなく袋になっている。そして適度なサイズ感がある。得たり、得たり。さあ、刻み葱を多めに入れたひきわり納豆を、これまた多めの醤油でまぜまぜしてから稲荷袋詰め。これをそのままこんがりと焼く。あまり油を引かなかったので、何個目かを詰めていたら最初に放り込んだのは食べごろを過ぎて焦げかかっている。慌てて箸でつまみ上げ、ひっくり返す。そのまま少し焼いて、齧る。

    改めて、不味いはずがない。納豆が好きなら万人いける味だろう。加熱時間が短いことにより、外は香ばしくあるも中の納豆が熱すぎず、もりもりと食べれる。冷蔵庫から出してすぐだったから功を奏したか。ごはんには大粒納豆が断然好みだけど、こちらは小粒やひきわりのほうが相性が良さそうだ。お稲荷さん袋を使うと簡単だし、作り始めてから5分ぐらいで口の中という手っ取り早さ。今後もちょくちょく作ろうか。ついでに、キムチ納豆も試してみたが、全く美味しいと思わず。難しいものだ。

    客先オフィスの自販機にコーンスープが追加された。じっくりコトコト。見かけると飲みたくなるが、あの、缶に残った数粒をすぴぴぴぴと吸い取るのは、勤務中はどうも憚られる。人気のないところまで移動なんてさらに阿呆らしく、となれば家で飲むかと。稲荷袋を買った後に店内を探す。缶のスープなんて売ってないよう案気もするな…というところで、はたと思い直す。もうちっとちゃんとしたスープを作るのは難しいだろうか。自販機で売られるようなものも、お湯で溶いてすぐにスープになるものも商品があるが、もうちょっとこう…料理っぽい味わいのものを作れないか。でかい器になみなみ注いで、スプーンなど使わずに、初場所優勝みたいに口付けてうおおおおってがぶ飲みできないか。ネットに答えを求めると、コーンクリームスープの缶が市販されており、そいつを鍋で加熱しつつ牛乳を加えて出来上がり。お好みで缶詰コーン増量クルトン追加チーズ沈殿などなどすればよろしい。ふむふむ。クルトン以外お買い上げしたものの、冷蔵庫の物品の消費期限の関係上、スープはいったんはおあずけ。

    そして消費期限の関係上作ったコールスローサラダにコーンを加えてみる。キャベツを適当に荒く刻み、コーンの缶を開けてドバー。チーズを少しだけ投入、レモン汁で割ったマヨネーズで和え、あら塩ふりふり胡椒ましまし。残ったコーンは良くわからなくなったのでひき肉と炒めて、ちぎったレタスの山にぶちまけてうおおおお。さらに燃えるゴミの回収日的な意味でそのひき肉と残りのキャベツも適当に炒めてうおおおお、これはそのまま食うか。ナンプラーを買ってくるのを忘れた。翌日作ったスープはとても美味しかった。量がありすぎてガブガブ飲んだだけ。庶民。

    カラスはとても賢いらしい。クルミを割るのに道路に落とし、自動車がそれを踏み潰すのを待つことがあるそうな。料理を覚えるような事はあるだろうか。さすがに料理とまではいかずとも、例えば人参の皮を食うのに、まだ中身のあるドレッシングの瓶を探すようなことがあるだろうか。あるいはすでに、そう、畑のものをそのまま食ってもまずいけど、放っておくと人間がほどよく調理して、袋に入れてお供えしてくれるんだぞ、なんて知恵を身に着けていないだろうか。そう、あの雑誌もあのウェブサイトも、星の数とはカラスの数。トヨス一派になってカラスを愛でるわけとは?「あいつらどうせ金を貰ってあることないこと書いてやがるのさ、先代の親父が躍起になって追っ払ったカラスが正直にウチの味を伝えてるってのは、皮肉なもんだとは思わねえかい。そのうちに入り口からでもカラスを迎え入れる店が出るってもんだな、は、は、は!あいつらも真っ黒でしゃんとしたナリに見えらあ!」

    ミカンは咥えて飛び去りやすく、厚めの油揚げは端をつまんで引きずりやすい。笑わぬカラスに慰みを、眠らぬ都市の料理人、春はあけぼの、クロウ話。

    6点


  • どくしょかんそうぶん

    「あたえられるか否か 徳川埋蔵金120年目の挑戦」を観た

    徳川埋蔵金!とくがわまいぞうきん!

    自分と同世代の人には、とても懐かしい響きの言葉ではないだろうか。細かいことを知りたいかたはwikipediaにでもお問い合わせいただければよいのですが、当時はTVでその発掘作業の特番が組まれたりして、とても人気だったのですよ。糸井重里が音頭を取って(?)数回番組が放送されたようだ。その何度かを、子供のころに見た。当時も、そしてこれまでもずっと埋蔵金は何も出ていない。糸井重里だもの勝手に掘りつくしてお宝も回収してから番組をやっていた、なんてありえる。おいしい生活。

    本作はその、徳川埋蔵金発掘にかけるある人物を追ったドキュメンタリーである。糸井重里が徳川家が江戸幕府の終焉に際し、赤城山に隠したとされる埋蔵金は現在の価値で数百だの数千億円だの兆だの!言われており、否が応でも盛り上がるというものではある…。述べた通り、結果として、いまだ発掘されてはいない。これはネタバレとは呼びませんからね?

    「徳川家の隠し財産」と言ってしまうと単なるお金持ちの、例えば今でいうなら孫正義とかcisの隠し財産みたいなニュアンスも漂ってくるが、言い伝えによれば当時の国家の運営資金である。その規模もガチであろうし、なんとか守るための工夫もまた桁違いと想像する。そしてその財産とは(実際に出てきてはいないけれども)具体的には大判小判であるとされる。物質で言えば金、カネじゃなくてゴールド。総じて質量も相当のものだろう。この金が実際に存在し、隠す計画を実行に移したとしても…どうだろう、可能だったろうか。江戸城から赤城山中まで、隠匿しきれるものだろうか。例えば関わった工夫を皆殺しにする、なんてことを実際にやったのかしら。守るための工夫。簡単に見つかるようにはなっていないだろうということ…うーん。さてさて。

    このドキュメンタリの主人公となる水野氏は徳川埋蔵金の発掘作業に携わり続けること、実に三代目にして120年目ということである。祖父が手にしたという資料から引き出される門外不出の情報を元に、穴を掘って埋蔵金を探している…ということなんだが、お年のせいもあろうか「一攫千金でおいしい生活!」みたいな欲にギラギラした感じはなく、物静かでどこか怪しい雰囲気満載の老人である。なお、前述の糸井重里版の番組にもゲストとして登場している。というのも、氏は赤城山一帯の地主でもある。発掘のために先代だか先々代がごそっと買ったらしい。へえ…。一族の使命ということだなあ。

    作品のバックグラウンドばかり書いている気がするが、実際作品の中身はどうか。映像はなんとも質素だ。一昔前の小規模企業のPRビデオのような、制作年度のわりにはやや安っぽい印象を受ける画質。例えば実家に帰ってこたつに入り、祖父とのお喋りを撮っているような、ぼんやりとまばゆい雰囲気。数兆円とも言われる埋蔵金を探しているような現場感には乏しい。一応作中に穴掘りの場面もあり、金属探知機で探っていく場面もあるにはあるが、120年に及ぶ発掘にかける哲学のようなものが本作品のキモとなっている。ひとときのテレビのブームも去って、それでもたまに訪ねてくるんであろう「埋蔵金の謎を解きました!」という訪問客を迎え、一応は話を聞いて現場に共に赴く。ふんふん、へえ、ほおと生返事をしているが、後でカメラの前では「あんなの出ませんよ…」とばっさり切り捨てる。

    印象深い場面はいくつかあった。とりわけ、実際に埋蔵金が出てきた場合について言及しているのが面白い。もし発掘されたとなっても、国は時間を稼いで諸々立法して自分にはまるごと渡さないようにするだろうというのだ。言われてみれば、実に現実的で冷静な見当だろう。wikipediaにもこういう観点の議論が書いているが、確かに出てきたものがひょいっと簡単に自分のお財布に入りそうにはない。ここからすこーし妄想する。そもそもが、「特定の地域では地面を掘って遺跡っぽいもんが出てきたら、工事を停止して届けなきゃだめよ♪」という規定も、日本のどこかにあるかもしれない徳川埋蔵金対策で作ったとしたら面白くはないかな。ありえない?どうかなあ。現代の埋蔵金、仮想通貨もブーム直前にずいぶんせかせかと法体系を固めたと噂されておりますよ?こっちもブーム終わってしまったが。

    さて、本作品に登場する水野氏は実は2011年に亡くなっている。ググってみると、それ以降2,3回ほど徳川埋蔵金関係の番組がテレビで放送されたようだけど…ご存知の通り発掘されてない。その放映内容は全く知らないけど…例えば巻物を読み解く、みたいな事しなくても探せるんじゃないのかって思った。今どきの科学力で、大量の金が埋まっているのであれば何か検知できるものじゃないの?火星や木製の成分?までわかるゆーてるじゃないですか。そこいらの土ンなかぐらいわかりそうな。

    探索手段はともかく、現物をその手にしないことにははじまらない。土の中にあるというなら、掘らねば。今も地面を掘っている人はいるんだろうか?自分としては、やはり何かしら出てほしい。例えば、小さい箱に小判数枚でも良い。何かが出た、という状況で人々がどう判断するのかが興味深い。「こんなもんだったのか」としょんぼりするのか、「これは次には凄いのが出るぞ!」と鼻息荒くするのか。竹やぶで現金拾った事件みたいに、どこからともなくスコップ持った人々が不法に侵入して大騒ぎにならんだろうか。下品な言い方かもしれないけど、今現在のこの国でどういう事が起こるのか、野次馬としゃれこみたい。時々アフリカあたりからニュースが流れてくるじゃないですか。タンクローリーや列車の事故現場から物資を盗もうと殺到する人々。日本のみなさまの欲とモラルは如何でございましょう。

    なお、エンディングのスタッフロールでBGMのクレジットが流れてきた点に驚いた。ええ、オリジナルなのかーい!