• どくしょかんそうぶん

    久々に読書:twitter社会論

    文字が!文字が縦にならんでいる!

    という新鮮な驚きを表現しようと思ったけど、たまに読む漫画は縦書きでありました。しかし、読書を全然していないというのは本当。ブログやらなにやらをもりもり読んだり書いたりしてはいるから、文章自体から距離を置くことはない。でも、一年か二年ぐらいは自分でこういう本を買って読むなんてしてないんじゃないのかなー?本ってこんな軽くて小さいものだったのねうふふ。

    twitterとは、このブログの→のほうでなにやら動いてるあれ。どうのこうのと解説めいた話は検索すればいくらでも出てくるけど、インターネットを余り使わない人は、始めるまでは全く意味がわかりますまい。この本は、そのtwitterというwebサービスを真面目に淡々と陳述していく・・・。自分も二年ぐらいは使っているはずなので、本書で引用されているtwitter絡みの出来事とかも、「あー、あったねえ」なんて感じで思い出す。ボンベイのテロのとき、中国の地震の時、秋葉原の殺傷事件の時・・・は自分は外出中だったけど。直接twitterとは関係ないけど、googleが壊れた件も個人的には印象深い。自分が気付いてtwitterに書いたら、他にも気付いている人は大勢いて、てんやわんや。そのてんやわんやも、シリアスなものじゃなくて、「何かヘマこいたのだろう」という楽観的な空気まで感じられたものだった。この本では全く触れられていないけど、個人的にはgoogleの件が一番印象深いかもしれない。

    この、「同じ時代を過ごしましたね」的感覚を、現世の時間よりは幾分か早送りした速度の時間軸(=TL:タイムライン)で共有できる感覚が、twitterの面白いところ。mixiではこんな感覚なかったな。何かしら知人である理由が必要だったろ、あそこは。で、自分も著者の津田大介氏も当然twitterユーザーであって、となるとこの本を読んでいる感想は、和やかな感じの酒席で、慎みを持ちつつ、思い出話に花を咲かせ、かつ、真面目にその事象に意見を付与している・・・みたいな。おお、そういう席は好きだ。著者との間には、リアルライフでは全くつながりはないけど、共有するものがありましたよ、と。

    という書き方すると、結局mixiみたいにお友達ツールって印象になってしまうのかな。本の内容自体はもちろんtwitterやってない人にも伝わるように丁寧に書いてある。実社会での利用事例や、それに関する考察など、実に隙がない。けど、ユーザーとして参加した時の雰囲気は、実際にある程度使わないとわからない。まあそりゃそうだ。やってみる?

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    で。この本、初めてamazonで買った本ということになる。僻地に住んでるわけでもあるまいし、書店でも結構置いてあったけど、まあ、新しい社会論の本を、新しい方法で買うのも良かろうと・・・。いや、いいきっかけになりました。

  • ふでのゆくまま

    雑文

    お忙しいのはまだ続く。これはまだ耐えられるレベルだから仕事さえきっちりできれば良いやね、などと思っているが、これが日常、書き入れ時はさらに酷いなんて人は一杯いるのだろうなー。自分の割り当てられた業務をこなしていけば、全体としてうまくいく状況。そんな状況で忙しくても、愚痴も弱音も吐いてられないよ。さてさて頑張りましょう・・・というようなことを、20代の頃は微塵も思わずに真っ当な職に付こうともしなかった。うーん。死ぬまで続くビハインドって感じだが、逆転しようとかいうことよりも他に思いを巡らせたい。

    大手密林通販で買った本、どうせ平日は家にいないし、コンビニ受け取りにした。初めてだったのでその梱包がまた驚いた。

    風邪ひいたくさい。この週末もインドアか。最悪はイン布団。やれやれ。

  • えさのじかんだ,  ふでのゆくまま

    Shine on your crazy bathroom

    手足の伸ばせる風呂のある家に住みたい。

    数年来の暗室。そもそも、一人暮らしのユニットバスなど全く以って照明など意味がないと気付いたのであります。真に暗闇では少々困りますが、キッチンの照明をつけて、ドアを少しでも開け放てばよろしい。薄明かりに黙し、湯船にひそむもまた乙でありますよ。というわけで取り替えずに数年放置していたのですが、ふと、特にきっかけもなく、取り替えようと思ったのでした。雑貨屋でお買い上げ、取り付け。40Wのしょぼい灯りだけど、おお、素晴らしい。光が。光が。

    恐るべき鮮明さで浮かび上がる汚れ。ちくしょう。訴えてやる。

    PCを使うのは流石に無理だし、文庫本は目が疲れる。雑誌系が一番良いかな。でも湯船にお湯はって浸かるのって半年に一回ぐらいで、あとは全部シャワーなんだよなー。シャワー浴びながらというのはライフハックの及ぶレベルではないような気も致す由。

    帰路。前方を歩く外人男性と日本人(と思われる)女子の二人。英語で会話しているんだけど、ネイティブっぽい発音で所々しか聞き取れない。しかしその会話のさなかに明らかに「ホモセクシュアル」という単語が出て来て、ちょっとドキドキする。だってその女の子、どうみても15歳ぐらいなんだもの・・・。

    深夜までやっているスーパーがあって、24:00過ぎても駅からすぐのところで営業しているので重宝している。最近ときどき飲酒に挑戦していて、オロナミンCみたいな小ボトルにワインと書いてあったので二本ほど買う。昼飯の鉄火丼が大変に不満な感じだったので、中トロのサクを買ったりして、単騎で贅。愉悦。で、刺身食ってワイン飲んで、満足満足。なんだけど、やっぱりアルコールってダメかなー。ワインがだめなのかなー。体に合いません・・・。リンゴ味のスパークリングワインで、お手軽なのでまた今度、精神的に疲れてないときに飲んでみよう。・・・多分半年以上先か。ちぇ。

    ベーコンのしゃぶしゃぶ美味しいよ。試せ。

  • ふでのゆくまま

    違和感。

    お仕事でいろいろ煮えており、沸々しながら帰宅したりもする。その日は23:00ごろには改札を出て、帰路。住み慣れた街の夜更けが心地よい。だいぶ寒くなってきて、今年こそコート買わないとなあ、しかしお金のかかります事果てしなし、とほほ、ううう。新しいマンションに部屋の灯りが付いているのを確認し、オレンジの暖かい光、なんて自分はなんだか一生縁のないもののように思えて、ややs「オニサンマッサジイカガ」

    なんとも不愉快な。湯掻くぞてめえと言わんばかりの舌打ちなどして無視してやりましたが、近くに管理者の893とかいねえだろうなとちょっと怖くなってあたりの暗がりに目を凝らしたり、きょろきょろ。気になりだしたらイメージは具現化し、信号でコンビニの配送トラックをやり過ごすのも背後が気になる有様。どんと押されて気付くと目の前に迫るヘッドライト!アッー!!!!・・・・ビョーキだこれ、びょうき。がるる。

    あの、どこかの国から来たおねえさんおばちゃんも、どこかで散々な目にあってここにやってきたのだろうか。暗がりからマッサジイカガなどと売春するのはどんな心地だろーねー、ははは。さっきのコンビニ配送トラックのドライバーもおねーちゃんっぽかったなー、職業選択の自由あははん。基本的人権の無視!戦争の自由!国歌は君が代!国旗は日の丸!だいさく学会に、破防法を適用いたします。日の本万歳で御座います。

    違和感。あれ。何かがいつもと違う。

    トラックだ。この通りをコンビニの配送トラックが通るなんてありえない。アレは工事でもない限りルートはきっちり決められているもんなのではないか。そんなことに気付くほどに長くこの町に馴染んでおりますが、もっと違和感があるのは、交差点からちらりと見えたあの看板、流行ってなそうなビジネスホテルの一階にあったことでして、と。そういうのは観光地にあるもんだろう?今度足を運んでみましょうか・・・。

  • ふでのゆくまま

    真面目に生きる必要がある

    テキトーすぎるだろ。

    「将来は何になりたいの?」という問いかけは子供の頃から実に苦痛で、夢を語れば良いのか、自分の知る限りで一番のオイシイ商売でも語ればいいのか、何にしろ判断はできなかったので困惑した。職業が違うと何が違うのかわからなかった。「あそこの派出所のお巡りさんって、”$&$のお父さんなんだってー!」「えー!すげー!」・・・で?

    クソ田舎。社会の荒波はやや勢いを弱めて押し寄せては来ただろうが、そこに慈愛はなく、容赦なく飲み込まれていく人たちが居た筈だが、子供にはわからない。誰でも仕事があって、それで暮らしていける。選ぶのは自由。そんな風に思っていた。何になりたい?なんだっていいじゃん、それなら。面白そう、とか、楽しそうなものになりたがるものなんだろう。放って置いても背が伸びる子供には、何か一つを選択する意味がわからなかった。背よりも体重が育った。うるせえよ。やがて高校生に、そして大学生になり、街を離れる。大学で専攻が違うと何が違うのか、わからなかった。

    今に至る。この間、十余年。さて、どうやって生きていくのかということを真剣に問うたことは・・・なくもない。その度にわからん、とか、なんでもいいか、とかで納得させてきた。目指すべき人生はまったくわからない。ただ、暮らしむきとでも言うのかな、ライフスタイルとして憧れたものが統一性もなくもそもそと頭の隅に鎮座していたんだが、かなわぬ夢と悟ったか、消えていってしまった。要らないものを処分していたら、何もなくなりました。

    24歳ぐらいのころかな。家賃払えないなあ、ということを計算した後に、思いついたことは、もうどうでもいいや、だった。賃貸一ヶ月ぐらいで人生投げてられないのだが、何もわからず生きているので、投げ捨てるにもきっかけがいるのでありました。捨てに行くのが面倒なので捨てませんでした、と。地蔵にでもなるのか俺は。地蔵宅に家賃催促のお電話など頂きまして、何とか暮らしていく手段を確保したりして。またそこにも居られなくなったりしまして。まあいいやと。よくねーよ。

    いいかげん、自分の人生にぐらい興味を持ちましょう。どうにでもなる!という意思はポジティブで健康ですが、覚悟もなく、どうにでもなれ、というのは、やはり病んでおります。イシャはどこだ!真摯に生きることとの違いがわかるようになりました。真面目に責任を果たし、真面目に堕落して、真面目に嘘をついたり陳謝したりすると致しましょう。

    具体的には何もありません。