ひどいもんだ
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“Million Dollar Baby”を観た。
いつものようにネタバレネタバレ。
はあーネタバレ。
主人公は私生活はいまいち恵まれないながら、ボクサーとしては成功を収めつつあった女性。しかし試合中の”アクシデント”で自発呼吸もままならず、半身不随になってしまう…。この状況に耐えかねた彼女はトレーナーに安楽死を依頼する…。感涙ものの展開なんだけど、全体としてそればっかり扱ってる映画でもないので本編ずうっと安楽死について考える様な作品ではない。
“アクシデント”を起こした相手については何も語られることはない。何とか協会が治療費を払うなんてセリフも出てきたけどここらはリアリティを持たせているんだろうか。このようなシチュエーションになればやはり金の問題が一番。特にアメリカではそうなんじゃないかという印象が強い。なればよ…「ミリオンダラーベイビー」という言葉の意味するところ、ただ物体として生きるのにそれだけの費用が掛かるようになった、呼吸すら一人でできないこの、”赤ちゃん”のことだったりするのかね。
モーガンフリーマンが演じる元ボクサーは、現役最後の試合もこのトレーナーと共に戦ったが、意見が折り合わず、またトレーナーも正規のマネージャーでもないからタオルも投げ入れられず(作中の説明のまま。セコンドがタオル投げればそれで良いと思ってたんだけど、違うの?)、結果として元ボクサーは片目を失明する。そして今、トレーナーはこの”ベイビー”に、自らタオルを投げ入れることになる。
尊厳死だとか安楽死だとか、そういうものに強いこだわりがある人には見終わった後に言いたくなることも出てくるだろうと思う。自分はそういう判断あっても良いよね、と思うので、まあ作中の人物の行動がそんな奇異なものにも映らず…なんというか…。あまり重々しいテーマと思えなかった。むしろ映画なら良くあるんじゃね?ぐらいの。
感想文書くにあたって調べると、明らかにアイリッシュ系という描写をされている主人公とトレーナーが尊厳死を選ぶあたりが議論を呼んだらしい。厳格なカトリックの国で、自殺ほう助なんてありえないんだそうだ。ご丁寧にもトレーナーは作中で教会に足繁く通っている。この辺は我々が見たって知らんがな(´・ω・`)となってしまう。自分もう40歳になる。リアルライフで親兄弟親戚などがこのような目に遭った時にどうするのか、というのを真剣に考えたことぐらいある。本人の意思を尊重しよう。日本人ならほぼ全員これだろ。…でも実際はどうなんだろう。なにより自分がこうなった時にね?
なお、そういう話は御免だという人でも、”アクシデント”のシーンで再生を止めればロッキーみたいな映画として楽しめます。
というこのエントリを下書きにして保存している間に、祖父が重度の脳梗塞で倒れてしまった。呼吸ぐらいはできるだろうけど、作中のベイビーと大差ない状態になるだろう。会話はもうできないのではないか…。ああリアルライフはハリウッドのスタジオでなんて作られてないのね
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今年も夏がやってきた
仕組み上日付がついて更新されておりますが、頻度の問題で前後十日ほどはずれている内容が載りがちとなっておりますこちら、しかし今回は真っ当に本日の出来事でございまし、夏が来た。まー毎年来てるんだけどねー。食い物は腐るし汗だくにはなるし、もうスコールが降るようになった東京では電車は止まるし道路は水没するし、川に近いところは毎年気が気じゃあない。都会に住む人にとって夏のメリットはほとんどないんだけども、やはり燦々とした太陽がもつその活力に代わるものもないわけで。何より景色の色合いが良いじゃないですか。
寒すぎは笑えないけど、暑すぎは笑える。
選挙ですね。結局は「政党」という単位でしか選べないというならさほど各々の候補者に興味もないですが、居酒屋の社長はイメージだけでもう受け付けないだろあれ。「あー、いつも行ってるところの社長かー」ぐらいで票があつまるかな。アントニオ猪木が国体を左右するほどの大物になってもみんなでダー!とかいいながら暮らす姿は想像できないが、あのワタミの社長に権力を与えてはダメだと精神の奥が反応する。だってそうだろ、企業経営者が国家を経営して、その理念を取り入れないとか考えにくい。
会社がまだ貧しくて待遇が悪い、という話ではなくて、ああいう企業の話しには(尾ひれがいっぱいついて伝わってるとしても事実と大幅にずれはないと思う)動物いじめて遊んでいるような人間の姿がダブる。
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牡丹雪の肩口に降りるを払うこと
三杯酢をきっちりとレシピどおりの分量で作ったら砂糖の量がパねえ。お酢で健康を目指すにも他のアプローチが良いようだ。つうかあれはコーラ以上に砂糖多くないだろうか。恐ろしいことです。
お裁縫スキルはまったく身につかないので、コートのボタンが取れると大事であります。そして面倒くさくて嫌になりますね。近代なんだからよう、もうちょと良い工夫があってもよくないかい、ボタン。ボタンがだめなら、って、ジップアップのコートは洒落おつカテゴリを着こなせる人じゃないとちょっとね。洒落おつじゃないジップアップはなんかな。あーダッフルコートにすりゃいいのかー。おっさんでございます、というスーツの時以外でもいけるものなー。いやいや、おっさんスーツにダッフルコートて。
まあファッショナブルなもんに縁がないですね、ということで。ボタンあけて着こなすのもこの樽体型じゃよーんっとによーーーーーー。
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盾で殴れば
身内の不幸もあり、一枚だけ届いた年賀状、当然のように当たらず。下二桁だけでもいいから掠れやあ。
最近詫びることが多い。自分の失態なら致し方ない。仲間や部下のためも仕方ない。ただ、これ以上のやりとりが面倒くさいから頭を下げる、これがよろしくないが、これで場を収めるのも人が積み上げた歴史、習慣であります。これでひとまずは済むというところが素晴らしいというか。海外でのトラブル対処マニュアルに「安易に謝罪しない」というのがあって、それは自分の過失を認めることになるからだと説明されますな。自分のほうが悪いですと表明してはいかんと。
日本においてとりあえず頭を下げる、というのは、ひとまずは害意のないことの「おおやけ」な表明であるわけなんですな、きっと。それを受けて、頭を下げられたほうとしても、「それはわかりました。」と許した上で、さらに今後どうするのか、という段階の話になるのだな。曖昧であり、巧妙でもあるように見える。いやいやわざとじゃないんですよ、という表明が効果があるというのは、「どこかで相手の過ちを許す」という発想、常識が伴っていないと成り立たないものだろう。そしてそこには、いつか自分が「そう」なったときも許してもらえる筈だという期待がある。社会に対する信頼というやつかと思う。この国にはそれがあると強く感じる場面がある。
「お互い様」である。人生はいつもトラブルの連続で、思うようにはいかないもの。あの人の姿が、いつかの私の姿。広く広く世界を見つめ、生きてゆきましょう。
などと。いうようなことを考えるとき、いつでも、いつだって911のテロが思い浮かぶ。もっともっと身近に、秋葉原の通り魔が思い浮かぶ。昨夜のアルジェリアの事件が、アメリカで恒例になってしまった銃のぶっぱなしが、思い浮かぶ。それですらお互い様であると思う。世の中が変われば俺だって、誰だって、銃を撃つ側になるんだろう。それが許してもらえるかはわからないけんどもね。
わかるでしょう?
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やたら壊れる
IT調理器の調子がおかしい。ビックリするほどの異音を発するようになった。置き場所が少々傾斜していたので平坦な向きに90°変えてみたところ、収まった。別に火が出ているわけじゃないので、スイッチの類が横向きにあっても困らんもんんだなー。根本的な原因にはすでにあたりがついているので、まあ、いずれ解決を試みるということになるだろう。
包丁が折れた。こいつは少々驚いた。横向きにちょっと力を入れてしまったらパキンと折れた。一枚の削り出しタイプだったから、とか関係あるだろうか?100円ショップじゃねえんだからしっかりしろや。新しいのを買ったが、まだ何も切ってない。肉!肉を切りたい!!肉屋のようにどどどどど
鍋の蓋が割れた。アツアツの状態でステンレスの台に置いたら割れた。ガラスの蓋が細かく砕け散った。事故った車のフロントガラスみたいにばらばらになった。さすがにこれは掃除機で吸った。流し台に掃除機かけたのは初めてよのう。原因はアツアツの蓋と接した部分の温度差的なものだと思うのだが、真冬とはいえども東京の屋内の気温で割れてしまってはダメなんじゃ。これもしょうがないから新しいのかったらサイズが一回り小さくて煮物のストックなどができない。
もう一回りでかいのかうのだった。
クソがクソが。罵ること限りなし。ああ満足の行く人生ははるかに遠い。幸福と満足は別物かと。
一冊興味深い本を読了したが、別のところに書くとします。インターネットもクソですね。