どくしょかんそうぶん

「文学部唯野教授」を読んだ。

本書は学園パロディ…とは違うのか?文学部教授の筒井康隆式ドタバタ劇のようで、くそ真面目な講義の内容もみっちり詰まっているというお得な詰め合わせ。お中元にどうですか。

自分のような人間には作中の講義の部分はとても難解だ。この感覚をどう伝えたものか…文章の意味はわかるのだが、要点がわからん。一体なにを言わんとしているのかを把握するのが難しい。文芸批評の講義ということらしいので、もはや哲学みたいなもんか…?批評を学問するの??唯野教授、講義を受けている学生ともに、何を伝えん/学ばんとしているのだろう。いやだから文芸批評でしょ?って言われてもなあ。まあ「内包された読者」とか言い回しは格好いいので、知っているテイでどこかで使っていきたいぞ。これは「作品を買った読者」の特権だと筒井も言っている。言ってません。

引き合いに出される文学作品や著者の名前もまるで知らない。聞いたことのある作品は『重力の虹』ぐらいか。ハイデガーとサルトルの名前も出てきたな。勿論読んだ事などない。あるわけないだろ。一般人なめんな😡世の読書家とか…活字中毒😰の方々にはこんな書籍もおなじみなんだろうか。

批評ってなんなのだ。ブログのことか?めしの評価には美味いか不味いかしかなくて、不味いという表現に気を使うようであれば口に合わないとなり、もっと気を使うと特に何も言わない。逆に美味い場合もいちいち美味いというお気持ちを表明などせず、ただ「うめえ」っつって満足することだって普通だろう。この食感が~とか素材の本来の味が~とかこれは何の香りだろう?とか、実際に口にする人いる?映画もそうだし文学作品だってそうだろう。おもろい/つまらんで良いだろう。「内包された感想」だ。批評なんてもんタラタラ書くのは一体なんなのか。ブログのことか?

ネットのどこかで見かけた話だ。「この文章を読んで、この時の作者の気持ちをかきなさい」という問題がちょくいちょくある。とある学校で、その出題された文章の作者の子供が実際にいたらしい。その子は、親に「どんな気持ちだった?」と尋ねたところ、詳細は覚えてないけど締め切りがどうのとかそんな、職業作家っぽい事を答えたんだそうな。それを子供から答えとして提示された先生がどうしたのかがこの小咄のキモだと思うんだけど、そこを覚えてねえわ。

筒井康隆はどんな気持ちで本作を上梓したんだろうなあ。わざわざ脚注に大学内の仕組みについてあれこれ入れるぐらいだから、このディテールは作品のキモなのかもしれない。ちゃんと大学内部の裏事情を書きたかったんだろう。だからきっと、ホモとエイズが出てきたり、きちがいが刃物を持って暴れたという物語も取材で得た事実なんじゃないか?ひひひ。これはツツイてみればとても面白いものになると思ったんだろ。(©小林よしのり) 現代ならば臼本大学を舞台に面白い事になってそうだけどなあ。筒井先生もう一作書かないかなあ?しかし情報を漁ったら筒井センセは既に引退を決めているようだ。

筒井康隆で読みたい作品と言えば、自分の聞きちがいでなければ、勤めているホステスがみんな身体に障害を持っているというブラックユーモア作品のアイデアがあった筈だ。当人も「日の目を見ることはあるまい」と書いていた気がするが、きっとどこかに草稿ぐらいは現存するんじゃないかと思っている。

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