どくしょかんそうぶん

「塗仏の宴 宴の支度 」を読んだ

本書を知ったきっかけは、ある漫画だった。作中の人物がこの「塗仏の宴」を読んだと描いてあった。その人物はおそらく桜玉吉だったと思う。十年ぐらい前か、あるいはもっと前かもしれない。昨年の冬、何か読もうかなともろもろ物色しているときに、ふっとそれを思い出して、本作を購入していた。

さて。

複数話が収録されている形式と知らなかったので、その最初の作品である「ぬっぺっぽう」の最後は唐突にやってきた。とても面白かったのに、そんな〆はアリなのかと憮然としたもんですが、気を取り直し、続く「うわん」を拝読して驚く。繋がってるのか。

ーーー桜玉吉はこう綴っていたと記憶している。「たまさか徹夜で堪能した」

文字量も情報量も多く、まさしく堪能。作中に識者たちの会話が続く場面は、あれは作者の脳内で組み上げているんだろうか。凄いことだ。おそらくは取材に行ってインタビューをしたとか、充実した資料があってのことだとおもうが、とにかく濃密。小説を読んでいるというより、歴史モキュメンタリー、あるいは妖怪研究家のツイッター連投を読んでいる気分になる。作中、また巻末の参考文献に柳田國男と折口信夫の名前が出ていた。高校生ぐらいかな、遠野物語なんて本があると教諭から教えた貰ったような…あとは姫神のCDアルバムとかで知った名前かしら。

読み進めながらも、どうやって終わらすねんと思っていたら、唐突に何か繋がりのある展開になった、かと思いきや、終わってしまった。…??どうも、この「宴の支度」のほかに、「宴の始末」シリーズがあるらしい。同じぐらいのボリュームっぽいが、ちょっと手を出すかためらう。どうしたもんかね。本を読むのは疲れるお年頃。

小説の登場人物って、頭が良く、ものを考えるタイプじゃないと演者として務まらないのだと思う。そうじゃなければ作者が書く内容に乏しくなるのかもしれない。特に考えるでもなく思いつきと愛想笑いだけして順調に生きていては、物語のスジができないんじゃあないか。本作はよくもまあ、というぐらいに書いてある。二人の会話で読み進めるのに小一時間ぐらいかかった。人間っていうのは、こんなにゴタゴタ自分についての思索を巡らせながら生きるもんかね?なにか縁遠い。SASUKEを観るかの如くに、登場人物が縁遠い。故に楽しめたとも思うがどうだろう。今までに読んだ小説ってどうだったっけ?忘れたなあ。

そうなのよどうしませう。どうせ自分のこと、間をあけると内容を忘れてしまう。「宴の始末」を読むかどうか。「宴の支度」は三巻。個人的にはこの分量を一週間ほどで読むのは、なかなか頑張ったぞ。ニートみたいな暮らしのころは、このぐらいは一日でさくっと読んだもんだが、もう難しい。初老だなあ。実際、二巻の半ばごろにはもう登場人物の名前と関連性を忘れかけていた。この人だれだっけ?なんてね、いつものこと。現代的解釈によれば不思議な事などではない。ようかいのせいなのだ。

…:;(∩´﹏`∩);:

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