「こころ」を読んだ
考えてみれば、「吾輩は猫である」も冒頭の一節しか知らない。夏目漱石に1000円札以外に縁も所縁もないところ、青空文庫に置いてあったので読んだ。(漱石ら英世に変わって20年近くたつという事実にびっくりしたにゃ)
毎度同じ感想になってしまってあたまの炉心が悪いのつまびらかなることだが、文学というか小説を読むと、よくもこんなにこんこんと書くものだなと感心してしまう。感心ばかりではなく、たまには「なげえなこのくだり」なんて悪態ついてみたりして。終いには「で、これ何の話だー?」などと言っておる。「〇〇の話」で説明できる作品ばかりなわけもないが、さて本作は…えー…wikipedia!文明開化!
人間の深いところにあるエゴイズムと、人間としての倫理観との葛藤が表現されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%9D%E3%82%8D
色恋沙汰でKを裏切った。結果(?)、Kは自害してしまった。もぅまぢムリ先生も死ぬますね。そういう話。元来はもっとほかの短編も認めて、「こころ」という題で何作も発表するつもりだったらしい。新聞連載だったので、この「こころ」の広告文言なども残っている。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/4689_9474.html
こういう心模様もありマスという連作になるんだったのかな?
明治天皇の崩御、乃木大将の殉死に象徴される時代の変化によって、「明治の精神」が批判されることを予測した漱石は、大正という新しい時代を生きるために「先生」を「明治の精神」に殉死させる。
殺すつもりだったとは漱石センセも隅に置けない。ペンで人を殺せる時代の幕が開けた。夏目漱石は実際に教職にあった。ならばやはり、実際に先生とも呼ばれていたと想像する。イギリスへ渡り…その時点で作家の志があったかはしらないが…新しい世界で新しい見識を得たことだろう。そこで新しいこころだっていろいろ「おもいついた」かもしれない。先生という言葉のニュアンスが変わり、世の中が変わり、人々が変わり、自分が変わり、人々のこころだって、そう…。
いまならば。この物語の展開は、映画ドラマゲームで演じられた事のあるストーリーラインかもしれない。あーはいはい、メンヘラこじらせたのね~。とはいえ、実際に貴方の身の回りで起こったならば、多くの人はドン引きだ。発刊当時の読者の思ひはいかほどだったろうか。「こんなことがあってたまるもんですか」とか、「私にそんなこことは御座いません」などと憤慨したのだろうか。あるいは当時でも、そういふこともありんすねえと落語の枕にでもなったか、縁側でしみじみ思い出話でもしていたのか。
本作より100年を過ぎてなう、昭和平成令和のそれぞれにこころが生まれては人々をかき乱し、宥めて、弄ばれた。心が時代を変えていくのか、世相が人のこころをスコーンと変えるのか。文明開化とはどんな時代だったんだろ。美談、邪念、deepfakeがみなの目の届くところに光よりも早く行き渡る時代にあって、人のこころを捉える、解釈してみる試みが、何か意味あるか?誰でも自分でなんぼでも言えますという時代になお、こころは興味を惹きますか。センセ。これが惹くんすよセンセ。貴方が見かけたイングランド人にも令わのパラノイアにも確実に、人にこころはある。近く、遠く、また、近く。光より早くぬるっと生まれる新しいこころに
名前はまだない。
オチ言いたいだけやんけ。
n十年前「夏目漱石とか好きでしょ?」と聞かれた。文学に疎い自分は、なんでそんなことを言われたのかまるでわからない。たまたま、その時にコインロッカーベイビーズを読んでいた。最近読んだのは村上龍と答えると、「む、村上い??」と驚かれた。センセ、あれはいったい。