蛍雪の鋼
急な仕事で遅くなった寒風吹きすさぶ帰り道、とぼとぼと歩んでいると人の声があり、それに答えるもう一つの声があった。…??? 上から??
振り返ると、建設中のマンションの上のほう、たぶん8階ぐらいの高さだろうか、煌々と明るい。マンションは未だに鉄骨をくみ上げている段階で明かりをともす部屋もない。あの明かりはきっと投光器が備え付けられているのだろう。姿は見えないが、冷たい風に乗って、声はそのあたりから聞こえてきている。あゝ、まだ働いている人がいるのだ。それにしても時刻は22時を回っている。こういう建設現場は当たり前だが電気や水道など通っていないため、夕暮れにはその日の仕事を終わりとするものだ、と聞いた。そらそうだ。街灯よりも高い場所で暗闇のなか高所作業などとてもできたものではないだろう。エレベータも動かないので上り下りがとても大変だとも聞いた。
そのような工事現場でこんな時間まで仕事が続いているというのは、何がしかのっぴきならない事情があるに違いない。住宅街の一角にぽつんと建つ10階ほどのマンションだ。まさか4月から入居できます、なんて…。素人目にも間に合うはずもない、だってまだ鉄骨だ。ここから壁作って床作ってあれやこれやなにからなにまで。思えば、着工までに空き地のまましばらく放置されていた気がする。ハードな舞台裏が想像できる。
しかし聞こえる声に暗さがなかった。むしろどこか快活で、威勢よく声を掛け合いながら作業するような感じがあった。この時間に仕事をしているからには何か切羽詰まった事情がある筈なのだが、スケジュールに追われて怒号が飛び交うとか、疲れて投げやりな声でもない。投光器の用意もあるということは、予定された業務なのだろうか。まさか。
いまこの場所で、あの高さの場所に立つことが出来るのは彼らだけだ。自分の歩きなれた街並みと彼らの足元の鉄が月明かりに凍えている。彼らにはどういう景色に映るだろうか。是非に同じところに立ってみたいものだが。
真冬の晴れた夜、風があるのに寒さよりも爽やかさに心惹かれ愉快になる、そういう夜がある。風呂上りにちょっと外に出てみたりするといちだんと爽快だ。夜には得難い風が吹く。ただこれは、心に余裕があればこそ。きっと夜空に会話していた作業員もこういう心持になっていたのだろう。そりゃ何か手違いがあってあんな時間まで仕事をしていたのかもしれない。だけども、流石に22:00にもなればなんとか終わりが見えてきて、安堵の会話をしていたのかもしれない。あるいは彼らは最初から、月明かりに夜風を楽しんでいたのかもしれない。
翌朝は白い空を見上げると物言わぬ雪。こうもり傘が群れて駅へ吸い込まれていく様を見下ろす、掠れた影、二つ、やがて静かに白い雲を抜け、得難い風に寄り添った。