+連休

何度か妄想したことだ。数千年の未来に、今の時代の人々のツイートなりブログなりが「ほえ~」なんて歴史的な資料として参照される日。例えば気象観測データがなくなっても、そんなような情報をかき集めてみたところ、お天気がわかる。わかったから何なのだ、とはご尤も。あるいは何か事件事故の類がわかったりする。あゝこんにちは未来、十連休というパワーワードに酔うみじめな我らの声は届いていますか?じゅーれんきゅう。漢数字で書くと十常侍みたいだな。

一味唐辛子

二虎競食

三郷ジャンクション

四天王

五目寿司

六波羅探題

七福神

八百万

九尾の狐

十億円くれ

ところで、十連休の擦り合わせて今月末は忙しかった、という人もおられよう。自分も例に漏れず。帰宅したら日付が変わっていたことも数度。洗濯もできないので風呂上りに乾いたタオルがなかった。ハンカチのストック、脱いだ衣類で体を拭う。タオルもないのにハンカチにストックがあるということは、今日使ったハンカチは三日ぐらい洗ってないんじゃないかな。斯くも無計画。気づいていればタオルぐらいコンビニで買って帰ることもできた。いや、風呂に入る前に気付け。

現金もおろしてないなあ…というところでふと思いついて、50過ぎぐらいの客先の方に声をかけてみる。「一昔前は、GWには銀行でお金おろせませんでしたよね」って。自分の記憶では、大学生の頃はもちろん、卒業して数年ぐらいはそうだった記憶がある。店の入り口にポスターはってあって、この期間はおろせませんからお気をつけくださいと。「困ったもんだよね、当時は今みたいにネットで買ってクレジットカード払いもなかったと思うし、suicaで買い物もなかったからねえ」とのお答え。ははあん、手元に現金がなくとも大丈夫というわけですな。

新しい紙幣デザインという話題もあった。肖像の人物が変わるわけだ。このキャッシュレスの時代に、などという向きもあるが、特段機能に変化があるわけでもなかろうし、適宜やったれとは思う。労力に見合うかは知らない。ところで自分の記憶によれば、お札のデザイン変わったなーと認識したのは一回だけだ。野口英世千円札になったタイミング。調べてみれば、樋口一葉も同じときに変更されている。なんでかその印象ないけどなあ。そして諭吉はずいぶん長い間変更されていないようだ。

https://www.npb.go.jp/ja/intro/ostu_history.html

ところで上記のリンク先は国立印刷局なのだが、所々に「D千円券」とか書いてあるのが面白い。テレビタレントが使う数え方を連想してしまう。もとはジャズメンの遊びだったといわれる数え方で、日本で(厳密にはイタリアで)のドレミファソラシドが英語圏ではCDEFGABCになり、故にここでDと言えばそれは2を意味する。じゃあD千円券とは二千円札のことかwwなんて思っていたら「2000年にD二千円券発行」と書いてあり草が生える。D千年にDD千円券。

考えてみれば、よ。貨幣も休日も、国家の定めがその機能の主たる根拠である。当時の国家にはそれができるほどの権力があり、貨幣が通用するほどの国力もあったと知るには、良い証左となりうるかもしれません。

しかし令和元年は令和C年ではちょっと違うなあ…。

ほかのまち

朝より出かけ、所定の時間まで、時間つぶしに駅前の、まるいベンチに腰かけてぼんやりと周りを眺めている。人の多い街は、見ていて飽きない。最近、昔は理解できなかった「街中でそこらを行く人の観察が面白い」などという人のここちが少しわかる。目の前を過ぎる十秒ぐらいの間に、誰かに似ているだの、装いが奇抜だの。人々というのは、やっぱりユニークなものなんだな。平和な社会のなせる業。

政治家というのは、どこからが政治家だろうか。現役の国会議員は異論ない。大学で研究をしているような「政治学」の先生は違うと思う。各自治体の首長は…どうだろうか。うーん。では拡声器で演説をしているこのやかましい市議の候補者は。彼の政治的チラシ配りを手伝っているこの人は。まるいベンチに座っている人にも順に手渡そうとして、皆に断られ、煙たがられている。自分ももちろん断る。

「若い人は政治に興味がない」とぼやく人がいるが、若い人が興味をもった結果、「ダメだこりゃ」と見放されたという風には考えてはいないのだろうか。危惧しているよりもっと状況は悪い。…あるいは、良い傾向なのかもしれない。何かを変えようと風が吹くかも、というやつ。そんな呑気なことを考えていると、根こそぎ悪意に持っていかれるというのが歴史の教えかもしれないなあ。

自分は何をするにしても不注意が多いので、ずっとそれを前提に生きていこうと決めたのです。決めてはいるのですが、勿論、決めたぐらいで解決はしません。改善はありましたが。メメントって映画のレビュー書いた。あれはいくら何でも極端だけど、なんでも忘れるから何でも記録を残したれって発想には至極頷ける。ところが、記録を参照し忘れる、みたいなことが頻発する。自分で自分をチェックする機構が上手く動いていない。自分がbotにでもなったつもりで、毎日何をするか、何をしなければならないかというのをアウトプットしてみようと思い立った。設計図であり、聖書を作ろうと。自分自身など信用できるか。

こんなことを考えていると予定の時間を過ぎそうになる。メモ帳に「時計を見る」って書かないと!終いには、メモ帳に「メモ帳を見る」って書かざるを得なくなり、スマホに「メモ帳を見る」ってメモを残さざるをー。名前を「メモ帳みろ」に改名したりして。ああ。キリスト文化圏で、聖書の聖人の名前を付ける風習は、あやかりたいという以外に、キリスト者であることを常に忘れるな、みたいな事なのかもしれない。自分は不注意者であることを忘れないという名前にするにはなんだ、与太郎とかにすればいいのか。あるいは茗荷。

冗談抜きで考えても、街角にある「出会いがしらの事故に注意」とか、小学校にある「廊下はしるな」みたいなもん、目につくところにあるから効果がある。自宅にそういうの置けば良いんだよな。で、実際置いていたのを思い出した。玄関のドアにホワイトボードぶら下げて、予定を書いておく。造り上、風呂トイレに行くたびに目に入る可能性が高い。外出時には猶更。なんで止めたんだっけ、と思い起こす。宅配便を届けに来る人に丸見えだからであった。受け取りのサインとか書いている間に、ね。今考えれば、裏返してドアを開ければいい話だわ。

なんというか、もっと工夫して人生に取り組むべきなんだよ。何度も自分あてに書いているフシがあるなこれ。できれば穏やかに静かにぼんやりしたまま平和に人生を終えたいと思う。でもそんなの高望みが過ぎる。十億円宝くじで当ててから考えればいい。そう思って月に一回ぐらい宝くじ買うのに、日々の細かいチェックや工夫がアレなんだよなー。

それでも必死で船を漕いでいれば風向きが変わるというのが、良い人の人生でしょうが、どうも自分には。令和の世に期待すっかなー。こんな言い方はあれだけど、この春は自殺者が少なくなった、みたいな統計が出ると面白い。どうせ作為的な数字だろ、で終わりかねないが、さすればほれ、又の国難にも改元。早良親王とか道真の祟りに対応するみたいな発想。そうよ、天皇は神道に於いて高位の呪術師とみる向きもあるところ、俺も共に祈りたい。ハァ十億円~~~。

まち

確か6:00からだったよね、と爽やかなお日様を浴びて徒歩十分、入り口に着いたら7:00からだった。まだまだクッソ寒い朝に30分待つ気にもなるわけがなく、ぐるぐる歩き回る気分でもなく、カメラ持ってくれば良かったんだよなあと悔やみながらそのまま帰宅することにした。どうせクリーニング屋が開く時間にまた外へ出る。醤油を買うのはその時でよいし、ついでに駅前まで足をのばして100均で何か買おうぞ。建設的な時間にしようと必死に脳をゆすっていると、異常な密度で禁煙をアピールする看板が置いてあるオフィスビル前の広場とか、路肩に物静かに停車している消防車を見つける。やはりカメラを—なんて悔しく思っていると、ふと、見たことのないものが目に入る。

築何十年は経過しているだろう、なんなら終戦後と言われる時代を感じるような民家があった。二階のベランダ…?あるいは「物干し場」というほうがニュアンスが伝わるだろうか、窓からちょっと外に出れるスペース。その欄干が石でできているように見えた。まるで河川にかかる橋みたいだ。このお宅はえんじ色に塗られた木とトタンの造りで、朝日に照らされオレンジを塗されて、そこに通りに面した灰色の欄干は妙に目立った。はて。石…なんのために?確かに雨風には強かろうが、いくらなんでも重いし、どうやって安定させているのだろう?帰宅後、さっそくストリートビューで現地を確認するに、今度は塗装の禿げた木に見えてきた。もともと白っぽい木材…ナラとかイチョウではないかな?こうなると、もう一度現地にカメラを持参して写真に撮ったら、今度はおとめ座銀河団に見えるかもしれない。宇宙の淵。

ブラックホールの撮影に成功したというニュースがあった。それが凡そ推測どおりだった、という話も伝わってきた。姿かたちだ想定通りということは、自分のようなトーシロでも知っているブラックホールのうんちくも本当なのだろうか。曰く、超重力過ぎて光が吸い込まれる、というような話も。通り抜けるとワープするとかも?ゲームかよ。このニュースと合わせてその撮影方法も伝わってきたのだが、これが驚きで、地球各所の天文台を連携させて地球サイズの仮想レンズを作って撮影したらしい。これこそ完全にゲームの世界の話。ワープもするかもしれねえわ。

21世紀初頭を生きた自分たちは、いわゆる昭和の時代が夢見た未来が到来しなかったことにがっかりしたかもしれない。単なる絵空事だったかなあ、って。しかし考えてみれば、ほれそこに、スマホが現実にみんなの手元にある。技術はしっかり進歩しているわけで、映画や漫画の世界に照らして現実世界の進捗を真面目に語っても仕方ないかしあー?今現実の世界に、ネット関連の便利なサービスやスマホがなくなって、ドラえもん的エスエフ21世紀街並みが実装されても焼き払えとしか思わない。でもドラえもん道具は欲しいな。社会ではなくツールが欲しい。資本主義って感じみある。ソ連だったら粛清されよう。「ソビエトロシアでは、ツールが人間を作る!」ああ案外普通か。何を言っているんだ。

そういえば、ドラえもんの作中は未来ではなく、現代という設定であった。その「現代」の調整がされたって話をどこかで見かけた気がする。いまさっき書いたスマホ的なものがドラえもんではなくスネ夫のポケットから出てくる…のかな、見たことないからわからないけど。でも作者亡くなって何年だ?調べなおしたら、調整の話は自分の勘違いだったようだ。これがありなら磯野家もスマホを持つ。江戸は神田、物干し場の欄干にライトが付く。「あいやぐーぐる、あかりを持てい!」「何か”御用”でしょうか?」

今回はここいらで〆。

あたらしいげんごう

子供の頃の教科書に、「あたらしい〇〇」というタイトルが多かったと記憶している。何がおにうだったのか全く分からないが、改訂版ぐらいの意味だったんだろうか。単に商品PRなのかもしれない。ノドすっきりお肌にうるおい。爽快!メンズさんすう!

自分はゆとり教育の惨憺たると囁かれる現場を全く知らないが、ゆとりにスイッチするときも果たして”あたらしい”ものは何かあったのだろうか。円周率を最発明しておよそ3と表現した、そんな新しさばかりが思い当たる。あたらしい教育はありまぁす!!クソである。

そしてあたらしい歴史的イベントがやってくる。10連休!これは間違いなく、空前絶後である。元号は日本国家と天皇制度がある限りまだ何度かは変わる可能性があるが、今後十連休が訪れることは、ありえない!という話にするつもりだったが、将来の天皇誕生日の変化によってはあり得るンゴ…。天皇家なんだから御子の誕生で国民の休日を都合のいい日にコントロールするぐらいやってくんねえかなー。あたらしいまぐわい。

あり得るんではないか。実際に5/1が天皇誕生日になったらどうするんだろう?次の令和になったら、天皇は今の皇太子、徳仁で。多分、その甥の悠仁がその次の天皇だ。悠仁に5/1生まれの男子があったら、実現するかな?アクシデントがなければ実現は少なくとも50年先の話になりそうで、自分は死んでいるのであります。正月だって年の変わり目ってだけで休んで過ごすんだ、五月の頭にそうなってもおかしくはない。長き歴史を刻み、平和が続くほど祝い日が増えると仮定すれば、日本の祝日の多さにはどことなく安堵を覚え、また何か誤魔化されているような腑に落ちなさ。

ゴールデンウィークもちゃんとした文化的制度化しちゃえば面白いのかもね。「お道化支度の儀」とかいって、後続も庶民もコスプレとかしてハロウィンを吸収。「春冬至の謝肉祭」とか言えばクリスマスっぽいことが出来そう。「春冬至」って良いな。はるとうじ。お上にも庶民にも風土にも背を向けないような努力の跡がないだろうか。とにかく休みも仕事も欲しいこの頃。

んで、新しい元号を寿いであたらしいおすまいに引っ越しするかと思ったら、入居審査で躓いているという話です。賃貸物件オーナー層のご老人は会社勤めというだけで絶対な信頼を寄せます。そりゃあ個人より団体ではあるのですが、会社と個人がそんな繋がる時代でもねえだろうに。あんたのところの社員が家賃払わないのよ!なんてクレーム入れるんだろうか。モンスタークレーマー極まっている。ここらのオーナー層の価値観が変わってくれば、それはあたらしいしゃかいと言えるものかも、しれませんね。しまった、メンズさんすう!なんて書いたもんだからここでちょっと切れ味ががが。「わたしだけがかわいくみえるあたらしいしゃかい」ではどうだったろうか。何がだよ。

とある不動産で、1~3月は無休とか書いてあって、すなおにすげえなと思った。理由は想像がつくが、これが変わるような時代は来るだろうか。

“グラン・トリノ”を観た

クリント・イーストウッドは名優らしい。

…らしい?実は彼の若い日の作品とか見たことない。007シリーズとかでしょう?興味はない。このクリント爺さんは映画監督としてもなにかと評判が良いらしいですね、ということで本作。ネタバレ。

いろんな人が良作としてお勧めする。コテコテアメリカ盛り合わせハリウッド風味。人種、移民、銃撃、車産業、ダクトテープ、教会、芝刈り、BBQ、帰還兵。うわあすげえ。ヒーローごっこで尊敬を集めたらあとは仲自分が認めた仲間のために自己犠牲の死で格好良く〆。のぼせ上ったボーイスカウト。

このような言い方では身も蓋もない。ところが実際、この映画はそんな物語と言える。あー、そういうご近所付き合いあるよねー、あーそういう面倒ごとあるよねー、あーそういうクソ親戚いるよねー。あー、銃撃されることあるよねー。こっちも銃で反撃なんかもしてね。アメリカは訪れたこともないのに、「いかにもアメリカあるある」なんて感想を覚える。いったい自分はどれほど本作のような映画とかドラマとか音楽とかで、アメリカ的なものを知ったつもりで生きておることか。

作中、主人公(=クリント・イーストウッド)は血を吐いて、病院へ行く。その後で仲の良くない息子に電話をかける。なんの用事もなく、近況を尋ねる。息子は特に変わりはないと伝え、電話はその会話の往復だけで終わる。自宅で仕事をしながら電話を受けた息子も、怪訝な顔で電話を終える。親父はどうしたんだろうか?

それだけの場面なんだけど、だれでも深く気分が沈んだときには、このような行動に出るものかと思う。人には、救いをどこに求めるべきか定めるのも難しいという時がある。孫娘やご近所に怒りを覚えていた主人公は、病の前にはヘナヘナと心意気が折れ、残っているのは単なる意地。本作を以て俳優からの引退を決意したというクリント爺もそういう気分になったのかもしれない。この”グラン・トリノ”をだれに譲ったものだろうか…。どういう仲間に譲ったものだろうか…。

宝物を手に入れたい。しかし、いつかそれをドヤ顔で譲って感謝されたいとも思っている。我を崇めよとは、人間のシンプルな欲の一つといって良いだろうか。かけがえのないものを渡す。これが慈愛に満ちているようで、また邪でもある。良い人と思われながら死んでいきたい人には、参考になるものがある作品でございました。全般的に物珍しいものが見れたり感じたりできる作品ではございませんが、良い作品と思われながら鑑賞されたい作品です。