• どくしょかんそうぶん

    自己啓発

    一年ほど放置されていたものを公開。


    「自己啓発書」って、そういうカテゴリーの棚が出来るほどに売れるものなんだろうか、とは思っていた。「ビジネス本」とか呼ばれたりする?よくわからないけど、物理書店ではこいつらはひとまとめに並んでいるなあ、ぐらいの印象。何が書いてあるか見当ぐらいつくけど、正直言って謎カテゴリ。読んでみる事にした。ところがじっくり読む気ほど興味深いものにあたらず、内容の把握も感想文もてきとう。

    苫米地英人著:「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!

    大きな目標を持つこと。その達成のためという理由を付けて好き勝手すれば細かいことは気にならない。みたいなことが書いてあったと思う。大きな仕事に成功したかに見える人間が非常に非常識だったり、理解不能な言動で転落するのは、こういう思考のせいかな?毎年のように逮捕者を輩出する野菜證券とか、肩書は立派な経歴なのに前を走る車に因縁つけて襲うとかアフリカの野盗じみたことをするやつとか。ねじれたエリート意識なんですかね、くだらねえなってあたりで読むのやめたような気がする。まる。次。

    飯野謙次著:「仕事が速いのにミスしない人は、何をしているのか?」

    これこそ内容覚えてねえ。でも記憶に留めた一節があった。失敗なく物事を進めるための準備として、「どうやったらこの計画は失敗するのか」を考えて、その対策が為されているのか検討する、みたいな手法について紹介されていた。テストが失敗するコードを最初に書く、みたいな開発手法あったような。例えば「先方の担当者が消えた」「明日地震が来たらどうなる」みたいな事まで考えていくと、成功のルートばかり頑張って固めるよりも備えの幅が広がりやすく、結果、計画の堅牢度を高めることが出来そう、という主張だ。失敗しないためにあれこれ練ると共に、失敗させるための手段を想定する。なるほど。しかし、あとはメールをうまく使え、みたいな事が書いてあったので、2000年問題クリアできなかった世界の人かな?と思って強制終了。そりゃ内容覚えてない。まる。次。

    西東社編集部:「使える語彙力2726」

    こういうことを細やかに気にする人同士の競技会規則。カードゲームのデッキ。現代用語の基礎知識とか、シソーラス辞典みたいなコンテンツをごった煮にしました、みたいなもの…というかコピペで作ってないだろなと訝しんでしまう。ただ並んでいるだけ。敬語だとかカタカナビジネス語、落語に出てくるような”わふう”の言い回しとかに詳しい人には読む価値は一切ない。逆に疎い人には目新しいかもしれないけど、いつ使うんだ。知らないゲームの世界みたいなもんだった。まる。次。

    アルビヴョヴォーウ;;;;lコンギいうvhングヤ

    やめたやめた。上記以外に、もう2冊ぐらい読んだ気もするけど、省略。素直にいって、ピンとこない。山ほどあるその手の本の中から、何かしら興味があって上記のものを選んだはずなんだけど、本当はAmazonプライムの無料枠にあったからなんだけど、とにかく面白いとは思えなかった。何故だろうか。内容が期待外れだった?何を期待していたんだろう?これがわからない。自己啓発、ビジネス書って結局なんなの。知恵袋的な為になる情報?明日から使える実践的なアイデア?

    自分のようなポンコツが、情報の受け入れとアップデートのパフォーマンスが劣っていくと「頭の固い、頑固な人間」となっていく。頭を使わなくなる。つまり、未知の事象について自分の知恵、知識で検証を行い、不足してたら補完する。「補完ってどうしたもんか→そこで自己啓発書ですよ」ということなのかなー?自分はそれだったら、適当な雑誌とかでも良いと思うんだよね。専門家の知識を投入した本(なのに|だから)読んでも「つまんねえなー」とか、「何言ってるんだこいつは?」ってなったのは、いったいなんでだろう。興味がないの一言だけで済ませてよいのかな?めんどくせえから良い。

    自己啓発なんたらって、こんな我慢して読む本なのか?なにかこう遠回りな印象が残った。「んで結局なんなのー?」という疑問から、回答までの距離が遠くない?少なくとも上記に挙げた書籍は読むに値すると思えなかった。仕事に関係ある知識でもなぞって復習していたほうが良い。仮にそれが新しい知識ならなおの事。本来は噛り付いてでも身につけねばならない知識がたくさんある。そこに書籍上でさらららと目を通すレベルでしか付いていけなくても、さらららに実用的な意味があることを実感できる。

    Testosterone、久保孝史他著:「超筋トレが最強のソリューションである 筋肉が人生を変える超科学的な理由」

    これぐらい踏み込んでくれないと読みごたえもない。適度なスポーツは体に良い。体育の日がスポーツの日に変わっちゃうぐらいにはテッテ的に良い。という当たり前の説法を通り越してくる、筋力が紡ぎだす文章の溌溂さが心地よい。力こそパワーなのだ。「脳のゴミ」とかあやふやな言い回しで誤魔化されるところであった。まやかしだ!

    まやかしを取り除いていくことも啓発というのであれば、これはこれで良かったのか。筋肉になってない体脂肪もまやかしであってくれんか。

  • fuckyeahinternet

    ケーブル一本といえどもちゃんと管理しよう

    単なるファイル保存用外付けHDDを持っておりますが、たまにしか使わないのにゴリゴリと音がしたので中身を新しいSSDに移すことに。空いているUSBポートに、USB←→SATAのケーブルを挿して、って思ったらケーブルが無いでやんの。それこそ数年使わなかったので捨てたような気がする。仕方がないのでケース開けてSSDマウントしてコピーすることにしました。…え…SATAケーブルは予備あるんだろうな…と焦りますが、5本ぐらい出てくる。どれか一本USBと電源共有のアレにならんかね。

    一旦シャットダウンして、ケーブル類抜いて、棚から降ろしてサイドパネルを開いて…なんか大作業になってしまった。SSDのマウントなんてのも、二年に一回ぐらいしかやらない作業なので、毎回どこからディスクの管理開くのか忘れます。手順がちゃんと書いてあるサイトには感謝するしかありません。

    https://kiyohikofree.com/4873.html

    SSDのマウントが終わったところで、今度はコピーしたい外付けHDDがEXT3でフォーマットされておりますので、ext2 volume managerを使ってマウント。これでWindows10のエクスプローラー上でコピーできる。サイズには余裕があるので400Gほど特に何も考えずにコピー。ついでに、不要ファイルの整頓など。ゲーミングPCと呼べるぐらいのスペックがございますので早いもんですね…。

    ケーブル一本ないというのでこの騒ぎです。業務で使うこともあるかもしれませんし、ちゃんと管理しましょうという話でございました。しないだろなあ…。

  • どくしょかんそうぶん

    「フードインク」を観た?

    二年ちかく下書きが放置されていたので棚卸。無料で見れた、というのも当時のことで、この記事が公開された時点の現状は不明です。公開にあたり、文章をそこそこ書き替えているのでもはや読書感想文ではなくなってるといいますかあ。


    どのみち食う以外の選択肢はないんだよね。

    経緯は覚えていないが、なにかと話題になった作品だと記憶していた。例によっていつものごとく、Amazonプライムで無料になったので拝見した。規模の大きい食品産業にかかわるドキュメント。短いストーリーで章立てになっているのがテンポよく、観やすくてよいかな。企業は利益を追求するあまりに、倫理を欠き、本質的な安全性への配慮を怠った。政治と大企業が悪いんだ!あーはいはいその通り。この筋書きはもういいわと思ってしまう。本作は、結局は贅沢で安全な飯をよこせという訴えでしかない。強烈な商売敵?の登場で、生産者の農家は困っていますと。世界の食料生産量は、

    ちょっとまって中止。終了。観た内容覚えてないのに下書きこの辺で終わってんじゃねえか。嘘八百書いて悪ふざけは読書感想文としては誠実さに欠ける。「エミネムがサムズアップしながらフライヤーに沈んでいく姿は、資本主義に反抗する若者たちの連結が終わったことを意味している。こぶしを下ろし、家に帰ってママのスパゲッティを食うんだと。」

    面白くもない。

    自然食志向と言っても、本当の”野生”のお野菜とか果物なんて現代人は食べてないよね、きっと。猪を家畜化したのが豚って話も耳にしたことがあるな。人類のために生み出されたものを受け継いでいる。これは進化だ。食物を確保するってこれ人類文化の根本なんでないかと思う。栽培、保存、調理、なんたか。企業がその資本主義的向上心で押しすすめることに不安があるかと考えると…正直、ある。でもそれって農家の品種改良の努力と何が違うんだ。自分は、世界の種(しゅ)を書き換えるような話と、独立した農家のローカルビジネスの話を混同しているかな?

    企業秘密によってラボで何されたかわからない食べ物よりも、文字通りおてんとうさまの下で堂々と育った食べ物のほうに信頼が置けそう、というのは間違ってないと思う。勿論農家にだって秘密はあるし信頼のおけない業者もいるだろう。また、例えば工場生産のレトルト食品やドライフーズは全部体に悪いとか主張しだしたら、それも現実的には突拍子もないことだと思う。生産過程やノウハウやらなにやら全てをオープンにしろという物言いは、なんで食品扱うからってそんな目に遭うのかと思うだろう。企業も農家も思うだろう。そこで行政機関のジャッジがお出ましになるが、結局はそれも健全に機能するのか問題に陥る。

    …というような内容の映画だったのではないか?と妄想しときます。ネタではなく、本当に妄想です。エミネムの出演はないと思いますが、ママのスパゲッティは美味いですよね。

  • F.U.C.K.,  ふでのゆくまま

    w:前進 s:後退 space:ブレーキ

    隠す意味がないほど有名になってしまった事件の裁判が始まったようでして…。「上級国民」というブラックなユーモアが、この事件で広くに広まり、その後も使い続けられている。今後も続くだろうか。当初は起訴もされないのでは、なんて報道があったと記憶している。その後詳細は追ってないけど、本日久しぶりにニュースから流れてきた情報に驚いた。

    飯塚氏は無罪を主張したという。

    主張自体は被告人の権利ってやつなんだろうから、すれば宜しい。車の故障を主張したとのこと。訴訟手続きは詳しくないけど、被告からこういう主張がされたということは、「車の故障があったかどうか」について議論がされていくのかな?いまからそんな事実は出てこないと思うのだが。だって最初に調べるもんじゃないのか、そのあたりの事は。事故車が燃えたわけでも海に沈んだわけでもないが、「無かったと証明するのは難しい」といういつものアレか?でも、この主張だったら故障があったと被告側が立証するんじゃないの…。ワカンネ。

    ところで、この事件もプリウス。プリウスミサイルなどと揶揄される、あのプリウス。車の暴走事故において、ドライバーが老齢のケースが目立つというのは、納得がいく。統計上多いとしても、合理的な理由は明らかだ。年を取るとはそういうこと。では何故プリウスが多いのかという点について、いろいろ憶測があったようだ。以下そこいらで聞きかじった噂話。

    そもそも、商品展開の戦略として、老人層の購入が多かったのではないか?という推測。また、プリウスは案外パワフルな車種であるという主張もあった。結構な初速が出るらしいので、意図せぬ急発進したときにも、衝突すればかなりの衝撃になる。他にも、プリウスのシフトレバーの造りに問題があるんじゃないかという指摘もあった。これはつまり、現在どのギアに入っているのかが、判別しにくいのでは?という指摘。いずれも納得がいくものだった。

    ここで個人的な感想がありまして。あくまで「十年に一度も運転しない」「一人で公道を運転したことは一度もない」「車幅感覚がわからず、助手席側を激突させそうになった」「ミラーを通して見る後方景色の距離感がなかなか掴めない」人間の話として聞いてほしいのだけど、本当に車の運転に、両手両足必要なのか。ゲームのコントローラー的なもので操作できるようにならんのか。アクセルを足の踏み加減で調整するというのは、自分も免許学校に通っていたころに驚いた。こんなにも気を使って調整が必要なものかと。坂道発進が何で難しいのかも、教習で体感できた。以降、一度もやってない。

    「ハンドル操作は両手のほうが安定する」「踏み込めば即座にブレーキになる状態のまま運転をし続けるには、足がよさそう」「非常時にも制御できる機構が必要」といった合理的な理由はあるんじゃないかとは思っている。それでも、世の中の優れたテクノロジーがあまり車に生かされてる気配が感じられないというか…。路上に駐車するとか、すれ違えるかどうかの判断とか、もうちょっとテクノロジーに頼れないもんか。テクノロジーはいつか故障するから、それだけに依存できませんというのは、納得できる。テクノロジーでは解決できないロジックで人間が車を操作する必要があることも、わかる。橋が落ちそうだ全力でアクセル踏んで走り抜けよう!ってことがあるから、法定速度より早く走れるようになっているし、なんなら前に人がいてもお願いどけて~~~って突っ込むこともあるかもしれない。フレンチの店に急いで行きたいから「ごめんね~っ」て歩行者撥ねることも…いやこれはダメだ!!兎に角、もっとうまくテクノロジーと融合できんものかなあと思う。車載用にカスタマイズは難しいんだろうか…。

    自動運転車のテクノロジーが取り組んでいるのは、運転制御よりも、状況判断の自動化なんだなと思う。人間がやらなくて良くなるのは、運転操作よりも、状況判断なんだ。長い時間をかけた状況判断で良いなら、渋滞予測とかは実用的に使われていると思う。急激な速度変化を検知して、その数十秒前からのドラレコ映像を保存するとかも、実用されてたよね、確か。これを、「走行中に数メートル先で急ブレーキを踏んだ車がある」とか「後ろの車が居眠り運転をしている可能性がある」とか難しいものに対する答えが出てくるようになると、頼もしいじゃないか。人間というのは、非常時に動き出す備品に過ぎなくなるのだ。

    これで事故が起こったら、そん時はドライバーに無罪を主張できる余地があるのかもしれない。電車の乗客と同じぐらいのレベルまで何もしなくて済めば。自動運転は案外早くに実現されることを期待しているが、こういう「関連部署」のところまで世の中の整備ができるには、確かに10年後でも厳しそう。飛行機パイロットの責任がどのぐらいか、という議論が参考になったりするだろうか。

    非常時の備品。それを命とよばうのであれば宇宙が人類を生み出した意味にまた一歩近づいた。火星から見えた星座にプリウスと名がついた、ある秋の夜で御座います。

  • ふでのゆくまま

    ほっとけ

    インターネッツのどこかで読んだ話である。例によってうろ覚え、真偽は気にしていない。

    船が転覆し、海に多くの人が投げ出された。と、そこへ、人々の求めに応じるかのように仏が突然現れた。仏は人々を救うべく、その手を伸ばした。さて、仏が最初に救ったのは誰だろうか。…答えは、いちばん近くに浮かんでいた人。

    小咄のようにも聞こえるし、何か深い意味があるようにも思われる。手を差し伸べて「救った」と「掬った」をかけたギャグのようでもある。仏is神asGODなんだから、みんなをふわ~~~って陸地まで飛ばすこともできそうだ。金魚すくいみたいに掬って救ったって?どうも、これは神SUGEEEEという寓話ではなく、説法めいているというか、何かを示唆しているようだが、なんだろうな。近くから手を差し伸べるということは、自分の順番が来るまでは頑張れって言ってるのかもしれないし、助かるのは一番近い一人だけだということでも話の筋は通る。仏の救いはベストエフォート型で提供のご案内なのか、はたしてVIP専用サービスなのか。

    たまたま近くにいました、というだけで助かるの助からないの、信心深い人からすれば不条理に思わないだろうか。なぜ私を助けてくださらないのか、と嘆きながら沈んでいく人がいるかもしれない。救いは必ずあるのではなかったか。「まあまあ、旦那様、それでも地獄には落ちやせんから」

    現世には期待することがないという心構えなのかな。ただただ、地獄へ落ちるのが怖いという思いか。自分のようなものでも、地獄が本当にあれば嫌だし避けたいと思うし、神が本当にいればその顔色うかがって生きるかもしれない。地獄も神も、どちらも無いというのが揺るがぬ真実であるから、われわれはただただ、溺れてゆくのでありました。

    すると水底には豪華絢爛な宮城があり、一匹の亀が此方へ向k