ふでのゆくまま

  • ふでのゆくまま

    ああおわりゆく

    あああああ

    今年も本当に終わっていきますね。トキオに長年に住んでおりますと、年末の何とも言えない雰囲気は実に興味深く、一言で言うなら乙であって、をかしとかもののあはれとかそういうの。最後のは違うか。例え百万人が帰省しようとも東京の人口は1200万人をゆうに超えており、関東近隣も考えれば人間の数が「減った」などと実感できる筈はないのだが、実際町ゆく人は少ない。僅かに少ない。ここに寂寥の思いがある。

    東京は仕事に特化しているのだろうか。まあ仕事でもなければこんなに人の集まる道理もなく—。

    人間の姿こそがこの街の景観なのですよ。原宿あたりの人々の装いそれ自体が、海外の人間の目に留まり面白がられる、やうに、人々の群れて整然と混沌に従順な人々、西洋人にはをかしと映るか?さういへば渋谷駅前の
    スクランブル交差点の様子は日本ツウの外人の間では一度は行ってみたい場所と挙げられており、あれだけの人数が、あれだけバラバラに動きながら信号が変わる毎に静と動をきっちり切り替えるのが楽しいようだ。JR渋谷駅と井の頭線の連絡通路や、ハチ公斜向かいのスターバックスから一望できるようになったのもあるだろか。

    連絡通路には故岡本太郎の絵画が圧倒的に展示されている。そしてその前を行き交う人々も含め、まあ魅力的なスポットには相違ない。そうそうそ、あの場所で窓際により、絵の方を見ながら足を止めると、多くの人と目が合う。立ち止まることが異端なのですよ。腰でも下ろしたら写真撮られるかもしれねえなwww

    あああああ

    我々の歩みに魂の連絡ありて。来年のインスパイアは赤の他人に求めよう。インターネット越しではなく、道端にいるあの人に。霊脈の馭者、馬を放ちて自ら歩む、掌を太陽にー♪

    よいお年を。

  • どくしょかんそうぶん,  ふでのゆくまま

    人生画力対決

    西原理恵子は昔から好きだけど、この人生画力対決シリーズはまた際立って面白いなーと。今年のセルフクリスマスプレゼントはこれになったw

    いま読んでいる漫画はこれと「毎日かあさん」と範馬刃牙。こう並べて書くと—-サイバラと範馬勇次郎が夫婦のように思えてくるものですね。ほぁ。

  • ふでのゆくまま

    日記

    映画のデビルマンが救いようのないsucksだったのはこの身を以って確信した。漫画のほうは名作だ名作だと言われているので読んでみたが、そこまででもなかった。まあ単純に古いからってだけかもしれない。当時はそりゃあすごかったんだろうさ。なにせ世紀末を一回くぐり抜けているからな、我々。

    ベルリンの壁に立ち尽くす人々。はっきりと記憶に残っている。激動、激動と年末番組の売り込みに必死だったCMも懐かしい。今年も激動などと煽るに相応しい事態ばかりだったが、まだあと十日以上ある。もう一声あるのではないか。自分が巻き込まれなければいいけどな。

    じょんいる死去の報に、日経平均はがくっと値を下げた。なんでやー。ご祝儀相場にならんかい!まんせー。ほれほれ。

  • ふでのゆくまま

    水葬場にて

    湯船にて呆けていると視界の端で何やらうごめいた。おそらくは六本足のあいつだろう。怖くもない、ただこちらは湯船に浸る体勢であり、つまりは裸体であり、素足で踏みつけるのも躊躇われるのは文明の縛り。人類はそれに甘えて彼を踏みませんでした。ああ、また徳を積んでしまったよきかなよきかな。

    と思ったんだけど、フロアを見つめる視界の上からゆらゆらと何か降りてきた。八本足のあいつだった。蜘蛛は益虫などという言葉を信じ、適度に生かしたままにしてある。とはいえこんなところに登場されるとちょっとな、と思っていたら、そのまままっすぐに、便器の中へ降りて行った。やや間があって、俺はレバーを大の方へとひねり、轟音と共に押し流した。死ね!死ぬのだ!

    つげ義春の漫画で、火葬場で釜に閉じ込められた同僚を焼いてしまうという話があった。あの一瞬の迫力が好きだ。人間の情とはなんだろうか。文明は産業を産み、暇人のアートがそれを弄ぶと申します。叡智を愚弄するかものども。情はゆらめきつづけてなお、ひとところにあり、我々はそれを遥かな谷底にみることも、頭上15センチにみることもできる。すべて私の物、しかし命の処遇は巡りの果てにて、仄暗い水道管の中。穢れを払うに焔と水の業がありて!!体一つで居りました由、焔には贖えませぬ由!

    肉を食え。

    湯気、凍る、ある冬の日の出来事で御座いました。

  • F.U.C.K.,  ふでのゆくまま

    おすすめのごほんは?

    知人におすすめの本を訊くなら自分も挙げねばなるまいて、しかし自分は読書家でもなくなってしまった、ということで。→にバナーも貼ってるけど、アンソニー・ボーデインの「キッチン・コンフィデンシャル」が最近は面白かった。そこそこ古い本だけどね。

    あとは過去に読んだ本の印象など、インターネットで全部吹き飛んでしまった。捨ててしまったからかも知れない。本棚には中谷美紀のインド旅行のエッセイ(しかも一巻だけ)とその「キッチン・コンフィデンシャル」があるだけ。伊勢物語は退屈で風呂で十分ぐらいでやめてしまった。何度かいろんなとこで書いてるけど、心にぐっと来る物は本棚からはなくなってしまった。世間の書店にもまだあるだろけど何でか何年も足が向かないね。

    媒体が変わった、というだけで俺の好きなものは世に溢れている。失望することもないさね。

    あー語ることもないわー。うんこうんこー。

    もともとエッセイとか旅行記、ルポタージュ風の手記とかが好きなんだけど、そういうのってそれこそインターネットのものになったし、そりゃ本も読まないわ。

    あのねえ、こうまでして本を読まない正当化理由を書き連ねるということは、読まないことに何か後ろめたいものがあるのだよ。例えば本を読むことがインテリなら、インテリに思われたければ本を読むだろうさ。人間は感情豊かであるべきだと思うし、心の有り様でとらえる世界の渕こそ美しけれとも思うし、だけど情報はインターネットにあり、知性はインターネットにあり、感情の紬もインターネットにあり、これ事実でしょう。

    インターネットの無い環境なら読むか?読むだろうけどそんなお膳立てありなら猿だって興味を示すだろう。

    また、読むことにも後ろめたい何かがある。どうしても書籍というか文庫本小説?とインターネットのfacebookやらtwitterやらそこらのブログとの間に、両方選んではいけないような壁を感じる。提供の容態が違うだけじゃないか。なんで本を手に取ることも、捨てることも共に後ろめたい??

    ここに破壊の意志が本に対して向けられることとなる。これが本を書く人間や、読む人間への敵意ではなければよいのだが。年に一度か二度、手書きで縦書きという「本来」のフォーマットで文章を書く機会がある。文字は恐ろしく下手くそで、そこに心の篭もる余地は無い。ああ、後ろめたいのはこれかあ・・・。クソが。

    じゃあインターネット上でおすすめなのって言われてもなー。でもま、ま、例のいとやなぎさんhttp://itkz.blogspot.com/は天才だとおもう。この意見はインターネッのみではなく、一般的な社会人(俺とか)たちの間でも支持される意見です。特に読書や書籍が好きな人。