ふでのゆくまま

  • ふでのゆくまま

    せんたっき

    結果が出てから「やっぱりそうなると思ってました~」って表明するのは、胡散臭い。本当にそう思ってたんか、おいいいい?「やっぱり」という言葉の使い方としては合ってるんじゃないかと思うけども、なんかこう…ねえ?なんなら、口に出すのを憚るほうが賢いとしたもんだ。とはいえ、本当に前々から事の顛末を確信していた、ということは、じっさい、あるものだ。あっても、口には出さない。でもね、そんな時に、誰かが粗忽にも、あるいは確信めいて、”やっぱり”と口に出すと、これ嚆矢とばかりに「いや実は私もなのよ」って賛同者が続々と現れる。

    https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1904/23/news094.html

    このランドロイドとやら、売れないと思ってたでしょ?欲しいとは思わないでしょう?差し上げると言われてもいらないですよね!!ねっねっねっねっ。サイズ、価格、そもそもの機能もどうなんだ。日常的に洗濯物をちゃんと折りたたむのは骨が折れる作業だとは思う。でも畳むのが必須という場面はそう多くないと思うんだけど、どう?シャツやジャケットの類はハンガーにつるしたままだろう、普通。収納できるウォークインクローゼットとかもある。Tシャツなんて収納ケースにポイーだわ。下着靴下言うに及ばす。あるいは皆さん、そんなものまで毎回畳むの?

    自宅で何が畳まれているのか確認してみた。冬もの。コートやマウンテンパーカ?とよばれるもの、カウチンセーター。もこもこのフリースなど。一方、夏もの。半そでシャツ、ポロシャツ、下着枠ではないTシャツ…と思ったが、夏物は圧縮袋に入っており、やや反ってコチコチになったものが鰹節みたいに衣装ケースに立っている。これは畳まれていると言えるだろうか。冬物は、単に今が冬でないから収納の都合で畳まれている。そういうもんだろう。冬になったら夏物が畳まれる。そうか、収納かあ。一人暮らしならまだしも、家族四人分ともなると、ちゃんと畳まないと収まらないということはあり得るとおもう。…じゃあなおのこと、あんな大きな畳み機能付き洗濯機を置くわけがないやんけーー。

    きっとこうだ。あの大げさなマシーンでちまっと畳む機能がついているだけなのは、ほかに追加したいような機能の候補が、無かったんじゃないかと思う。AI云々はさておき「洗濯機にあったら良いなと思う機能はなんですか?」という問いに「畳んでポンって出てくる」という回答ぐらい芳しいものがなかったんじゃないか。畳むというのは、面倒くさいから、誰かにやってほしい、なんなら機械の力でよろすく!

    自分だったらセーターもジャケットもなんでも一緒に洗えて1分ぐらいで乾燥まで終わって時々色や柄のパターンを変えたりできる洗濯機が欲しいですね。着回し無限。もはや収納の必要がないから畳む手間からも解放。やったね!これは売れる!税込み20億円ぐらいかな~。

    なお…微妙に話題が古いのは、ちょっとインターネットから離れていたからです。時事ネタにキャッチアップしようとすると、例えば不要物を跡かたなく処分する機能がついてるようなせんたっきを欲してしまいます。最終処分場機能付き洗濯機。ここまでくると20億円じゃ買えませんよね、やっぱり。

  • ふでのゆくまま

    雑記

    リステリンの「オリジナル」というフレーバーがあったので買ってみたが、すごい味わいだ。でかいボトルで買ってしまったが、まあ薬だと思うしかない。こうかは ばつぐんだ!これを使った後だと、通常?の青いミントのやつは、子供だましというか…。乳幼児向け歯磨き粉とかそういう印象になってしまう。ハードコアに口をゆすぎたい人にはお勧め。令和だし。

    実に日本人である実感がわく時。「納豆の食べ方座談会」が時折持ち上がることありますね。各々お好みのカスタマイズしたお召し上がり方が御座いますが、そのパターンもさすがに限界がありんす。消費しつくすといずれひきわり納豆にはシューベルトを聴かよう!みたいなことになるが、人類の知恵で踏みとどまっているところ。自分は最近実践しているのがこちら。「メシに乗せる手前の状態で冷蔵庫で一晩寝かす」つまりこういうこと。パックから器に移し、からしとかネギとか醤油とか付属のたれとかまあお好みで入れて、軽く混ぜる。んで、蓋して冷蔵庫で一晩。それだけ。厳密な比較はしてませんが、粘り気が薄くなります。んで、ネギの風味が強くなります。もう全体にネギ臭いと言えばいいかな。こうしたことで…実はそんなに「美味い!」とも思わないですが、少し別の食べ物を頂いている感覚になりますね。メシに乗っける前に少し常温になじませると良いでしょう。

    何かの漫画で納豆の天ぷらってのやってたな。味わいも想像が付くし準備も片付けも面倒で試す気にはならず。あゝそういえばむかしこのブログにも書いた。大豆の水煮かってきて自分ちで納豆化するやつ。これは市販品に比べると粘り気に劣り、先に書いた冷蔵庫寝かせ納豆に近かったのではないか。あの時は確かに美味かったんだけど、もう一度やろうとも、思わないものだ。

    ここのところ、しばらく仕事が忙しい。いやいや間に10連休あったろ、と言われればそれはそうなんだけども。これはノーカン。んで久しぶりにほぼ定時に退勤して外へ出ると、見上げた夕暮れの空が実に美しい。背の高いビルが一棟だけあって、空とセットで見上げている。とっぷり夜が更けた時間なら、所々に灯るあかりとビルの壁面の暗さ。この時間ならじんわりと色味を空に合わせるように変化する、その途中。もう少し眺めていたらこのビル透けるんちゃうやろかーってね。おや壁も床もなくなったあちらの部屋からはノクターン。石のおうちは薄く塗られてはためくがごとき、揺れて凍り付き透けていく。ぱきぱきと。

    ぽりぽりと。サラダにベビースターみたいな揚げた小麦粉の破片はいっているやつ、食べにくいからゆっくり頂くことになって、結果それは健康に良いのでは、という感じです。だったら納豆飯も爪楊枝で食くうか!橋を捨てよ匙を投げよ。心構えなんていうものに期待するよりはそうやってハードコアに矯正したほうがだいたいは正しい。こうかは ばつぐんだ!

    うーす、雑記でございましたー。

  • ふでのゆくまま

    ゾルゲの墓

    天気の良いある日、ふっと思い当たって多磨霊園に足を運んだ。ふと思い当たって、でなければ足を運ぶことはないと思われる。親戚が埋葬されることもないだろう。あえて可能性が一番高い親戚は…自分かな。ここは自ら下見をしておくか。無駄な思いあたりと実践である。さて、地図で見る限り、阿呆みたいに広い。多磨駅を下車して、霊園を目指す。道中に何件も石材店があり、墓石を売っているようだ。墓前に供える花を売っている店もあった。例えば釣りの名所に釣具屋があるみたいなもんだろう。墓地への通り道であるからして、そんなに驚くようなことではないのだが、その規模が窺い知れる。ふむふむ。ふと、広大な墓地であるからには、ちょうど葬儀後の納骨などしている可能性もあるわけだ。墓地って本来は呑気におさんぽするような場所ではない。不安になるが、ま、出くわしても距離を置けば大丈夫だろうと考え直す。

    到着。谷中霊園は通り抜けたことがあるが、ここはもっともっと広い。地図で見ると数倍はある。区画がきっちり整理されていて、新興都市の地図のようでもある。霊園では、「清掃用具を貸し出しますので管理事務所まで~」なんて放送も流れている。「不審者に注意!」なんて看板もあり、管理が行き届いている感じがある。どうみても不審者な自分はやはり気まずさを覚える。花も線香も持ってないし、肩に下げたショルダーバッグの中身はカメラだ。警備に声でもかけられたらどうすっかなあ…とややオドオドしながら歩くと、ごっついデジカメを堂々と構えて写真撮っている先客がいたので、まあなんだその、大丈夫そうだなと。

    しばらく当てもなく歩いてみる。ここに墓を建てるのに幾らかかるのだろう。どこも立派に見える。富裕層の、あるいは古くからこの辺に住まいの方の墓所というわけだろう。時折、墓石に十字架が掘られていて、墓碑にマリアXXXXと掘られているものがあったりする。墓石が横倒しになっているものがあって、震災以降放置されているのか?とぎょっとするが、そういうデザインなのだろう。流石に近寄って眺めるほどの勇気もなく。名刺入れというものが置いてある墓も多々あった。初めて見たので驚く。後で調べると、そこまで珍しいものではないらしい。お参りに来ましたよ、という連絡替わりとなるんだろうなあ。合理的な話ではある。どうみても妖怪ポスト的な風情で面白い。

    その一方で、草ボーボーという墓もあった。墓石が殆ど見えない。その区画の前には、管理事務所の名前で立て札がたててある。読むと、一年以内に連絡がなければ無縁墓地にして処理しちゃうよ?という意味のことが書いてあった。高い金を払って放置するとも思えず、どんな事情なのだろうと想像する。関係者がみんな亡くなってしまったのだろうか。親族もみな遠方でわざわざ訪れはしないような状態になったんだろうか。墓であるからには、一般的には納骨されている。無縁墓地にして処理、とはどういう処理なのかわからないが、訪れる人のなくとも死者はそこに眠るというのに。寂しい話だ。

    ふと、日本語ではない言葉が書かれた黒い墓石が目に留まる。故人の写真と思われるものが掲げられている。外国人だ。黒い墓石には「妻石井花子」と掘られており、写真を見るべく近づいてみると、手前のグレーの墓石には日本語も彫ってあった。リヒアルトゾルゲ。……!?戦時中のスパイではなかったか。映画化なんかもされたはず。テーマ曲がStratovariusの曲ってことで覚えがあった。

    このように広大な墓地だと、そらあ何かしら歴史に名が残っているような人もいるだろう。(帰宅後に調べたら岡本太郎夫妻の墓もあったようだ)ゾルゲの墓にはまだ瑞々しい献花がある。現在もソ連駐日大使館の人間が墓参しているのだそう。調べてみると、彼の諜報活動により、ソ連は日本軍への備えを西部戦線に転向、それを契機に独ソ戦に勝利した、ということらしい。ソ連にしてみれば英雄ということにでもなろうか。その後、ソ連は突如として日ソ中立条約を破棄して北方領土に侵攻してくるが、それはゾルゲが日本にて逮捕・処刑されてから数年後の事となる。墓碑銘にはこう刻まれている。

    「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」

    なんとも、かの政治思想に都合の良いことを言っている。しかしながら、どこかの国英雄が、どこかの国では石を投げられるというのは、あたりまえの事かもしれず、逆もまた然り。何回も思い出す。911テロを報じるニュースで、崩れたビルの映像の後に、歓声を上げて喜ぶ人々の映像が流れてきた。Go to hell americaとかかれたバンダナを巻いて佇む女性の姿も。見る人によって歴史の複雑さ、その切れ端というものは、こんな墓碑銘にも残されるものであろかしらん。

    日本はWW2以降は戦時下にはない、というのが客観的に見ても事実なんだろう。そら朝鮮戦争とかあったけど、昨今はテポドン飛んできても普通に出勤したし。一方で、映画やゲームに観るような諜報戦的なものが現在はどこでも行われているというのもまた、事実と言って差し支えない筈だ。それはなにも直接的なネットワークやシステムへの攻撃だけにとどまらず、例えばメディアを通じてのプロバガンダ的なものなど悪意を込めて拡散されるようすを見て取ることもできる。何かが爆発したとか誰が死んだとかでは語り切れない、戦争も平和もそのありようの複雑さに背筋の凍る思いがする。

    ゾルゲの墓は、無縁墓地とはならんだろう。もはやなんらかのモニュメントである。あの国のやることには、領有を主張しかねない。墓の一つで政治的にもなんなら軍事的にも意味があるっつーなら、そらあ足を運ぶぐらいする。ま、ロシア政府が建てた墓ではないとされているが…。シベリアで命を落としたいわゆるシベリア抑留者の遺体には、草地となりゴミが不法投棄されるがままの土地に眠ったままのものがあるそうな。抑留者の会などの活動も、近年は閑散としているようだ。(※ネットを漁ってみた程度の感想です。)

    数千の墓石を、ただ石ころを眺めた、ある夏日の昼下がりで御座いました。

    おそロシア。

  • ふでのゆくまま

    +連休

    何度か妄想したことだ。数千年の未来に、今の時代の人々のツイートなりブログなりが「ほえ~」なんて歴史的な資料として参照される日。例えば気象観測データがなくなっても、そんなような情報をかき集めてみたところ、お天気がわかる。わかったから何なのだ、とはご尤も。あるいは何か事件事故の類がわかったりする。あゝこんにちは未来、十連休というパワーワードに酔うみじめな我らの声は届いていますか?じゅーれんきゅう。漢数字で書くと十常侍みたいだな。

    一味唐辛子

    二虎競食

    三郷ジャンクション

    四天王

    五目寿司

    六波羅探題

    七福神

    八百万

    九尾の狐

    十億円くれ

    ところで、十連休の擦り合わせて今月末は忙しかった、という人もおられよう。自分も例に漏れず。帰宅したら日付が変わっていたことも数度。洗濯もできないので風呂上りに乾いたタオルがなかった。ハンカチのストック、脱いだ衣類で体を拭う。タオルもないのにハンカチにストックがあるということは、今日使ったハンカチは三日ぐらい洗ってないんじゃないかな。斯くも無計画。気づいていればタオルぐらいコンビニで買って帰ることもできた。いや、風呂に入る前に気付け。

    現金もおろしてないなあ…というところでふと思いついて、50過ぎぐらいの客先の方に声をかけてみる。「一昔前は、GWには銀行でお金おろせませんでしたよね」って。自分の記憶では、大学生の頃はもちろん、卒業して数年ぐらいはそうだった記憶がある。店の入り口にポスターはってあって、この期間はおろせませんからお気をつけくださいと。「困ったもんだよね、当時は今みたいにネットで買ってクレジットカード払いもなかったと思うし、suicaで買い物もなかったからねえ」とのお答え。ははあん、手元に現金がなくとも大丈夫というわけですな。

    新しい紙幣デザインという話題もあった。肖像の人物が変わるわけだ。このキャッシュレスの時代に、などという向きもあるが、特段機能に変化があるわけでもなかろうし、適宜やったれとは思う。労力に見合うかは知らない。ところで自分の記憶によれば、お札のデザイン変わったなーと認識したのは一回だけだ。野口英世千円札になったタイミング。調べてみれば、樋口一葉も同じときに変更されている。なんでかその印象ないけどなあ。そして諭吉はずいぶん長い間変更されていないようだ。

    https://www.npb.go.jp/ja/intro/ostu_history.html

    ところで上記のリンク先は国立印刷局なのだが、所々に「D千円券」とか書いてあるのが面白い。テレビタレントが使う数え方を連想してしまう。もとはジャズメンの遊びだったといわれる数え方で、日本で(厳密にはイタリアで)のドレミファソラシドが英語圏ではCDEFGABCになり、故にここでDと言えばそれは2を意味する。じゃあD千円券とは二千円札のことかwwなんて思っていたら「2000年にD二千円券発行」と書いてあり草が生える。D千年にDD千円券。

    考えてみれば、よ。貨幣も休日も、国家の定めがその機能の主たる根拠である。当時の国家にはそれができるほどの権力があり、貨幣が通用するほどの国力もあったと知るには、良い証左となりうるかもしれません。

    しかし令和元年は令和C年ではちょっと違うなあ…。

  • ふでのゆくまま

    ほかのまち

    朝より出かけ、所定の時間まで、時間つぶしに駅前の、まるいベンチに腰かけてぼんやりと周りを眺めている。人の多い街は、見ていて飽きない。最近、昔は理解できなかった「街中でそこらを行く人の観察が面白い」などという人のここちが少しわかる。目の前を過ぎる十秒ぐらいの間に、誰かに似ているだの、装いが奇抜だの。人々というのは、やっぱりユニークなものなんだな。平和な社会のなせる業。

    政治家というのは、どこからが政治家だろうか。現役の国会議員は異論ない。大学で研究をしているような「政治学」の先生は違うと思う。各自治体の首長は…どうだろうか。うーん。では拡声器で演説をしているこのやかましい市議の候補者は。彼の政治的チラシ配りを手伝っているこの人は。まるいベンチに座っている人にも順に手渡そうとして、皆に断られ、煙たがられている。自分ももちろん断る。

    「若い人は政治に興味がない」とぼやく人がいるが、若い人が興味をもった結果、「ダメだこりゃ」と見放されたという風には考えてはいないのだろうか。危惧しているよりもっと状況は悪い。…あるいは、良い傾向なのかもしれない。何かを変えようと風が吹くかも、というやつ。そんな呑気なことを考えていると、根こそぎ悪意に持っていかれるというのが歴史の教えかもしれないなあ。

    自分は何をするにしても不注意が多いので、ずっとそれを前提に生きていこうと決めたのです。決めてはいるのですが、勿論、決めたぐらいで解決はしません。改善はありましたが。メメントって映画のレビュー書いた。あれはいくら何でも極端だけど、なんでも忘れるから何でも記録を残したれって発想には至極頷ける。ところが、記録を参照し忘れる、みたいなことが頻発する。自分で自分をチェックする機構が上手く動いていない。自分がbotにでもなったつもりで、毎日何をするか、何をしなければならないかというのをアウトプットしてみようと思い立った。設計図であり、聖書を作ろうと。自分自身など信用できるか。

    こんなことを考えていると予定の時間を過ぎそうになる。メモ帳に「時計を見る」って書かないと!終いには、メモ帳に「メモ帳を見る」って書かざるを得なくなり、スマホに「メモ帳を見る」ってメモを残さざるをー。名前を「メモ帳みろ」に改名したりして。ああ。キリスト文化圏で、聖書の聖人の名前を付ける風習は、あやかりたいという以外に、キリスト者であることを常に忘れるな、みたいな事なのかもしれない。自分は不注意者であることを忘れないという名前にするにはなんだ、与太郎とかにすればいいのか。あるいは茗荷。

    冗談抜きで考えても、街角にある「出会いがしらの事故に注意」とか、小学校にある「廊下はしるな」みたいなもん、目につくところにあるから効果がある。自宅にそういうの置けば良いんだよな。で、実際置いていたのを思い出した。玄関のドアにホワイトボードぶら下げて、予定を書いておく。造り上、風呂トイレに行くたびに目に入る可能性が高い。外出時には猶更。なんで止めたんだっけ、と思い起こす。宅配便を届けに来る人に丸見えだからであった。受け取りのサインとか書いている間に、ね。今考えれば、裏返してドアを開ければいい話だわ。

    なんというか、もっと工夫して人生に取り組むべきなんだよ。何度も自分あてに書いているフシがあるなこれ。できれば穏やかに静かにぼんやりしたまま平和に人生を終えたいと思う。でもそんなの高望みが過ぎる。十億円宝くじで当ててから考えればいい。そう思って月に一回ぐらい宝くじ買うのに、日々の細かいチェックや工夫がアレなんだよなー。

    それでも必死で船を漕いでいれば風向きが変わるというのが、良い人の人生でしょうが、どうも自分には。令和の世に期待すっかなー。こんな言い方はあれだけど、この春は自殺者が少なくなった、みたいな統計が出ると面白い。どうせ作為的な数字だろ、で終わりかねないが、さすればほれ、又の国難にも改元。早良親王とか道真の祟りに対応するみたいな発想。そうよ、天皇は神道に於いて高位の呪術師とみる向きもあるところ、俺も共に祈りたい。ハァ十億円~~~。