映像には温度と匂いがないから

映像が、証言が、実際の体験者が、陰謀論が、山ほどの情報を語るが、ここに20年前の空気が漂ってくることは二度とない。お前も現地に居たわけじゃないだろ、ってその通りだ。ネット麻雀のチャットで事件を知った。そうだ、当時はテレビがあったのだ。慌ててテレビをつけた。

今のティーンは誰もこの当時を知らない、というこの事実が驚愕だ。本当に20年も経ってしまったんだな。震災もそのたなんやかんや、忘れられることはなかったとしても、薄れてはいくんだろう。それが世界の流れであり、進化である。そんな風にポジティブにとらえようとしても、抵抗がある。だって「それなら積極的に記憶からも記録からも消しさろう!」という考えは、ありなんだろうか。

映像を見ているこの瞬間をカウントダウンの始まりとして、やがて、あるいは五分後にでも、同じ厄災が我が身に降りかかるのではないか。そういう恐れが、自分の内側から湧きあがってきた。本当に忘れてしまうものは、これだろうな。恐怖を覚えたということを、無かったことにしてしまう。私が広島や長崎に投下された原子爆弾の映像を初めて見たときも、ビルに突っ込む飛行機の音を、津波に流されたながら軋む家屋の音を聞いたあの時と、同じ恐怖を覚えることはなかった…筈だ。日本の事情としてキッズのうちに何度も見ることになるからな、よう覚えん。

忘れることは欠損なのか慈悲なのか。

とりま20年間進捗ダメでしゅ。

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