-
夏爪
足の小指の爪が裂けているのが治った。
特に治療を受けたわけではないので、仔細は不明だが治った。爪を見下ろした時の、いわゆる肩の位置から、親指側:外側=8:2ぐらいに分割できる線で縦に割れてしまっていた。付け根のほうまでいくと根っこは同じである。途中から木の枝みたいに分かれていた。靴下を履くときなどたまに引っかかって捲れてしまい、あいててて、となるのでした。しかし歩くのに不自由するほどでもなく、ちょっと違和感程度のものなので特に対処もなく。その都度細いほう、外側の爪を根本の分岐点近くまで切って、捲れないようにするといった作業をここ数年。これがさっき見たら治っていた。ふつーの一枚の板となっていたのであります。
…と思ったのだけど、よく見たらどうも割れた層よりも一枚下に層が形成されて伸びてきたように見える。即ち、8:2の8のほうが爪の上にうすーく載っているように見える。やや変色しているので僅か二層の河岸段丘と言った塩梅だ。怖いので変にいじらないようにしておくけども、もし二枚に分かれて今後も育つというのならば結構な面倒事になりはせんかと心配しております由。
今年も夏が来たが、もう一年エアコンなしの夏を堪能してみたい。正直しんどかったが、具合を悪くするほどでもないもんだった。むしろこう、何か納涼の工夫でもしてみたいと。そういうのが却って手間もお足もかかるからこその近代社会なのですが、なかなかどうして人々の知恵もテクノロジーに負けておりませんことよ。
まあそういう知恵とか道具もインターネットで調達してくんだけどな。
、
-
昔の下書きを消化する
思いがけない出来事に遭遇する、ということがあります。しかし人類に未来予知は能わず、ほとんどの事は思いがけません。結局は後で客観的に評価して、これは思いがけないものと言って問題ないか、みたいな検討を経て「いや吃驚した」だの「こんなことあり得るのか!」だの、色を足したり引いたりして認めてみたりするものです。
「客観的」という言い回しの実質は風土とか慣習。ここ数年、夏には特に東京で度を過ぎた夕立が降るようになった。なるほどこの土地はそういう気候なのだなと納得され、なにかこう、洪水対策でもなされて、ああこれがこの土地に暮らす知恵なんですねー、なんて。住まいは夏を旨にはできるが水に流されるを旨にはできない。しかし多分、これは思いがけない出来事という範疇ではない。実効的な知恵があり、知恵能わぬ時の覚悟か諦念がある。
まとまりのない事を書いていると落ち着きがなくなる。ティッシュを取ろうとしてひっかけ、麦茶をこぼした。
このような場所に置いて、溢すとどうなるか、避けるにはどうするかの知恵がありながら、考えてみると、どうもこれは「思いがけない出来事」に含まれるようだ。知っていてもどうでも良いとそ知らぬふりをする。だって飲み物は手の届くところにないとねえ。そうよそうよ。見て見ぬフリをしてやがて迎えるささやかな未来のハプニングを、「思ってもいなかった」と宣い、嘘をつく。これはすでに見たことの筈だ。責任逃れ。そ、人類に未来予知は能わずとは、過失の無い事への主張であり業への抗弁である。
我々は実は未来を知っている。踵を浮かすぐらいの背伸びで見えるものが、見なかったことにしてよいものかどうか。それを見えたというなら未来が。見えないというなら、それは思ってもいないことだ。未来は心のうちにある…。
数年前。駅へ向かったら思いがけず、黒人の盲人が駅へはいり歩いていく所に出くわした。身なりは思い出せない。髪には白髪が目立ち、初老と言った感じである。映画「セブン」のモーガン・フリーマンを彷彿とさせる。ひとりで点字ブロック沿いにのろのろと歩いている。不思議な光景だった。なぜ一人なのか。ここいらに、あるいは東京にお住いの人物なのか。この国は長いのか。旅行なのか。
偏見と言えばそれまでだが、一人で盲人が旅行などする筈もない。なればこの人物はどういう理由でひとり歩いているのか…。実は盲人という確証はなにもない。ただ、杖をついて歩みはゆっくりで、探るようにコココと杖で足元をなぞりながら進んでいる。日本の言葉はわかるんだろうか、点字ブロックって国外でも同じ意味なのだろうか、ほら手話って国ごとに違うらしいじゃないです?
数秒。
彼のプロフィールに思いを馳せていると、向かい側。駅の反対側の入り口から改札へ続く通路。同じく点字ブロックが続いているのだが、その上を女性がこちらへ向かって歩いてくる。その瞬間、映像美を売りにした映画のような写真が脳内にストックされた。このまま二人が歩めばぶつかる。しかしお互いにそろりそろりと歩いている。本当にぶつかってもどちらも怪我はないだろう。ま、大事にはなるまいと横目に、通勤の電車に乗らんと改札を抜けた。
以上。おそらく二年ぐらい前の出来事。
-
ほしの降る街を
星が降る夜、などという表現を最初に使ったのは誰だろうか。
例えば実際に星が降ってくればそれは未曽有の大災害であり、下手をすれば地球ごと無くなってしまう。いま自分が知っている表現とはだいぶん印象が異なる。観測事実から生まれたものではないようにおもう…であるならば、例えば「河童の川流れ」なんてのと同じ、たとえ話や説話のようなもの。あるいは「杞憂」のような故事成語っぽいなにか。ことわざとか。
しかしそれならば何かその表現の影に真に意味するところがある筈なのだ。河童の川流れならば、達人でも失敗することはある→みんなも気を付けようみたいなこと。辞書にあたれば「星降る夜」は夜空に多く星が可視状態であること。雨というのは空が雲で満たされやがては雨粒となって空いっぱいから降ってくる。この現象に例えて、昼で言うならば雨雲が淀むが如くに、夜空にお星さまの賑わいがあるという感じ。雲に同じく見上げればそこにあるという事で、ご都合もよろしい。
よろしすぎないか。
実際に降ってきたことはないのだ。流れ星を見つけて星が降るとしたのだろうか。だったらあれは流れ星ではなく、語呂もよろしく降り星(くだりぼし)とでも言うような。ああそもそも読み方が違うのかもしれない。ほしふるよるではない、ほしくだるよる。
読み。あっ。文字より先に言葉。「ほし」「ふる」という言葉に、我々の馴染みではない意味があるのではないか。日本の古典や文学に詳しい人材おらんかな。おらんかなあ。あなや、こんなところにインターネットがおはします。ここでは無限に情報が降ってくるのだ。引用部はリンク先。
http://linguisticrootsofjp.web.fc2.com/expressiontowonder/expressiontowonder_1.html
「ふ」という言葉はいろいろの意味を持っているけど、そのひとつは、「表面」、「外観」、「界面」
を意味する。「ふりをする(振りをする)」、「ふくれる(膨れる)」、「あふれる<あふる>(溢る)」
など、同じ謂れだ。ここの場合は「ふる」というのは「表面を覆う<おおふ>」ことを意味する。
説明としてはとても納得がいくものだ。星の降る夜とは、星が一面に視認できる夜空である。雨が降るというのも、視界が全て雨に覆われるもの。高所から水分が落ちてくるという事象との相関はこの星降る夜という表現においては、実はあまり問題にされていないのではないのか。
いやいや…。我々の頭上というのは単にモノが落ちてくるだけの世界ではないではないか。天の恵みの例えの如く、その御座には神様たちがおって、何がしかこの地上に寄越してくる。其のありがたみにあやかっているのだ。星々の美しさを素朴に例えた、などと薄甘いだけの由来ではあるまい。星が降る夜があれけば、お天道様のご機嫌な一日がやってくるやも?慎ましく大地に生きた人々の、明日への希いがここにありはしないか。
現代も星空に願いを託す人は少なくない…ろまんてっくな観測によれば一応はそういうことになっている。お星さまはご健在だ。だけどもう少しすれば、夜空にはきっと何か目視できる人工物が浮かぶかもしれない。ほら、大地を離れて暮らす人々の巨大なお住いとか?案外お星さまよりは願いを聞いてくれそうであるな。
我々はこの星を離れ、いずこに願いを託しましょう。星は上下左右に「降って」いる。星空どころか空や星座ですら地球でのローカルルールでありました。絶やされることのない祭壇の炎の如くに、象徴としてのお星さまが、見据えて願いを託す、人たるものとその外を隔つ門が要るのです。篝火よ。そらこぎわたるわれぞさびしき。
街の明るさに塗れてお散歩などしていると、そういう気分になることもあります。これからストレスのたまる季節になりますが、そのほんの少し手前の今だけに許される涼やかな夜更け。
-
ただの日記
呑気にAmazonさんの荷物を待ちながら掃除洗濯などしている。呑気な快晴の日記です。
タモリ倶楽部の企画だったと思う。力士のユニークな四股名をネタにした回があった。その奔放というか投げやりにも思える名前に驚いたもんだ。という所から、力士の名前など探していると、彩豊(いろどり ゆたか)とか、爆羅騎 源氣(ばらき げんき)とか面白いのいらっしゃるもんですね。爆羅騎 源氣は兄弟力士で、兄のほうは羅王というそうで、爆羅騎も羅王も本名。
Twitterも楽し気な感じの多いんだよね。
https://twitter.com/kyoukara_terao—–
酒禁止ももう半年。そこで試しにノンアルコールの飲み物を飲んでみた。ソルティドッグテイストとの事なんだけど、果汁系のカクテルからアルコール抜いたらそれは普通のジュースなんじゃないかと思ったが、飲んでみると確かに風味が酒っぽい。カロリーも糖質もゼロってなんだ。原材料を見ると、「苦味料」などと聞きなれないものが。グレープフルーツの皮部分に相当する苦味ということだろうか。果汁100%などと言っているグレープフルーツジュースよりも生で食うグレープフルーツに近い。凄いというか薄気味悪いというか。法事に参加した時なんかもノンアルコールのビールってよく見かける。車移動の人が多いからというのは納得できる理由ではあるのだが、こんな商品ここ十年だろう。それまではどうしてたんだ世の中は。まあ兎も角この飲料はあまり進んで飲む気にはなりませんでしたということでして。
—–誉れかけのレディオというのを思いついた。
——————平日昼に中央線に乗る。ここ十年の暮らしだともう珍事と言っても良い。神宮のスケート場当たりで多数のクレーンが並んでいるのを見つける。オリンピックのあれかい。ロゴがどうとか揉め事の絶えない印象だけど、そういえば聖火台が設計されてないなんて話もあったな。どうなったんだあの話は。このままだとマリオが燃える肉団子を投げつけて着火みたいなしょーもない演出になる。あるいは人間志向の造形の機械がよたよた歩いて着火するかもしれない。オリンピックってほんと開会式と閉会式が好きじゃないねえ。競技も好きでもないな。
—–
朝方に片方の耳の奥に痛みを感じて目が覚める。痛むほうの耳の聞こえ方も何かくぐもったような感じがある。これはまずい、病院だとなったんだけど耳鼻科なんて東京に来てからかかったことないので焦って探す。インターネット様様。まあ流石に徒歩圏内にある。仕事はお休みの連絡をして、不案内なエリアだったので早めに行き、開くのを待つ。とても良い天気で爽快だ。なんか気分が良くなってくると痛みもちょっと和らいだようで、初診の病院というそわそわ感も一緒に和らぐ。子供向け図書の充実した本棚を眺めて待つと、すぐに山小屋の主人みたいなワイルドな先生が登場。
鼓膜が少々炎症をおこしているようだと。耳たぶ引っ張っても、耳の周りを押しても痛みが来ないので、中耳炎ではないのではないか…耳かきで痛めたのではということに。耳かき好きなのは子供の頃からで、時折深く攻めすぎてしまうことは前からあった。ここ数日でそんなやり過ぎた記憶はないけども…。化膿止め?と痛み止めを処方してもらい、まあ飲んで過ごしたらその日の夜には痛み止めを飲まずとも痛みもない。家でPCの前にいるときはヘッドセットしていることが多いのも良くないのかもしれない。結構気密性の高いもので、暖かい季節になってくると外した時に汗が滲んだりしている。爆音にはならないように中学生の頃から気遣ってきたつもりなのだけど、例えば年を取って知らず知らずのうちに耳に馴染む音量をあげてしまってダメージが溜まったりしているのかもしれない。
痛みが出る前日に職場で隣の席の人が酷い風邪でえほえほしていて、こちらも喉に痛みがあった。それも原因かもしれない。まあ治ったということにして、また症状が出たら行こう。耳かきも控えておく。こんなことを書きながらも、音楽を聴いているわけでもないのにヘッドセットが装着されている。がさつであります。仕事なら兎も角、自宅でいるときに細かく気を配るという事が出来ないもんだ。
今年も麦茶の用意が整いました。エアコン直してませんし、ハードコアな夏をしのげるのか40歳の鍛錬といたしましょう。その前に梅雨だクソ。
-
天鳳で著名プレイヤーが不正行為でBANに
書いてた途中でブラウザを落ちて小一時間分の文章が消えまして、やる気がなくなったので簡単に書き直す。
将棋の三浦九段の件とかと比較すると疑惑が出てから運営が結論出すまで随分早かったなという印象。その結果に大きく異を唱える意見も見当たらない。なんでかというと、証拠となり得る情報の確度と量が違うんだろうなあと思う。そもそも単なるカンニングと、八百長行為では不正の内容として対比しようもないか。このブログの方向性的に言うならば「ログは大事だマジでガチで大事だ」というインターネッツ界隈ではとても当たり前の話。
してみれば、将棋のゲームでもコンピューターとの一致率は不正行為でアカウント停止の基準としてかなり使われているのに、三浦九段の件ではほぼ当てにならないみたいな論調で通っていたのはなんでなのか?という点がなんでだ。自分の考えでは上位プロレベルでは、将棋ソフトと着手が被る事自体は一般的だからそれで不正ととがめられてはプロ棋士自体が成り立たないからではないかと。
そこで、実はソフトの不正を疑われて将棋ゲームのアカウントが停止になったプロとかいたら面白いと思ったんだけど、それこそ本人に聞く以外に調査方法もないし、プロが名乗り出ないと今後も”発見”されないだろうなあって思いました。
関連リンク
天鳳公式ブログ
http://blog.tenhou.net/article/179719439.html疑惑を提示したツイートのまとめ
https://togetter.com/li/1108382