• どくしょかんそうぶん

    「あたらしい憲法のはなし」を読んだ

    なんとなしに青空文庫の作者一覧を眺めていた。知ってる名前のすくねえこと…無学はこれだから困るね。するとそこに、作家ではない筈の、しかしよく知っている名前が作者として挙げられていた。

    文部省

    これは強い。しかしてその著作とは「あたらしい憲法のはなし」である。読んでみますか。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

    憲法そのあらましはwikipediaでも読んでいただくとして。当時の中学生向けに新しい日本国憲法について説明したいわば教科書的な物。書籍として出来上がったのは1947年8月ごろらしい。昭和22年。同年5月3日には既に日本国憲法が施行されている。流石に発布されてから施行までの間に本書の内容のような説明が各所で…どうかな、されたのかな。

    印象的な挿絵と共に淡々と文章で憲法の精神だとか基本的な仕組みが述べられている。当り前だが、そこで述べられる為政の仕組みは現在の日本国の仕組みでもあるため、三権分立だの基本的人権の尊重だの耳慣れた説明も多いってわけだ。

    サンフランシスコ講和条約よりも前であるから揚揚と「国民主権」と言ったところでほんとのところは国家の存続も怪しかったのではないか。シベリアからの帰還事業も始まってない。戦争は終わったものの、もしかしたら見切り発車だったのかも?実際のところどうだったんだろう。二年も経っているからそんなことは流石にないか?

    そんな時期、中学生に世の中が変わりますと伝えるのはどういう感じだったんだろうか。家族を失った生徒だって沢山いただろう。寺の鐘だとか家の鍋みたいなもんまで提供して戦争を支えたのに、軍隊とか兵器とか今後そんなもん(ヾノ・∀・`)ナイナイって話になった。想像も及ばないが、やっぱり困惑したんじゃないかな。平和を謳歌するなんて世相には程遠かったんじゃあないか。衝撃だったろう。あるいはその激動を受け止め、僕らがこの国を作り直すのだ!って志を抱いた少年もいたんだろう。そうじゃなきゃ未来がない。

    個人的な妄想の話は良いとして。

    一通り読んでみると、前述のように当然聞いたことのある内容が多い中、衆議院と参議院の二院制について、野球で例えて「バック・アップ」という言葉で説明されているのが新鮮だった。どこかで目にしたことがあるけど、戦時中は野球の審判のコールもストライクとボールを使わなかったらしい。敵性言語なんつって。この変わりよう。そして終始、戦争良くないサーセンの一点張り。この変わりよう!!!「今お伝えしているような(民主主義的な)仕組みが過去に無かったから戦争になったのです!」みたいな事まで書いてある。そうとも言い切れないんじゃないのか?という事は当時の世界、とりわけ同盟国の顛末を見てもわかりそうなもんだけども、当時の学生に知る由もなく、ほいで残念ながら戦争自体が未来から消え去ることもなかったのであります。

    もひとつ。選挙制度について説明する中で「しかし、いくら普通選挙といっても、こどもや氣がくるった人まで選挙権をもつというわけではありませんが」この一文を入れた理由についても興味がわく。今までは”そういう”人たちなど捨て置けばよかったものが、日本国憲法の下ではそうも言ってられなくなった。こんな実態に備えた説明と読みとることもできないだろか。無下にすることもできないが、かくかくしかじかで選挙への参加はご遠慮願う。戦前の制度ではどうだったのか比べないとこの自分の想像が的を得ているかどうかもわからんが、ちゃんとしたソースで調べるのはめんどくせ。じゃあ現行の制度ってどうなってんだろう。簡単に調べてみると、重度の知的障碍者でも選挙権自体はあるらしい。

    日本国憲法も変えるの変えないのと騒ぎがあったけど、そんな議論がすぐ引っ込んでしまう。これじゃあ変えようと思ったらまた戦争するしかねえぞ。しかし日本国憲法九条に「国際紛争を解決する手段としては」放棄するとある通り、埒のあかない議論にケリを付ける手段としてはまこと合憲であります!村田製作所謹製、戦艦大和朝廷武蔵丸がその全貌を顕し、その主砲の驚くべき射程距離、呉の軍港からはるか真珠湾を直撃!気象衛星ひまーりから放たれるSOLはネバダ州全域を2秒で湯豆腐にいたします。

    80年たってこんな大人がいるのでもうだめで草生えておりますが、憲法の条文一個をすんなり変えれない事を堅牢とみるか脆弱とみるか。次の戦争が終わるまで分からないってんなら、本当にもうだめだ。トラトラトラ。

  • どくしょかんそうぶん

    「蒲団」を読んだ

    田山花袋の著。現代の雅ことばでは「オフトゥン」と呼ばれますね。青空文庫にて拝読。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1669_8259.html

    弟子に器量が良い女学生を受け入れたから、アレやコレをどうこうしたかったけどそうもいかずに悶々しました、XXXやっておけばよかった、という話で合ってますか?吾輩は雄である。

    これは妄想ですが、平成の世に流行ったトレンディドラマってこういうのがひな形じゃないか…しかし、そんなこと言ったら古くからあるオペラみたいなもんのほうが近しい物語かもしれない。

    ところで、例によって田山花袋の事を何も知らないのでwikipediaにその人柄などを捜索したして候。すると「モーパッサンの影響を強く受け」「紹介で博文館に勤務し、校正を業とする。」…なにこれ、作中にそんなキーワードあったような。この『蒲団』は自分のエッセイみたいなもんなのか?

    本人役の作者登場パターン。例えば筒井康隆の小説は、筒井康隆当人が「うわあっ」とか言って奇天烈な事件に巻き込まれているのを想像してしまう。傾く家から転げ落ちたり、力士に追い掛け回されたり、でんでん無知無知かたつむり。つげ義春とか桜玉吉も好きだ。もとより、エッセイの類は短いので好きだ。ところが古い時代の人はその人となりも想像におまかせで、いまいち靄がかかる。いや、筒井康隆もつげ義春も小林銅蟲も桜玉吉も面識ないですけど、著者近影があったり、どこかで人となりのエピソードがあったりするものだ。昨今ならば、著者が自から人物像を発信するも容易く候。

    発表当時を妄想する。作者本人の身辺事情を知っている人は、この内容を読んで「…花袋自身のことぢゃないか??」と気づいたかもしれない。「というと芳子というのはあの娘か。あの娘にアレやコレをどうこうなんて思っていたのかこのお布団野郎!」そりゃあ衝撃だろう。現代なら明らかな炎上案件である。世間を変えたい、時代の若きパワーで書いたんですねえ。名前はまだない。

    作者自身でこの作品を著した頃のことを書いていたりもする。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/48806_74810.html

    「私は机を並べて仕事をしてゐた人達からもじろじろといやに顔を見られたばかりでなく、ある人からはそれがために絶交状に近い手紙をさへつきつけられた。」

    本当に炎上してて草で候。こんなんで炎上したら、そりゃあ恥ずかしくて蒲団に顔埋めて泣いちゃう。

  • どくしょかんそうぶん

    「ドグラ・マグラ」を読んだ。

    青空文庫にて拝読。

    奇書という肩書はどうなんだ?というのが正直なところ。もちろん「奇書」の定義なんてあるとも思えないが、読み終えてみれば(もちろん拝読している途中からも)印象は違った。科学検証めいた話が続き、推理もの、エスエフかサスペンスか、という風情であった。想像よりも長くて読むこと自体がしんどい。書が奇なるのではなく、真面目に読み終えた人間が奇という意味だったんではないか。webブラウザで拝読したので自分がどこまで読んだのかを把握するために、「〇〇まで読んだ」という趣旨の一文をSNSに残して、それをしおりとした。その一文を検索すればそこから再開する。間抜けな工夫かと思ったが、大長文をwebで読むのには案外実践的なのでは。その発想が奇怪でありますか、ハイ…。

    で。本作について、私はモウ読んだことあります、みたいなテイで長年過ごしていた。知ったかぶり。どこかで読んだ事ありますとか発言してねえだろうな。大丈夫でしょうかこの30年のわたし。本書は20世紀には耳にしたことがあったと思しき。しかしながらリアルライフで話題になることも、読み終える必要になることもなかったから、ずっと読んでなかった。ふと、ほんとうにふっと、読んでみようかと思ったのが今年になってからで、読み始めてから2週間ぐらいかかったと思う。風呂で読むとかテレワーク昼休み寝落ちの前に読むとか。それで結局、中島らもの「今夜、すべてのバーで」みたいに過去に読んだ事あったわ!というパターンだったらどうしようか。自分のいつも通りの適当さを危惧した。だって、冒頭のブウーーンみたいなのは目にした記憶があるし、ネットで調べると出てくる表紙?のイメージイラストに何となく見覚えがあるような。

    1935年の書物であります。ナチスドイツが後の惨禍へ向けて助走をつけているような時代。そんな時代の脳科学や精神医学語られても、素人ながらに「この内容は古臭いんじゃないか?」と思ってしまった。しかし素人なので、現代医学の粋と比較することもなく。フィクションのリアリティがあればそれで良かろう、目覚めれば記憶がないわたし、白衣で広場に放たれたキチガイ…うううん、あるかなあリアリティ。あるんだろう。

    (読み終えるまで刊行年について調べはしなかったものの)相当に古い本という認知だけはあり、偉大なる脳髄によって成された認知があり、だって青空文庫に載っておりますもの、チャカポコチャカポコ。キーワードだけ抜粋すると浅く読んだという事がみなさまの脳髄にも生えて潤しござんすね、ここで沼の底より水面を叩いてごらんに入れますァ。

    みたいな適当な文章が並んでいることも無く、兎に角まともな作品であって、読むのにパワー。検証されてないが事実ではある事象に対して、〇〇が原因だったらどうだろう、という洞察をねじ込んでこれは話をつくる本筋の一つだと勝手におもっておりりり、本作だとあるいは夢遊病とかいう奇なる事象があった。そこに生命の進化とか細胞分裂とかくっつけて医療制度の問題とか資本主義とか学府の権威を揶揄したりすれば、読んでいるさ中にどこに向かっているんだろうな?と困惑を覚えたことは否めなポコ。

    私は少し前になんかの映画のレビューで、夢オチと精神病オチを好みませんという事を粗暴な表現で謹上したもんだけど、本作はもしかしたらそういう開祖なんでしょうか。本作は読んでみれば、推理サスペンス調というか、刑事もの?探偵もの?という作品であった。精神病オチではあったが…そこにグロさも恐怖もなかった。ここに及んで、本作ははっきりと自分が妄想した奇書ではなかったが、やっぱり発刊当時はどうだったんだろうと思ってしまう。極端に例えれば地球は丸いって最初に耳にしたらみんなびっくりしたことだろう。

    じゃあ奇書だなんて言いだしたのは誰か。おそらくは刊行当時に、精神病患者、精神医療という舞台そのものが珍しかったと推測する。「胎児の夢」という架空の話を、さも当時の学会で実際に議論されていたり、また科学的に認められ得る可能性があったかのようにち密に書いてある。母なる海と父なるミトコンドリアが記憶を継ぎ足し継ぎ足し、先祖代々伝統の夢を見せるのだそうな。なんだこれ。本書の内容と合ってるか?こんなことが延々と書いてある。この世界観を提示しておくと読者は納得して読み進めるという目論見があったんだろうか。100年前の読者には実際どううつったのだろう。

    100年分のアドバンテージを活かして、chatGPT君に見どころ…?読みどころと概要と世間の評価を聞いてみると、たちどころに分かりやすい文章が出てくる。この内容を100%鵜呑みにする人というのは、2024年夏時点では人間としてこころもとない。どえらい嘘が吐き出される事もある。しかし、100年の積み重ねから尤もらしいexcuteをやってのけるのはコンピュータに託した我々の夢だ。キチガイ様のお告げに曰く、電気羊の夢を得たりと。100年でキチガイが増えたかは分からないが、夢のストックは増えたのだ。いや頭おかしいのも増えとるわい!


    なお映画化されている模様。

    正木博士:桂枝雀

    (; ・`д・´)

    この事実にここまで驚けるという事は、わたしはきっと本書を読んだことはなかった。今回、本書を読み終えて、はじめて本書を読み終えた事が判明する、まごうこと無き

    既書。

    -2点。


    実際のところ、古本屋で買ったけど読まないうちに捨てたかもしれない。どうしてもあの、天野喜孝みたいなイラストに見覚えがある。いつか捨てた本棚の、そのどこかに放り出してあったような記憶がある。でも、調べたら上下巻だった。二冊あった記憶はない。自分 のことだ、買ってから「あれっ?上下巻なのかーーーい」と気づいて読まずにそのまま放っておいた可能性が猛々しい。