どくしょかんそうぶん

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    能町みね子 「オカマだけどOLやってます。完全版」

    能町さんを最初に知ったのは、多分タモリの隣に並んでいるのを見た時だった。流浪の番組だったかもしれない。

    ちょっと人気が出るサブカル畑の人はわりとあの番組出てくる印象なので、「どなたかご存知あげませんが人気なんですかねえ」なんて。彼女が変換済みの人物だと知ったのは数年後、つまり最近であります。それまでに何度も動画を目にする機会があったのに、そんな点には全く気付かなかった。特に気付く要素ないよな、普通にテレビに出演してたってよ。そもそも知ったきっかけというのは、オネエタレントと報道され、それに反駁したというニュースだった。確かに、その意味のオネエではないわな…。

    そもそも能町さん、むかしはブログを書いててそこから分泌文筆業界に入った人、とのことで、そのブログ本を買った次第。この本を読むと、なんというか、真剣に困っていた様子が感じ取れない。なんと軽々とポジティブな。なんならこの人また男性に戻ろうとするんじゃないか、なんて思えるほど。医学的な診断だって、アルトベンリ~で受けたように読めた。

    もちろん意図してそういうふうに書いてあるものだろうけども、故に楽しく拝読。

    性というのは少なくとも哺乳類として生まれるからにはどちらか決まって生を受ける。それは生物個体の役割として不可分な役割に直結している。繋がりである群れにおいて、人類に於いてはもっと巨大な社会としては誰か一人が変える事なんてそこまで大きな騒ぎにならん、というのは分るんだけど。つまるところ人との関りは個人と個人だ。性別を変えるなんてインパクトが、神の摂理に反する云々、斯く斯く然々。しかし考えてみれば、見た目で変化がなければこちらとしてはあまり問題にならないケースが多いんじゃないのか。身の回りの友人知人を思い浮かべながら考える。このブログを書いてる人が法律上は女性だって知ってもみんな困らないでしょ?

    嘘です。おっさんです。いまんところ無神経にこのような冗談を語れるほどに縁のない世界だ。いままで、自己紹介で「男性です」と性別を言ったことも、言われたこともない。いつかそう確認しないといけないような世の中になるだろうか。

    能町さんは男性としてデートやお布団inなんてことまで体験している。こういう人が転換の決心するのにはこういう体験あるんだろなあ。その時の様子というのが…えーと、買って読みましょう。読もう能町みね子。

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    “Mystic River”を観た

    鬱映画というほどでも。

    以下ネタバレ。

    クリント・イーストウッドって渋い俳優ってイメージだったんだけど、映画監督としての有名なんじゃないのか。本作もどこかで心がどんよりと暗くなる映画だと評判だったので見てみることにした。結果としてハッピーエンドには程遠いものだったけど、そんな沈んだ気分になるものではなかった。そこいくと「ミスト」は本当に…。

    事件の解決に至る流れは見事だったと思う。最終盤まで何が真実だかわからないままに、こっちもある、そっちもある、と思わせる。あるきっかけからの一気に線がつながる感覚は、こういう事件解決ものの醍醐味なんですかね。ネタバレ通知済みだから書きますが、結局殺したのは「誤射」だったっていうのはちょっと拍子抜け。

    バーの裏で死体が上がったというのが実際にデイブが殺した、少児性愛の前科持ちということなら、トランクに詰め込まれたのはその彼か。車が家に無かったというのは…その処理。帰宅が午前3時だったのもその晩か…。

    デイブは脅されて犯行の自白を強要されるが、強要に屈した上に結局殺される。後に真犯人が判明し、ジミーが罪のないデイブを殺たことを悔いても、ジミーの妻はそれを良しとし、「愛する者のためなら何をしても許されるの」「あなたはこの街の王様」とむしろ一層絆を深めている。デイブを売った形になってしまったデイブの妻との対比が面白い。そもそもデイブが疑惑を向けられるようになった、謎の怪我の理由は人助けだ。結果として、子供の頃と同じく、デイブだけがひどい目にあった…。いや、ジミーも実際娘を殺された被害者なんだが。

    ここ数回、まとめて映画のレビュー(以下の雑文)書いてるけど、映画中の具体的な内容に関する記載が多いときは、映画を見たことで受けた印象が乏しいパターンである気がする。その、まずまず楽しめたんだけど、なんかこう。心象を記すに難しいのは言葉そのものの作りの問題か自分の心の問題か。まあ1000文字程度のテキストデータで表現し得ないからこそ映画があります、そういうことですよね。高い目線から失礼いたしまんたー。

    この映画自体はまずまずよー。

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    “No Country for OLD MEN”を観た

    あんた顔力あり過ぎだろ。↓ジャケットの画像見たらコメディなのかとすら思ったぞ。

    以下ネタバレ。

    「サイコパス観察日記」か。いつまでこの手の映画作られるづけるんだかもう食傷気味でしかない。いや、このブログにたまに書くもの以外は映画は一切見てない自分でもそうなんだ、映画愛好家の人たちはどうしてんだ。楽しんでるのか。見なきゃいいだけかそりゃそーだ。本作は楽しめた。

    なんかたまたま大金拾ったらやばい金で、組織に追われる話。これだけで100本ぐらい映画になってそうなスジじゃないの。今作では拾ったほうもトーシロではなく、追いつ追われつのスリルが楽しめる。

    なんで「かつてはベトナムに行った」という趣旨の本人の発言で所々都合の良い交流が生まれるのか、これはアメリカでは実に日常的で、そういうもんなのかと思って見ていた。ところが、この作品のタイトルの解釈とやらで何となく納得がいった。国のない”OLD MEN”というのは、もちろんただの老人を指すものでもなくて、古き良きアメリカを知るものというニュアンスなんだそうな。のみならず、例えば少し前の世代に苦労をした人、というのも含まれないだろうか。それこそベトナムに行ってた人たちとか。あーまたこのスジねー。

    その、金を追いかけるほうは、物語後半に進むにすれ、特に納得のいく説明もなくどこにでも登場して簡単に人を殺めていく。だからどうやって場所を知ったんだよ、何で移動しているんだよ、という観点はもう途中からすっ飛ばしているように思える。サイコパスだからですよー…って?お土産みたいに部屋の隅に、そこらの影にいて、ショットガンと圧縮空気?でぽんぽん殺していく。ショットガンというのもなんだか象徴なのか。消音機つけてるというのも。ショットガン持ってうろうろするような西部劇サイコでも、消音機を付ける程度の近代合理的な思考があればこの国には生き残れるとか、そういう?

    マッチョがデカいバイクに乗って片手でショットガンぶっぱなすような映画もあったね。ま、あれも人じゃないよな。州知事サイボーグだ。しかも未来からおいでだ。

    うーん。なんかイマイチで御座いましたね。

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    “ヒトラー ~最後の12日間~”を観た

    彼について触れることのタブーとか言われても、ピンとこないけどね。

    以下ネタバレ。

    当時はまだ部屋にテレビがあり、しかしインターネットもあり。当時のテレホーダイでモデムをピーヒョロ言わせてインターネットしていた。そんなある日の、その日付の変わるような時刻に。東風荘で遊んでいたら、チャットがにわかに騒々しくなり、今すぐにテレビを付けろと大騒ぎになった。そこで自分は二機目の突入を目撃する。朝までニュース見て、そわそわしながら眠りについた。あのテロからもう15年が過ぎた。まだ15年というべきなんだろうか。15年前、世界中に生中継までされた事件の真相がいまだに朧げだ。一応は首謀者と目されている男を、軍事力の権化みたいなことを言って殺害したと。

    ところで1945年からは70年が過ぎた。(※この映画の公開は2004年)

    アドルフ・ヒトラーはおよそメディアと歴史教育が存在する処ならば知らない人もいないでしょう…。この作品は敗戦濃厚になってからの彼の最後の日々にフォーカスした物となっております…。実際にその場に居合わせた人物の証言などを基に作成されていて、内容としてはまあまあ史実に忠実なもんなんでしょ。と言っても映画なので細かいところはいろいろあるんだろう。例えばこう…作中で、秘書となった実在の人物がヒトラーに対し強烈に敬愛し信奉する姿が果たして映画の演出なのか、過去に実際そうだったのか。だってあまりにも芝居臭いというか…。いや芝居なんだけどなんかこう、うーん。

    実際にヒトラーの周囲にいた人はああいう感じの人も多かったのかもしれない。近年よく目にする話だがヒトラー治下の政策面に於いては、評価しうる点が云々とか。すべておじゃんにするほどの決定をしたのには総じて間違いないが、熱狂的な人気により政治的に不当な手段もなく(個人的にはそういうイメージ)独裁体制を築いたとされるほどには支持が篤かった。これもまた史実だろう。

    あー高校の時世界史の先生が言ってたな。「我が闘争」とか単に努力家なだけで半端に成績が良いような奴が読むと、何かに染まってしまうとか。努力家ではなかったのですぐに読めば良かったんだがまだその機会がない。さておき。

    第一次世界大戦に於いて敗戦国となったドイツの、見返してやらんとか早く元の生活に戻りたいとか、そういう期待のもとに、いわば正当な英雄でもあったヒトラーの最後の姿、ヒトラー役の人の演技が実に見ごたえある。そら特定のシーンがネットで広くパロディされもする。凄いインパクトだ。情熱のままに第三帝国なんぞ作りつつあった英雄が、徐々に疲れ切った老人になっていく変化も見事なものだ。ゲッベルス役の人の顔もインパクトが凄い。

    こうなるとそう、同じように15年前に、我々は屈しないだのなんだのと宣った当時の大統領も、その生涯が英雄としてこういう映画にね…。ま、ならんだろうなあ。もっともろもろ明らかになれば何かね。「ルース・チェンジ」が正解だったなんてこともあるのかもよ。あゝ真実はまだビルの瓦礫と”茂み”の中にありて候。

  • どくしょかんそうぶん

    “The Usual Suspects”を観た

    噂に違わぬ傑作。

    ネタバレ致命傷なのでお気を付け。しかし見終わってからならネタバレ情報が最高に楽しい作品でもある。

    これは見事。最後まで見た後に脳内で巻き戻してみると、何かこう納得のいく場面が、場面が…出るか??みなさん出ますかね?自分はamazonプライムで見たので、一時停止でも巻き戻しでもなんぼでも出来るんだけど、こういうの劇場で見た人はどうなんだろう…。あ、それでDVD売れたりすんのか?

    一つの疑問が。wikipediaなんかにもあらすじ書いてあるんだけど、五人が一堂に集められて、「面通し」させられる場面。これ自体が黒幕の仕業であった、と作中で推理されるんだけど、ここでの内容に疑問が。一同がおなじ檻に放り込まれて会話していると、その一人から「仕事がある」と持ち掛けられる。その仕事から、さらに次の仕事、さらに黒幕からの脅迫とつながるんだから、その仕事を持ちかけるのは黒幕の手のものでなくてはおかしいのではないかと思うんだが?仕事を持ちかけたのは確か…。ここも”回想”だったってこと?

    この映画、ある人物が問い詰められて回想している内容にそった映像で殆どを作っているのに、その回想自体に嘘が含まれている、という凄い大技を仕掛けている。全部嘘じゃ話が成り立たない。成り立つのかもしれないけど、映画としてなしだろ。一本全部嘘の回想でしたって。夢オチかよ。そんな筈ないだろ!ってツッコミがあったとして「だって嘘の話が含まれる回想の映像化ですから」で終わってしまう。しかしそれでも、実はその嘘(≒XXXは誰かという真実)に観客が気付く可能性がごく僅かに仕込まれている。これはネットで情報を見て、その場面をもう一度見返した。うわわわわわ、ってなった。ところでこの感想文書こうとして調べたら、アガサ・クリスティーが似たような事してて、そりゃないだろ!って論争になったんだと。へー。そういえば東京大学物語という漫画があってですね、あ、いいですかそれについては。

    こういうミステリーとか推理もの、見ながら覚えることが多くて好きじゃないんだけど、最後の謎が解けたシーンは流石にうひょーーー!ってテンションになった。特に直前の一連のシーン。尋問をした相手が解放される→尋問した刑事が同僚?の机を見て、「散らかっているな机片付けろよ」→同僚「離れて見るとわかるんだ」→尋問した刑事がなんとなにし壁の掲示物を離れたところから見る→何かに気付く。

    いやー堪能したわ。堪能してググったりしているうちに、あることを思い出した。この映画みたいに、あっ!って思い出した。そのままの勢いに、年末だし集まろうぜなんて旧友に連絡をとって集うことになった。あっ!て思い出したというのは、この作品をお勧めされた時の事。最初にこの作品を耳にしたのは、その旧友のグループの人物で、もう19年前だ。まだ大学生。卒業後に交流はなかったのだけど、映画で上がったテンションのままに勢いだけで声をかけたら5人集まってくれた。もうみんな社会人だから、ちょっとリッチに感じのいい個室の小料理屋。言い出しておきながら自分の選んだ店ではなかった。さて、この映画が傑作であったという話をするタイミングを伺う。いくらなんでもそのために集いました、ではなんかこう…。しばし思い出話が続くなか、もののけ姫みんなで見に行ったね、なんて話になった。ああここだ。「この映画、実際に傑作だった!」と切り出してみた。まったく以てみんなにぽかーんとされてしまい、長々と説明する羽目になったんだ。するとどうしたもんか、実は一人を除いてみんなこの映画知っていた。そこで、また勢いのままに、作中のあの「面通し」の物まねをして、爆笑した。順番に「キーをよこせチンコ野郎」って。阿呆なノリって青春なんだよね。

     
     

    そしてその一人から「仕事がある」と持ち掛けられた。