ふでのゆくまま

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    富士山マウント

    登った事ないですし、年齢とか自分の体型とか考えても、気軽に「トライしてみようか?」とは思えない。それなりに鍛錬しないと危険が危ない。まずは高尾山あたりから頑張ってみるか、なんて気軽に言うと山を舐めるなと怒られるのかしらん。坂なら何度も登頂したけど、これじゃだめ?神楽坂とか。

    いろいろあって、富士登山に制限かかかるかも、みたいなニュースを目にした。これでは猶の事登る機会はないだろう。「えっ!?ずっと東京に住んでて富士山登った事ないんですか?」なんて言われるような日がいつか…えー…いや実は既に言われた事ありますが。「見た事はあります!」とか「食べたことはあります!」とか「〇〇山ならあります!」とかくだらない抗弁をすることになるだろう。ううむ。身を切る覚悟やよし。

    ネットで見事な富士山の画像を見ることがちょくちょくある。アウトドア派の人とか、海外からの観光客なんかが撮ったものが多いように思われる。だから大体同じような画像ばかりではあるのだが、今回はたまたま、今までに見た事がないような画像に出会った。真ん中にどーんと見事な富士山なんだけど、その手前側には町並みが続いている。橋の上、歩道から撮られた画像だった。こちら。

    場所の特定を試みる遊びも好むところではありますが、google画像検索を試してみる。画像ファイルのURLを抽出して検索すると「富士山夢の大橋」という検索結果が応答された。富士市にあるらしい。なんなら、近くを東海道新幹線も通っていて、なぜ今までこんな見事な画像を見た覚えがないのか不思議な気もするけど、確かに、富士山の画像を自発的に探したことなんてない。

    グーグルマップのレビューによると遠くて駅から歩けませんなどと書いてあるが、徒歩30分ほどの距離で、どうってことない。うーん、これは実際に行ってみようじゃないですか、となったんだけど、今年のGWはお仕事が少し入ってしまって、お出かけの気力がなかった。終わってから考えてみれば慌ただしい予定にはなるけど行くことはできた、勿体ない。

    画像を見ての通り、この辺にお住いの方々には日常的な景色。この辺りもおそらくは戦国時代ぐらいにはある程度人口あっただろうと…見込んだけど、どうやら湿地だったようだ。歌川広重の東海道五十三次「吉原」に描かれているところでは、街道一本だけ辛うじて原っぱの真ん中に通っているような印象。宿場の周りは流石に賑わいがあったことだろうと思う。江戸時代ぐらいになると、当時の人も富士山登った事あるのないのと話したりしたんだろうか。江戸のころには富士登山ブームが何度かあったと聞く。伊勢参りの旅とかも一つの憧れだったとかあるらしいし。こんな裾野に住んでいる人々は当時どうだったんだろう。噴火の時も無事では済まなかったと想像するが。

    はい。行けるはずだった小旅行に行けなかったという愚痴であります😡😢

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    $helter 111

    東京都が配布している防災の小冊子。目を通すだけ通す。いかにもご尤もです、という内容が書いてあった。「東京防災」というタイトルだが、内容はほぼ全編が地震災害のものだ。地震というものはそれだけはっきりと、特定のリスクとして計上されているんだろう。過去の歴史を見てもまあその通りか。これは行政の立場だけではなく、我々一般市民の立場でも同じことで、都民は建物がひっくり返るような地震が絶対に起こると確信を持ったまま暮らしている。そしてどんな備えをしようとも、いつ起こるのかはわからない。もし外にいる時だったらその瞬間に適切な行動をする必要があるが、とてもできる気がしない。こういう冊子に載っているような情報を駆使して生き延びる必要があるのだ…が。地震のリスクを思う時に「生き延びる」なんてことまで真剣に考えるぐらいなら、住まいを移すことを真剣に考えたほうがいいんじゃないのか。移すって…どこに?

    3Dプリンターで建てる家のニュースを初めて見たとき、これに興味を持ったとしも実際に買う人がどれだけいるだろうと思った。単に金銭の問題なら、買うだけの予算がある人はいくらでもいるだろうな。しかし本当に住居として選択することは無いんじゃないか。例えば広い広い庭をお持ちで、片隅に来客用の離れを作るとか?自分にこういう家を買う機会があるだろうか、というのは以前にも考えた事があった。まずは土地が必要。これについて心当たりは全くない。土地の広さはあのプリンターハウスが収まる広さで十分。それだってとんでもないお値段。土地は借地でも良いからあのハウスに住みたい!とまでは思わない。じゃあ賃貸で良くない?そもそもが持ち家なんて真面目に検討したことないんだよな。

    今のところは「早かろう安かろう」というだけかもな。このプリンターハウスの起業した人の意見には賛同できる。なんで必死に稼いだおちんぎんが家の借金に消えるだけなんだ。そんな人生で良いのかって。一方で、まともに家を建てればそれなりに時間と予算がかかるのが当然である、とも思う。結局のところはお金があれば済むだけの話だ。はぁ資本主義。災害の備えだってそうだ。うちには地下シェルターがあります、というご家庭どのぐらいあるのかな。

    つうか家の本質はシェルターやろがい。コスパどうこうの話を進めていったら、住まいを持たないか地下シェルター(あるいは地下とは限らなくて良いのかもしれないけど)に住むのが良いのではないか。採光、眺望などいろいろ付け足していった結果、みんなの家は地上に生えているのだ。…実際は地下シェルターの工事のほうが家より高いのかなあ?

    こんな馬鹿話を書き綴っているうちに、調べもの始めてしまう。すると、自宅の1部屋をシェルター化するという方法なんかもあるらしい。「シェルター」設備の内訳もいろいろあって、毒ガスや放射性物質を浄化するフィルターとかずいぶんガチものの設備も。あるいは地球に人を乗せて戻ってくる小さなPODみたいなものから、浄化装置などに乏しいどっちかというと防空壕とか金庫みたいなものまで。思ったよりバリエーションがある。国際的なルールがあるわけでもないだろうし、例えば宇宙ロケットの設備みたいな物理的にこう作らないとそもそも成り立たないという縛りもないだろう。そして幸いなことに人類はまだ本当にシェルターが必要になる事態を経験してないから、どこに最適なバランスがあるのか把握しかねている…のかな?

    ところで記事タイトルはfallout4というゲームに出てくるシェルター設備、vault 111から拝借しております。あのゲームでは冒頭、(ネタバレ)が起こって近隣住民と一緒にvault 111まで避難する場面がありました。裏山まで駆け抜けるというぐらいの距離。あんな風に、普段の住まいと避難場所両方が十分に存在するのが良いんだろう。各個人がバラバラに生き延びるよりは、ある程度の社会丸ごと生き延びたほうが未来に繋がる気がする。わたくしのように生き延びる価値に乏しい人間もおりますけどもーーー😢

    それっていわゆる国家では。レンガの家よりも、狼が襲ってこない村のほうが必要なんだろう。しかしまあ…流石に夢物語か。世界が平和でも呑気に散歩しているときでも地面は揺れるってんだからな。杞憂の故事成語にもあるとおり、心配しててもキリがない。どこかの段階で、これは諦めるとか、ほどほどにしておくという判断が要る。結局現実的に必要なのは知識とお金と健康体。

    というわけで、シェルター住まいは諦めて非常持ち出しリュックのメンテ。何年も大まかな構成が変わってないが、確実に自分の体力が落ちている。以前も当ブログで書いた気がするけど、冒頭に出てきたような防災系の情報源では、15Kgの重さにしましょうってガイドを見た事がある。このリュックも大体それぐらいの重さの筈なのだが、これを背負って避難できる気がしねえぞ…これもメンテの度にぼやいている。水と食料もいくらか入っているとはいえ、やはり重すぎるなあ。実際に背負って1kmほど歩いたこともあるには、あるんだけど。

    知識と備品のアップデートもしないとなあ。モバイルバッテリーはこの10年でずいぶん軽く、容量も増えた。これは助かる。でも水や食物は宇宙が閉じるまで同じような重さだろう。水1Lは1Kgだ。軽量化しすぎて必要なものが荷物に無いと、結果としては命のほうが軽くなってしまいまんがな🤣🤣笑えないわ。

    家やシェルター建てるなんてレベルではなくても、何かしら「今の備えが破綻したあとのバックアップ」も考えておくべきなのかな。それこそ杞憂か。

                                             

      

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    箸を買い替えた。

    一人暮らしを始めてしばらくは割りばしだけで食事していた。その後、いわゆるマイ箸を買ったのはいつのことだろう。おそらくはそれが人生で初めて買った箸だった。今ではコンビニで弁当買った時にもらえる箸も、丸みのある竹の箸が殆どだと思う。当時はスカスカな感じの木材で、角ばっていたと記憶している。そんな割りばしは頼りなく、重いもの持ち上げると折れたりしてさあ。でも、しばらくはそれだけで済ませていた。

    今でもコンビニめしをまあまあ利用するので、毎回箸をもらっていると割りばしが増えていく。何も言わずに袋に入れてくれる店員も多いよね。外で食べてそのままゴミとして捨てるのではなく、家で使うことが殆ど。だから割りばしを一回で捨てるような事もなくて、何回か洗ったりして使うんだけど、体感で1週間ぐらいは余裕で使える。なんならもっといけるんだろうけど、燃えるゴミの日に目に着いたら捨ててる。これって意味のない消費、つまりは浪費をしているなあと思うので改めたい。店員さんに「お箸要りますか?」と聞かれれば断るのは容易だ。しかしこちらから箸を要らない主張するのは伝える間合いを測ってしまう。店員さんは余計なことをしているのではなく、当然のサービス業務なわけで。そこでセルフレジ。これなら勝手に袋に箸が入る事はない。しかしコンビニではセルフレジをやった事ないなあ。あれどうすんだろう。それに、例えば閑散とした店内で、店員もレジで俺が商品を持っていくのを待ってる、みたいな時に、スルーしてすぐ横のセルフレジへ歩むの気まずくないだろうか。その気まずさの懸念は手際よくお会計済ませることができるかという不安にある。2024年にもなってこれだよ…。

    スーパーのセルフレジと同じじゃないのか?としか思えないが、調べてみると例えばファミリーマートは実にやる気のない公式コンテンツで萎える。「e-taxで確定申告が簡単」みたいな実際利用した側から言わせれば納得のいかない説明がかくかくしかじか…ではなく、さらっと書いてある。これは不安を覚えるぞ。改善せんのかね。

    https://www.inq.family.co.jp/familymart/QA_Customer/web/knowledge538.html

    しかし2024年なので、ネット上には市民の手による情報があふれているのでありました。バーコードで商品管理している以上、どこでも必要な事は一緒だよな。ちょっと手順が違ったりするだけで。

    https://smakko-cashless.com/familymart-selfcheckout

    まあいつか試すとして。

    なんならレジすらない、店員もいない店舗もある。使ったこともその予定もない。利用には事前登録が必要だから、見かけてフラッと立ち寄ることもできないし、何度も利用するのでなければ事前登録なんてしない。何度も利用するかどうかは場所と品ぞろえ次第だが、その点は住まいの近くのコンビニ、スーパーに勝てないもんね。家で使うものだったら、ネットで買って届けてもらうのがさらに便利。「レジすらない、店員もいない店舗」だって、そのうち配送オプションが利用できたりするんじゃないの。

    そんな配送で大変お世話になっている運送業者に働き方改革がやってきた、ということらしい。少し前から世の中にインパクトが大きいであろう政策ということで、ニュースなんかでも取り上げられていたように思う…。当然のように最初はうまくいかないんだろうなあと思うが、実情は無いもわからん。街中のコンビニやスーパーの納入トラックは今まで通りに見かける。ネットでのお買い物が届くの遅くなる、ぐらいなら自分は全然かまわない。そもそも、翌日中に家まで届く、というサービスが異常だった。日付指定がちゃんと機能するなら、大体のものは一週間かかっても問題ない。もっと急ぐものがあったら、それは自分の足で買いに行くに決まってるんだ。箸とか。

    しかしね、運送業者全般の業務に影響があるなら、店舗までの商品の運送だけでなく、工場への資材の運送にも影響あるんじゃないか。そもそも生産が滞ってしまうなら、近場の商店へ足を運んでも売ってないかもしれない。ネットで買い物したときや、引っ越しの時にお世話になる、自宅の玄関に訪れる運送業者ばかりを思い浮かべてしまう。実際は、もっといろんな物が港から工場、工場から倉庫とそこかしこに運ばれているのでしょう。

    だから自分で作れるってのは凄く便利なことなんだなと思う。よーするにDIY。もっと現代っぽく言えば例えば3Dプリンタで実用品を製造して自分で使ってるなんて人も、結構いるんじゃないかなあ。箸とか。

    菜箸も買い換えた。シリコン菜箸の先が溶けるかなんかで、中の金属がむき出しになっていた。それに気づかず、フライパンの表面傷だらけになってもうた。まだ新しいのにクッソ悔しい。

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    さくらを背負う人

    春でありますので、桜が咲いただの引っ越ししただのという話題を目にすることが多くなります。退職したというのも増えますね。退職エントリでよく見かけた例の中華料理店の画像、今では誰も使わなくなりました。店舗も確かだいぶ前に閉店。

    新人さんって、どこからそういう雰囲気出てるんだろう。新社会人とも言う。そっちのほうが使うか?スーパーに買い物行ったら、そんな人がいた。客観的に見ればただ若い人がスーツ姿でお買い物中であるだけなのに「おっ、新人さんだ」という気配を感じ取ってしまう。じゃあスーツ姿じゃなかったら、そんな気配を感じないのかと言われると、これが、本当に感じないような気がする。例えば大学生だって「この春から上京してきました!」という若者がめちゃくちゃ沢山いるはずなのに、ほとんどわからない。

    では、その新人気配とやらはスーツ姿から出ているのか?試しに先ほどの新人さんとそこらの人の服装と着せ替えをしてみればー…なんて想像していたら、その新人さんの様子が、風体が、瞼に沁みついてしまった。なにやってんだ。自分が良く行くスーパーだから、おそらくここ半年ぐらいのうちには、もう一度見かけるんじゃないだろうかと思う。あの人、その頃にもまだ新人っぽいのかなあ。

    どんな視点やねん。しかし実際には自分のほうが半年後には忘れているだろう。哀れなアラフィフ族でありんすね。もし、来週に見かけたら覚えているかもなあ。今後も定期的に見かけては「おっあの新人だ」と思い、やがては「おっ新人感がなくなった」と感慨深く見つめながら木綿豆腐を買う。

    何言ってんの。

    タケノコ水煮を買って、適当にスライス、キャベツと豚肉とで野菜炒めにして食べる。春っぽい食べ物はやはりこれ。実際いつでも買えるけどやっぱり春先はこれだ。しかし食べ方が雑だよなあ。もうちょっと和風の食べ方をするのが、礼節ってもんだろうか。次はこんにゃくと鰹節で煮ものにするか。来年の春に売られているのを見かけてもそんな予定は忘れているだろうけど、もし来週見かけたら覚えているかもな。

    葉っぱごと食べるのかどうか、というやり取りを眺めていて、桜餅と柏餅ってなんか違うんだっけと調べると、包んでいる葉っぱが桜と柏の違いだった。当り前すぎて草餅はえた。こいつらを両方買ってきて衣を交換してやりたいなどと企てるも、柏餅しか売ってない。後ほどコンビニで桜餅を見つけるも、葉っぱが無い。あれはしょっぱい葉っぱごと頂くものでしょう。考えてみれば柏餅だけでも買っておけばいいのにな。要領の悪さ。新人か。

    あとはやらせ要因の「サクラ」と「桜田門」(警視庁)を取り出して何か書くかとおもったけど、思いつかねえし、春の話で引っ張るには時間も待ってくれねえのであきらめた。きtgい(精神状態の安定を欠いた人)が増えるという風説には言及の予定なし。手の内を明かす素直さを新人さんに見習ってほしいが、残念こちらはやけくそとなっておりますぞ。

    春はやけくそ。やうやうほむらだちたるぢょうちょ、みずたまにはぜて、きちがいだちたるひとの、りひのほそくたなびきたる。

    ちりぬるを。

  • どくしょかんそうぶん,  ふでのゆくまま

    「たけくらべ」と「舞姫」読んだが

    樋口一葉の「たけくらべ」が青空文庫にあった。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html

    冒頭に目を通してみたが、こんな古文調?の文章だとは思ってなかったので面食らう。平家物語じゃねえんだからさ。なんかおかしいなと思って、読む前にいろいろ調べてみる。まず、太宰治とか芥川龍之介あたりと同じ、あの辺の時代の人だろうと思っていたが、実際は作品の発表時期が30~40年ぐらいずれている。芥川龍之介の「あばばばば」が1923年の作品だそうだ。また太宰治の「走れメロス」が1940年。いっぽうこの「たけくらべ」は1895年ですって。このたけくらべ、ぱっと見で採用されている単語がまるで芥川、太宰とまるで違うじゃないですか。自分の見識では「一緒の時代」で括ってよい程度の差なのか判断に迷うが、これだけ”文字”が違ったら別もんでよくない。

    たけくらべだけvsその他全部でくらべてもしかたないので調べるのはこの辺で一旦たなあげ。たけくらべ だけでくらべて こしくだけ たけやさおだけ よんでみるだけ。あっはい。で。上記のように作品について調べるついで、当時の出来事は何でしたかと漁ってみると文明開化があった。1870年ぐらいの出来事らしい。なんでも、1872年には鉄道が走ってるし、その後すぐに苗字を名乗れとかちょんまげやめろとかお触れが出ている。ちょうどそのころ生まれた一葉女史には影響は大きかったのかね。そもそも「女性が書いた」ってだけでも珍しい時代だったのかもしれない。大正デモクラシーもまだまだ先なのだ。それでも文章が芥川と比べてまるで違う。何があったかね。

    んで、「たけくらべ」が結構みじかいと気付いたのですね、青空文庫を開いているブラウザの、スクロールバーのサイズ感で。じゃあ拝読してみれば良いのはなし。2時間かからぬぐらいで拝読したのですが、あまり理解は追いつきませんでした。とりま実績解除ってことでよろしく。

    こういうのを教養って言うんでしょうか。作中、下駄の鼻緒が切れて弱っているところに、知人が通りかかり、俺の下駄はいてけって渡す。自分はこの場面が見事に漫画的表現で絵が浮かぶわけです。白土三平…ってカムイ伝しか知らんけど、ああいうの。横山光輝の三国志とか?そういう雰囲気の中で人物がやり取りをするような絵がうかぶ。だから、下駄をくれたのはやさしい呂布みたいな🐻男であって、下駄を受け取ったのは諸葛瑾みたいな書生ふうの…。でも、ちゃんと知識があると、もっと本物に近いというか、別の様子を思い浮かべるんだろうか。なんで太宰や芥川と文章が大きく違うのか、そんな理由も知っているのか。自分は「鼻緒が切れて弱っている」がどういうことなのあまりピンときてない。あの親指と人差し指の間の紐が切れたってことであってますか。

    えーと、流石に読みにくくて難儀しました。若者の群れが連れ立って喧嘩したり青春してたような話だった。んで女が拗ねた?恐ろしき理解度の低さ、これ教養って言うのでしょう。ぐぬぬ。

    では、この時代の他の作品も読んでみれば、ちょっとは腑に落ちる見識も得るかもしれない。じっさい一葉と面識があり、結核の治療も面倒見たという森鴎外。「舞姫」の発表年が1890年だったので、こっちはどういう文面かと探してみたら、これも短い。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html

    読み終えまして。人の勧めるままに身の振り方を決めていたら、自分の子を宿した女を捨てることになった、みたいなことか。貴方仕事と私どっちを取るの?どうしても古文ジャンルの文章に近い印象がぬぐえない。源平のころから文明開化まで、文学ってなかったのか。そもそも小説ってジャンルが存在しないのか?自分の教養で、調べなくても江戸時代のものだろうと推測できる書籍って「奥の細道」と「五輪書」しか思いつかない。歌舞伎は都市部で人気だったと思うが、その台本?原作?みたいなもんが流通したりしなかったんだろうか。流通っていうてもな…活版印刷無いもんな。瓦版?

    あるいは…話し言葉まで含めて大きな変化があったの?話し言葉を文章にする発想がなかったのか?

    ここで「東海道中膝栗毛」の存在を思い出し、読んだことも一応はあることを思い出す。現代人に読みやすい表記に改められたものと記憶している。これはスラスラ読めた。wikipwdiaによれば1800年ごろの作品だ。どんな文体で書いてあったのか探れないだろうかと思ったが、青空文庫には無かったのであります。なんでもかんでも収録されるわけではないんだろうけど。

    文章にする言葉ってなんなのだろう。自分だって、日常話す言葉とこのブログで使っている言葉が完全に一致するわけはない。「話す」言葉なんだから、単語・表現の選択にはその話相手と、場の空気感みたいなものが如実に反映されている筈。手書きの日記は少々話し言葉っぽいかな。例えば「今日はしごとの出来栄えがうんこだったのでストレスマックスうんこうんこ」きょ、教養…。

    この時代の作家について参考文献。国会図書館なあ…。死ぬまでに一度は足を運んでみるかしら。

    https://www.ndl.go.jp/portrait/pickup/003

    あら?膝栗毛あるやん。

    https://dl.ndl.go.jp/pid/878435/1/2

    表紙は明治16年とあるように読める。1883年だ。たけくらべよりだいぶ古い。

    もしかしてたけくらべも舞姫も、こういう文体にしようってネタだったりしねえかな。現代でもムツカシイ言い回しや言葉を使う作品あると思うけど、そういう類の。

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    オチがよわい。トルチョック。