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本一冊さがそう
あるコミック作品を、おそらく、最終巻だけ読んでいない。恐らく、というのは作品のストーリーの結末を知らないからという事と、自分が中学生の頃の事なので、何巻まで読んだのかということを正確に覚えていないからだ。ところがストーリー自体はくっきりと覚えている。それを基にネットで情報を探り、最終巻とその前数巻の表紙画像なんかを見ると、やはり読んでないのは最終巻だけだろう。
実は数年前に気付いてはいて…どうやって読もうかなんてたまに考えていたんだけど、折角だから色々可能性を模索したいうわけだわね。数十年前の作品であるので、そこいらの書店においてある筈もない。そこでまず考えたのは漫画喫茶。いまはネットで店舗の在庫が検索出来たりする。何個かメジャーな店舗を探してみたところ、1店舗だけ見つかった。都内の店舗ではあるものの…一冊だけ読みに行くのかと言われれば…いかねえよなあ。移動時間と交通費と漫画喫茶の料金。では次に、中古書店はどうかと思えども、同じ理由でどこに置いてあろうと素直に買いに行くつもりにはならない。
国会図書館にはあるのだろうか。すべての刊行物があると耳にしたことはあるんだけどな、こんな漫画も?しかし国会図書館は、別件で調べてみたことがあって、事前に登録だのなんだの必要なものが多すぎて行く気になれない。結局ネットで買う、みたいな事になる。数十年前の特に希少価値もない、普通の漫画本が欲しい、なんて実際かなり難しいはずだ。インターネット凄いですね…いつもの話か。ツマンネ
もうちょっとインターネット凄いに寄せるならば、「持ってる人読ませて!」とか言い出すほうが凄いのか。まあ、漫画喫茶まで行く時間と出費を惜しんで置いて、この試みもないよね。ネット価格、800円ほどで手に入りそう。まーちょっとした自分のクリスマスプレゼントつうことでね。
本気の自分クリスマスプレゼントは、カメラ買いました。ヲホホ、、、。
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“沈黙”を観た
ウォッチリストに入れていたら、いつの間にかAmazonプライムの無料枠になっていたので慌てて拝見と。もちろん以下ネタバレ。
テーマとしては何をいまさら感のあるもの。「神は何も言わなくなった」なんて初期の大友克洋の漫画にも出てきた台詞じゃないかな。言わなくなって何年にもなる。これは1980年代かしらん。ニーチェという哲学者は「あいつ死んだんじゃね?www」などと言ったとか言わないとか。物語の舞台はキリスト教を禁じた時代の日本。とっても苦難の道でした~というお話。そういえばこの「沈黙」の原作である遠藤周作の小説は、ブックオフで買って読んだ事がある筈なんだが、何一つその記憶に結び付く場面がなかった。本当に読んだのかね。自分の記憶も何も言わないものでありました。
さて、現在、ここ、日本。
都市部では街中に教会を見かけることも珍しくはない。ご近所の景色を思い浮かべると…自分が日常的に徒歩で買い物でもする圏内に、二か所ほど教会の存在を確認できる。となれば、教会自体がそこまでレアだという訳でもない。それでも、”日本人で”クリスチャンという人には人生で二度ほど出会ったことがあるだけ。数は少ないよ。休日に教会の側を通りかかるとき、中で礼拝のようなことをしている様子を見かけたこともあるが、そこには西洋人の顔が必ずあった。映画の様になにか使命を帯びて日本に来ているのかもしれないし、単に日本に移住してきただけかもしれない。彼らのお仕事なのか日常なのか、何とも判別は出来ないが、いずれにせよ教会でのイベントごとを日本人だけで何か行っているという印象がない。現代の日本でクリスチャンが一般的である、とは言い難く、なんなら物珍しいぐらいは言っても誤りではないのではないか。
大航海時代の幕開けと共に、教会の関係者が現地を訪れ布教を試みた筈の地域は、現在どうなっているだろう。日本もだいぶ時期がずれてはいるだろうが、アフリカとか南米と同じように教会関係者の西洋人がやってきた地域ではある…。当時日本の様に諍いがあっただろうか。今は南米、南アフリカはキリスト教に染まってしまった。日本ではそうならなかった、その原因を、作中のような江戸時代の政治的判断だけに求めて良いものだろうか。いや、その疑問に答える趣旨の作品ではねえと思うんだけど、この宣教師を野良のクジラに見立てたような思想をする人がですね、云々。
作中の「英語を理解する日本人が沢山いる、なんなら貧しい村にも」という設定は映画の都合すぎてズルい。サイヤ人が地球の言葉理解するみたいな。もうエスエフを感じてやまない。そんなわけねーだろってなる。他の村と道が繋がってないような海沿いの山間で…。当時は文字だって読めない人が殆どだった、というのが自分の知る処であるが、どうだろう。ま、そのぐらいのご都合は映画なんだから世の中にいっぱいある。あるんだけど、この宣教師と日本の人々のやりとりは、この作品のメインの部分じゃないかと思う。それをこんな違和感を覚えたままで消化するしかないのか…。あっ。よく考えたら原作があるじゃないかこれ。原作もこうだったんだろうか。ポルトガル人(?)が日本に来て英語で農村の村人と会話する。史実はどうだったんだ?キリシタンは実在したんだろうけど、宣教師と会話??
映画自体は面白いと思うけど、”転んだ”宣教師とのやり取りの場面もなんとなく迫力欠いたなーとか思ったり、先に挙げた言葉の問題もあったりして、いまいちスッキリしなかった。エスエフではなくてもフィクションではある。わかっているけども。文字表現だと何故かペラペラ会話が成り立っても、その描写を読むこと自体に違和感は憶えない。ところがこうもはっきりと映像にしてしまうと怪奇にすら感じる。胡散臭いわ。史実はどうだったんだ。宣教師など来ていない、ぐらいのほうが真実味があるのではないか。
クリスマスがもう近い。結婚式はチャペル、新年の祝いは神道、死んだら仏教。柔軟なのか節操がないのか混沌なのか。100年内戦が続いても元首は形式上は敬われ、おそらくは面倒事を押し付けられるような恣意的な利用されたりもしつつ、曰く、少なくとも1000年の歴史がある。まもなく200年ぶりの譲位イベントだ。それが神様扱いでもあったんだってさ。人間である、などと宣うも、未だにその位のものだけが執り行う宗教儀式があるとされている。あの神父たちはどう思うだろう。
えーと、その他作品の内容としては音楽がやかましくないのがとても良い。あとイッセー尾形もさすがに歳を取りましたね。しかし兎に角、スムーズに会話がされている事自体の違和感は日本人なら拭い切れますまい。これにつきるかなー。
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はたと見上げる
舞茸を食べたことはあるが、買って調理したことはない。炊き込みごはんに入ってるやつだろ?それ以外に食べた記憶もない。山ほど安売りしていたので、お買い上げして適当に炒めて食ってみたらくっそ不味くてビックリしたという今年一番のご報告です。調べれば確かに「えぐ味が強いです」とは書かれていたけどさあ。
なんて事のない普通の通りを歩いていると、万国旗だ。紐に小さな国旗が順に括りつけられているあれだ。あたりを見渡してもこれといって何かイベントの風情もないのに、電柱から電柱、ときに街路樹に結ばれて、100mほども続いていた。反対側の歩道も同様であった。何かローカルなイベントごとの準備だとは思うのだが、万国旗だけでは見当もつかない。きっと後日、その理由がわかるような事が執り行われたことでしょう。一月ほど後に通ると、撤収されていた。万国旗は借り物だろうか。何処かにしまわれているんだろうか。
万国旗などいつ以来か、さっぱり記憶にない。なんならはっきりと生で目撃したの、これで人生初だったんじゃないか。小学校の運動会なんかで使われていたかもしれないし、あとはなんかこう…フリマとかで景気づけの飾りになっていたりするイメージだ。これといって話が続かないので、インターネッツに万国旗情報を求める。いつものwikipediaさん。
手品でもシルクハットや箱から出て来るものとして鳩やトランプと並ぶ代表的な小物になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%9B%BD%E6%97%97あー…口から出てくるパターンありますね。最後に万国旗見た記憶はきっとそれ。
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“帰ってきたヒトラー”を観た
これはたまたまなんだけど、「沈黙」と続けてこれを観た。神は何故に黙ったままなのか、という作品と並んで総統閣下が庶民をまくし立てる作品を観るというのはより一層愉快でありました。もちろんネタバレ。
さてさて。これは風刺色の強いコメディという枠の作品ではある、と思っている。ヒトラー今ここにが戻ってきたらどうなりますかね?というテーマ。史実を知るものであればそら何か起こるでしょうという目論見となります。ええ、今ここにヒトラーが。
「いやあどうなるんだろうか」
映画の設定ではなく、ここに、街中に。貴方の隣に。
「えっ」
街中にヒトラーが出て行って会話する場面で、時折顔にモザイクがかかったりするのは、そういう演出なんだろうと考えた。つまりはいわゆるエキストラの人々であり、本当にそこいらの市井の人々ではないと。だってドイツではナチス敬礼の真似しただけで処罰の対象って言うじゃないですか。そんな明示的に表現の自由を制限するの、実は珍しいことなんじゃないの?そうまでして否定したい(しかし勿論無かった事には出来ない)出来事だという訳であります。街中に登場しても、当然カメラがいてクルーもぞろぞろと一緒に歩いているんだから、何か撮影中だとは理解するだろう。悪趣味で恥知らずで教育の足りてないユーチューバーの仕業と思うかもしれない。やはり、無関係な人々は、この度が過ぎた作品の関係者だと思われてはたまらないという感情になるかもしれない。ということは演出でもなくて、本当に顔を写してはマズイという意味のモザイクか?
はて?と頭の片隅では疑問に思いつつ続きを見ていると、後半には極右政党の人物本人が登場し始める。名前ググったわ。実物じゃねーか。ええ…これも台本通りの演出ですよね…?自分は打ち合わせして置いて、画面ではしてない体って演出は嫌いですよ?
こうして見ているうちに、街中の人々の何処までが仕込みで何処までがアポなしで本気なのか訳が分からなくなる。どうなってんだこの映画。気は確かか。いいぞもっとやれ、やいのやいの。どっかにメイキングの映像でもないものか。撮影クルーは襲われたりしなかったのか。
大人なら一度は、ヒトラーがどのように支持を得てあの立場に収まったかをおぼろげながら聞き知ったかと思う。ナチス政権下での国内政治は実に規範的に上手くいっていた的な話も一度は耳にしただろう。自我の薄い気真面目君に「我が闘争」を読ますとああいうものに染まるからやめておけ、みたいなアドバイスをどこかで耳にしたことは?
この映画では、もし彼が本当に戻ってきたら?こうなるのではないかという予感を現代を生きる我々にぶつけてくる。くだらないジョークや映画的愉快な演出でパロディの体裁は保っているが、見ていると、これは起こり得ると確信を抱いてしまわないだろうか。この思いは破滅なのか?希望なのか?彼は実在したのだ。
フィナーレではオープンカーに乗って街を行く。見かけた人々はどのような行動を取るか?なんでもSNSで拡散されていく昨今、撮影はこの場面が最初に為されたんでは?と訝しいほどに人々のリアクションがどストレートだ。それが現代あの土地で生きる人の自然な感情ということであり、彼の面影を模すること自体への評価なんだろうか。
総じてあの体験は人類にはネガティブなものだったという事になっている。一方で、”どちらか”に都合の良い事ばかりが取りざたされてきただろうことも事実だと思う。そしてこの映画で採用された場面も作り手に都合の良いものばかりだという事を忘れてはいかんのだが…。ともかく!時を経たからこそ言えることもある。さあ思い出を語ろうじゃないか。まだ語れる人はいるかい。
…いまだに顔写真の一葉で人類の歴史の一つの象徴だ。全く以て総統閣下は、—-。
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「築地ワンダーランド」を観た
思いのほか良作で、心の底がふわりとあったまる感激を覚えた。もちろん本作もAmazonプライムの無料枠で視聴。
最近移転してしまった築地市場を、結局訪れることはなかった。勿体ない話だ。刺身大好きなのになー。このドキュメンタリーはもちろん移転の前に撮影されたものであるが、移転の話に揺らいでいた時期でもあったのかもしれない。コピーライトには2016年とある。どうたったかな…?
作品のテーマは「仕事場を覗いてみよう!」という社会科見学ノリに留まらない。お魚のドキュメントというと、ベーリング海のカニ然り、船の上の漁師に物語が集まるような印象もあるが、ここでは”市場”の人々が中心である。水産会社、仲卸、板前、シェフ…。その歴史に魅せられた人々、給食に関わる人々…。
淡々と仕事をこなす様が静々と描かれる。世界一の鮮魚市場と幾度となく紹介されるも、画面は実に穏やかだ。ただの騒々しさは描かれない。仲卸人も、板前も、静かに力強く、築地の人々同士の信頼を、仕事の日々を語る。まるで史蹟の護り人。何度となく、漁師が命を懸けて獲ってきた魚を扱うその使命の重さを語る。そら実際のところ、現場では荒々しい場面もあるだろうけど、本作ではそういった一面を、落し蓋で閉じ込めることに成功している。とろ火。祭祀を眺めているようですらある。
これは実に良作で、お勧めです。くだらないジョークのないレビューと仲買人はは信用できる。ますます足を運ばなかったことを後悔するばかり。