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The mistを見たのス
最近映画見てないな、ということで。それ以外に見る動機はないのか。「後味が悪い」という評判だけで見てみた。具体的な評価は果たしてその通りか否か、という反応が書けるのでやりやすいですかね。
うーん…。以下ネタバレなどありますが、なるべくは隠す感じで。
個人的に「後味が悪い」とは思えなかったけど、いわゆるバッドエンド系。鬱になる系。
極限状態の人間関係をうんぬんという映画。その状態で人々が取る行動が、まあテンプレなのかこれがリアリティなのか。田舎町という設定が何かこう、人物像に絶妙に効いていた気がする。お約束のようい聖書を振りかざすキチガイの仰々しい演説は、自分はキリスト教と深いかかわりなく生きているのにも関わらず、それっぽいなあと理解できるあたり、ゲームや映画の見過ぎだろうか、あるいは世間の常識か。これが映画を見る嗜みか。
どろんどろんの人間描写でくたびれるかと思っていたんだけど、もっとパニックムービーっぽいというか。思ったよりもSFチックなのは原作者がスティーブン・キングだから?。実は見た時点では原作が彼だと知らずに見ていたけども、出てくる「敵方」がどれもキモく、ゲームみたい。その姿が割と序盤で明らかになったのは意外というか、映画の設定上最後まで謎なのかと思っていた。だからこそゲームみたいなのが出てきて、ちょっと拍子抜けしたというか。正直ね。
最後のシーンの一連はちょっと説明がつかないかなと思っている。確かに見ていてリアルに背筋の寒くなった稀代の名シーンと思う。「彼ら」が突然登場してちんたらと歩みを進めているが、あの敵方の見上げる様な、モンハンに出てくるような「アレ」はどう処理したんだろう?そこの理不尽さもまた味わいか。
作中に出てくる台詞で、「人は恐怖にかられると何でもしてしまう」というのは、エンディングの場面に繋がるのだろうか。エンディングの登場人物は、「アレ」を目撃するにあたり、もはや恐怖からは遠いところにいて、達観か諦観か、実に「理性的に」行動を決めたかに思えた。しかし実はあれは恐怖に駆られていたと。来るべき結果から、恐ろしさのあまり逃げ出したに過ぎないと。倉庫に並んでいた二人もきっと。狙ったものだとは思うけど、構成が家庭だよな。母と子、父親、祖父母。
我々も日々恐怖に駆られて生きています。大袈裟な、という人には不安から逃げつづけて生きるといえばよいかしら。求めるものは安堵なのです…。さあ何に縋って戦いますか、逃げますか。ああ、霧に囲まれた小売店こそ我が人生の全て、乾物の棚の裏で倒れる人を救えない、恐怖のうちに飲み干すお茶は美味いか?昆虫を踏みつぶした靴底を洗おう。
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さて次は何にしようか。
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桜するー
毎年ながら、一番いい季節がやってきた。今年は花見の機会に恵まれず、本日、良く晴れた休日、既に桜は散った後といった塩梅。そしたら酒でもぶら下げて公園に行くか、と思ったが、途中で買い物してたら両手いっぱいになってしまったのでキャンセル。洗濯物も溜まっていたりする。マジで寂しい暮らしだなおい。ご近所の通りも入園式と思しき親子連れでにぎわっていてうーんおかしい、そういうのとっくの昔に経験する筈の人生だったのになあなんて毎年思う。毎年て。解決しろや。
春先の定番に風邪をひくというのも毎年のこと。季節の変わり目はなんたらかんたら。毎年て。解決、は休むことなんだけどもどうにも今年はお休みにできなくて、だからといって当然ながら全く捗らず、無駄な感じの一日に。翌朝には熱が下がったけど、膝に力が入らない。この辺の感じも年取ると変わってくるのかね。
近所のコンビニで店員が子供を抱えた親に声をかける。「あら?足どうしたのお?」「折っちゃったんですよ」親の声に振り向くと、足にギプスを嵌めて抱えられている。「高いところから飛び降りちゃって」「あらー頑張ったのねえ」頑張ったってなんだよ、ああ治療を?棚からトマトジュースを手に抱えて、子供の顔を見ると、目が合った。親に抱えられた幼子の、視線の合わせ方はなんか独特な雰囲気を感じるのだが、これは抱えられているからこちらから見下ろす感じにならないから、だろうか。
桜だってブルーシートから見上げるような角度でなければまた、印象も違うやもしれない。ああそうだ、枝を折ってお家に飾ろう。イエノミで花見とはまた合理のつきつめ、次には桜の下で暮らす方法を考える。
春はあけぼの。住所不定。前科一犯(桜の枝折った)
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しゅんが終わればお亡くなり、
文章を書くことが趣味です、というと仰々しくてリアルライフ関連ではどこでも大っぴらには言わない~。もう惰性の感もあるけど嘘ではない。
最近面白い漫画に刃牙シリーズがあって、昨今のシリーズでは宮本武蔵を科学技術で復活させて、過去の一連のシリーズに登場した現代の猛者と一戦を交える、という話の筋になっている。という書き出しから何かをつなげようとしたのだけども、漫画の場面を思い出したら忘れてしまうほどに強烈なリシーズになっている…。毎度だけど、長いお話を書くのも読むのも不得手なのよー。はー桜が綺麗ですねー。よかったよかったー
冷静に考えると、文章を書きながら何をしているのが好きなんじゃないかという発想に至った。文章を書きながらなんぞ音楽でも聞いていたりすると、何の得にもならない時間の過ごし方、故に愉悦としたもんだ。洗濯機が止まるのを待つ間、人参に火が通るのを待つ間、電車で移動している間、最近(もうここ十年ほどしてないな)は全くしないけどお布団に潜り込んでから、またはお風呂にて。無尽蔵に溢れてくる”文章”を忘れる前に可視化するゲーム。可読化ではないので、図案だったりもした、というのも十年ほどやってねえ。文字を書き殴るのが趣味と言い換えたほうがいいのかこれ、書家か。しかしこうして皆様のお目にかかるようになってからは、書き殴るというのよりは不器用に海底をつつく甲殻類のような不細工さと死臭ただよわせて綴るものなり、あゝペンは剣よりも。
少し前に、震災から五年の月日が経ったと持ち切りだった。このブログのログを見返すと、2008年に始まっている。先ほどから十年、とか胡散臭くのたまっているように、実際面白がって文章を書くというのは10歳ぐらいの頃までさかのぼるんだけどそれはそれとして、このブログの歩みとしては2011年の震災以前と以降、以降のほうがその期間が長い。過ぎ去った日々にただただ驚くばかりだ。幸いして大怪我などもなかった。何かあったかと言われたら何もなかったと言いたくなる。長いお話を書くのも話すのも不得手。
覚えておくのはもっと苦手。故に細々書き記す。土にかえるまでのお慰み、振り返る事しかできないもののお嗜み、ゆえにもがりとしたものだ。私のお墓の前でRSSのフィードを読んでもないのに既読にしないでください。写真に動画に文字に残る。しかし今んところの仕組み上(※)、私がリアルお亡くなりになるとやや時を経てこのサイトが電子の輪廻に取り込まれる。具体的には読めなくなる。おもしろいじゃないか。
(※)要するに料金の支払が滞るためサービスの提供が止められるということです。
クラウドとは土にかえる仕組みの事なのです。人は大地を離れては生きていけないが、腐っているのは土なんです。
キリスト者向けの教会が教会たる要件はなにか。近所にあった教会がなくなったかと思えば少し離れたところに引っ越しており、この春からまた引っ越したようである。祈りを捧げるものあれば、そこに集う人のあれば何でもよいのだろう。集う人のためのものであることがわかるために、アイコンが必要になる。その教会は何かの店舗の営業所であったところに引っ越してきた。通りからガラスの引き戸を通して部屋の奥まで見渡せる。十字架が掲げられた棚のあたり、先月まで置いてあったのは営業許可証のような書類であったような気がする。都合の良いものを頂き給え、食っても痩せるものなどの類に心酔しましょう。
WE CAN CHANGEの人の出番もそろそろ幕を下ろそうとしているが、どうだろうか何が変わったのだろう。対岸の保険制度と金融ショックかしら。こちらの岸には飛翔体が降ってきている。外来語でミサイルと言います。中国もまた戦争を始めるつもりなんだろう。中東から石油がちゃんと入ってきますかねこれ。このタイミングでアメリカから石油のセールスが来ていませんか。何かが積もり積もって、何もなかったと、何も変わらなかったと言いたくなる。
仏陀よ遅いよ人類なら
はるかな昔に堕落したし
でっちあげとかほったらかしで
こじれてダサくてほどけない平沢進:Rukton or Die
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傘がある
折りたたみ傘というものはどのぐらい「もつ」ものだろう。
通勤時の鞄につっこんでおき、雨が頬に当たればいそいそと広げる。お休みの日に雨模様であれば、別の鞄に放り込んでお出かけするだろう。となれば大体毎日持つものだろう。…ということではなく、製品の寿命のお話。このかばんに放り込んだ傘、少なくとも三年はもった。もしかすると五年近いかもしれない。あるいはもっと?amazonさんで買った気がするので履歴を漁ったが出てこなかった。
大変に軽く、コンパクトで邪魔にならないけど、それがまた不満でもある。当然のこと、コンパクト故に広げた時の直径も小さい。濡れる。天気予報なり見て、外にいる時間にざんざん振りの日にはもうちょっと大きい傘(つうてもコンビニのビニール傘だけど、最近のは質も良く不満なし)を家から持っていくし、また外回りの仕事でもないので急に降られて困ることも殆どない。なので折りたたみ傘の性能なんて大して気にもしてなかったのだけど、ちょっとガタがきて新しいのを買おうとなると何がしかのスペック検討が入るわけでして。
デカいのにしてみようかと。
直径なんと120cmであります!!120000mm砲であります。ノドン何するものぞ!こいつをお買い上げ、部屋でエクスカリバーよろしくかかげた時にはニマニマしてしまう、ああ男の子、でっかい棒きれが大好きだ!いや猥褻な意味じゃなくて。広げてみたらこれまたでかくてテンション↑↑、たたんで鞄にしまおうとしたら入らず、膝から崩れ落ちたある春の訪れた一日でありました。
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外ポケットじゃないところに入ったのでそこに格納。 -
ごねん
幸いなる哉、大きな事故、怪我もなく、また残念なるかな檜舞台に称賛を浴びるにも値せず、結局はあの日ほどに印象深い日は人生に片手もない。…思い出してみたら両手ぐらいはあったな。私のような者の人生も案外味わい深く。いつかは終戦記念日みたいな扱いになるのだろうか。それもまたありだろうなあ。しかし例の一本松の扱いはげんなり。
当時の投稿を見るとなんとも呑気に見えるが、家族も家も同僚たちもみんな無事で安心しきっていたんだろうな。原発もまだ事故ってなかったかな…?実際、一か月もせんうちにスマートフォンを持ったと思う。大きな変化だ。あと当時の記事から飛べるgoogleMapの見た目も変わった。…改めて見るとルートが違うが今更どうでもよい。
もう眉間にしわ寄せてあの地震を振り返ることはないだろう。そんなことより東京の地震のほうを心配しないと?心配でどうにかなるなら世界に平和が常駐してるわ。非常用バッグアップデートするかー。
先日書いた鳩の鳴き声、声がしたので表に飛び出ると目の前にいた。目の前の電線にぽつりといた。…ははあん。半年ぐらい前にできた新しいアパートへつながる電線だ。そら以前はなかった電線なのだから、そこからの声も聞こえてこない。