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「いまさらですがソ連邦」を読んだ
ソビエトロシアでは、本がkindleを読む!
ソ連は20世紀を振り返ろうとすれば、その物語に欠かせない国家であります。クッソ広い国土から集められた軍隊がアメリカとドンパチやっていた、というざっくりしたイメージ。昭和生まれの自分には、ちょくちょく漁船が拿捕されたというニュースとチェルノブイリ原発事故の記憶があります。ところで今、「ゴルバチョフ書記長」を噛まないで言えるか試したらサラッと言えた。あれれ。なお、実際のところアメリカとは直接ドンパチしてはないと思うが、どうだろか。
国家の歴史は1922年から1991年と、世界史年表で見たらちょろっとした帯の長さである…しかし前述の通りアメリカとの競争や、日本との関りでもわが国民には印象深い。今現在も、領土問題で揉めているではないか。ロシアの戦闘機が、年に何度領空侵犯してくるかお調べになるとよろしい。祖父はシベリアを生き延びた。日本もバチバチやっているんですわ。あんな麻布の坂の上に大使館建てやがって面白くねーわ聞いてるかプーチンゴルァ。あそこは日本国の警官が常駐しているようで、いつ通りかかっても物々しい。
…という、ソ連邦の歴史をふむふむと読むことが出来る本書。手書きの文字と豊富なイラストを使ってて、所々で旅日記的な風情がある。全体的に軽いテイストで良い。ただ、iPhoneのkindleで読むには厳しいサイズ感なのが残念。本書では、いかにもなイメージ通りのソ連の、またそれが事実上は、共産主義国家を代表するものとしてのソ連を描いてる。国家の興りから、クーデターによる消失まで。その内情たるや、改ざんされるづけるドキュメント、働かない労働者、移動の自由が制限された国民、空っぽのマーケット、気合の入ったプロバガンダ、スターリン主義、飢饉で逃亡する農民、粛清により姿を消した人々…。もう無茶苦茶だ。そのなかで、世が世なら、北海道はソ連邦領土になっていたという事実。スターリンはその気満々だったんではないか。仮にそうなっていたとして、沖縄みたいに後年返還され得ただろうか?北方領土はいまだに返ってきません。いうて、米軍基地がなくなる未来も考えにくいけど。
現地ソビエトロシアに於いても、このような時代を体験した人々の数は減っているだろう。人の命に限りある限り当然である。日本における戦中生まれもいずれはみな世を去る。wikipediaやらのインターネットに残った情報で、事実関係を知ることは難しくないと予想されている。その時のテンションというか、我々ひとりひとりが感じる空気感?みたいなものは、仮にTwitterのようなものの情報をすり合わればどうにか伝わるだろうか。我々が今後生きるにあたりては、このような”歴史書”から少しでも学び、役立つことがあれば良いなあと思う。
インターネットこそ改ざんされ続けるドキュメントでは?といわればそれもそうなのですが、インターナショナルよりましだ、ということで。真実は一つにあらず、無限というならそれを追求するまで。万国のインターネット者よ、団結せよ!トウキョウジャパンでは、インターネットがインターネットする!
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「雨に唄えば」を観た
見終わって、さて本作の公開年はいつだろうかとググってどーん。1952年。サンフランシスコ講和条約が1951年でありますよ。吉田茂がブイブイ言わせていたころですよ!これだから戦勝国は!みたいな噛みつき方をしようとも、1952年の日本でも宝塚歌劇団が営業しているし、世界の黒澤もブイブイ映画を作っているのでありました。羅生門が1950年発表。まあとにかくも、歴史的な作品というわけです。しかしフルカラーなのは当時から?昨今の技術によるもの?モノクロのイメージがあったんだけど、どこでそんなイメージがついたものだろうか。
ミュージカルということも知らなかったので、とにかく賑々しいではないですか。BGMに合わせて人が動くということだけで新鮮。どうにも縁遠い世界。作品の中でも、ブロードウェイがブイブイいわしているような事を歌っていた。ああ実際そうなんだろう、1952年のニューヨークというものは。自分にはターミネーターやブレードランナーみたいな、実際には人類の歴史に登場していない世界のほうが”見慣れている”世界に思えてくる。同年、第一回のミス・ユニバースが開催されている。優勝者の顔も若い乙女の祭典というイメージにマッチしない。写真の一枚だけで語ってもしゃーないか。
本作は出演者が良く動く。歌って踊る。踊りはどう見ても本人、歌も本人だと思う。吹き替えで他人だったら面白い。作中、声がひどいということで吹き替えという当時としてはド斬新な発想に至る、というのが物語のクライマックスとなるんだが、それで実際の制作現場も吹き替えなのかーいって。ああ、「天使にラブソングを」でもあの内気なシスターの歌が作品で唯一の吹き替えだと知って仰天した…という個人的なエピソードはみなさんにどんだけ縁遠いでしょうかー。
地球の裏に及ぶ遠さが、一番有名なあのシーンで一つ、縮まる思いがする。何かのきっかけで、雨が降っている中を歩くだけで楽しさを覚えるようなこと、ある。歌って踊ってなんてことは流石にないけれど、湿った風のにおいやすれ違う車のタイヤの音とか、どういうわけか快いときがある。この作品もようわからんが陽気なバイブスで人々が踊っておられるなあ、というのを鑑賞する心地よさ。どう表現していいかわからないがなんとも上品なノリの良さで、思った以上に観てて楽しかった。
トウキョウジャパンの十連休は雨が多い。今上の帝やらシンゾーが珍しいことするからこうなるのだが、まてまて自分がミュージカル映画など観たせいかもしれない。これは自分が降らせた雨と、ポジテブなバイブスでお外に出ようぞ。小一時間後には自分を恨んでそうなあたりが俗物。ヲホホ。噂にたがわぬ良作でございました。
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+連休
何度か妄想したことだ。数千年の未来に、今の時代の人々のツイートなりブログなりが「ほえ~」なんて歴史的な資料として参照される日。例えば気象観測データがなくなっても、そんなような情報をかき集めてみたところ、お天気がわかる。わかったから何なのだ、とはご尤も。あるいは何か事件事故の類がわかったりする。あゝこんにちは未来、十連休というパワーワードに酔うみじめな我らの声は届いていますか?じゅーれんきゅう。漢数字で書くと十常侍みたいだな。
一味唐辛子
二虎競食
三郷ジャンクション
四天王
五目寿司
六波羅探題
七福神
八百万
九尾の狐
十億円くれ
ところで、十連休の擦り合わせて今月末は忙しかった、という人もおられよう。自分も例に漏れず。帰宅したら日付が変わっていたことも数度。洗濯もできないので風呂上りに乾いたタオルがなかった。ハンカチのストック、脱いだ衣類で体を拭う。タオルもないのにハンカチにストックがあるということは、今日使ったハンカチは三日ぐらい洗ってないんじゃないかな。斯くも無計画。気づいていればタオルぐらいコンビニで買って帰ることもできた。いや、風呂に入る前に気付け。
現金もおろしてないなあ…というところでふと思いついて、50過ぎぐらいの客先の方に声をかけてみる。「一昔前は、GWには銀行でお金おろせませんでしたよね」って。自分の記憶では、大学生の頃はもちろん、卒業して数年ぐらいはそうだった記憶がある。店の入り口にポスターはってあって、この期間はおろせませんからお気をつけくださいと。「困ったもんだよね、当時は今みたいにネットで買ってクレジットカード払いもなかったと思うし、suicaで買い物もなかったからねえ」とのお答え。ははあん、手元に現金がなくとも大丈夫というわけですな。
新しい紙幣デザインという話題もあった。肖像の人物が変わるわけだ。このキャッシュレスの時代に、などという向きもあるが、特段機能に変化があるわけでもなかろうし、適宜やったれとは思う。労力に見合うかは知らない。ところで自分の記憶によれば、お札のデザイン変わったなーと認識したのは一回だけだ。野口英世千円札になったタイミング。調べてみれば、樋口一葉も同じときに変更されている。なんでかその印象ないけどなあ。そして諭吉はずいぶん長い間変更されていないようだ。
https://www.npb.go.jp/ja/intro/ostu_history.html
ところで上記のリンク先は国立印刷局なのだが、所々に「D千円券」とか書いてあるのが面白い。テレビタレントが使う数え方を連想してしまう。もとはジャズメンの遊びだったといわれる数え方で、日本で(厳密にはイタリアで)のドレミファソラシドが英語圏ではCDEFGABCになり、故にここでDと言えばそれは2を意味する。じゃあD千円券とは二千円札のことかwwなんて思っていたら「2000年にD二千円券発行」と書いてあり草が生える。D千年にDD千円券。
考えてみれば、よ。貨幣も休日も、国家の定めがその機能の主たる根拠である。当時の国家にはそれができるほどの権力があり、貨幣が通用するほどの国力もあったと知るには、良い証左となりうるかもしれません。
しかし令和元年は令和C年ではちょっと違うなあ…。
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ほかのまち
朝より出かけ、所定の時間まで、時間つぶしに駅前の、まるいベンチに腰かけてぼんやりと周りを眺めている。人の多い街は、見ていて飽きない。最近、昔は理解できなかった「街中でそこらを行く人の観察が面白い」などという人のここちが少しわかる。目の前を過ぎる十秒ぐらいの間に、誰かに似ているだの、装いが奇抜だの。人々というのは、やっぱりユニークなものなんだな。平和な社会のなせる業。
政治家というのは、どこからが政治家だろうか。現役の国会議員は異論ない。大学で研究をしているような「政治学」の先生は違うと思う。各自治体の首長は…どうだろうか。うーん。では拡声器で演説をしているこのやかましい市議の候補者は。彼の政治的チラシ配りを手伝っているこの人は。まるいベンチに座っている人にも順に手渡そうとして、皆に断られ、煙たがられている。自分ももちろん断る。
「若い人は政治に興味がない」とぼやく人がいるが、若い人が興味をもった結果、「ダメだこりゃ」と見放されたという風には考えてはいないのだろうか。危惧しているよりもっと状況は悪い。…あるいは、良い傾向なのかもしれない。何かを変えようと風が吹くかも、というやつ。そんな呑気なことを考えていると、根こそぎ悪意に持っていかれるというのが歴史の教えかもしれないなあ。
自分は何をするにしても不注意が多いので、ずっとそれを前提に生きていこうと決めたのです。決めてはいるのですが、勿論、決めたぐらいで解決はしません。改善はありましたが。メメントって映画のレビュー書いた。あれはいくら何でも極端だけど、なんでも忘れるから何でも記録を残したれって発想には至極頷ける。ところが、記録を参照し忘れる、みたいなことが頻発する。自分で自分をチェックする機構が上手く動いていない。自分がbotにでもなったつもりで、毎日何をするか、何をしなければならないかというのをアウトプットしてみようと思い立った。設計図であり、聖書を作ろうと。自分自身など信用できるか。
こんなことを考えていると予定の時間を過ぎそうになる。メモ帳に「時計を見る」って書かないと!終いには、メモ帳に「メモ帳を見る」って書かざるを得なくなり、スマホに「メモ帳を見る」ってメモを残さざるをー。名前を「メモ帳みろ」に改名したりして。ああ。キリスト文化圏で、聖書の聖人の名前を付ける風習は、あやかりたいという以外に、キリスト者であることを常に忘れるな、みたいな事なのかもしれない。自分は不注意者であることを忘れないという名前にするにはなんだ、与太郎とかにすればいいのか。あるいは茗荷。
冗談抜きで考えても、街角にある「出会いがしらの事故に注意」とか、小学校にある「廊下はしるな」みたいなもん、目につくところにあるから効果がある。自宅にそういうの置けば良いんだよな。で、実際置いていたのを思い出した。玄関のドアにホワイトボードぶら下げて、予定を書いておく。造り上、風呂トイレに行くたびに目に入る可能性が高い。外出時には猶更。なんで止めたんだっけ、と思い起こす。宅配便を届けに来る人に丸見えだからであった。受け取りのサインとか書いている間に、ね。今考えれば、裏返してドアを開ければいい話だわ。
なんというか、もっと工夫して人生に取り組むべきなんだよ。何度も自分あてに書いているフシがあるなこれ。できれば穏やかに静かにぼんやりしたまま平和に人生を終えたいと思う。でもそんなの高望みが過ぎる。十億円宝くじで当ててから考えればいい。そう思って月に一回ぐらい宝くじ買うのに、日々の細かいチェックや工夫がアレなんだよなー。
それでも必死で船を漕いでいれば風向きが変わるというのが、良い人の人生でしょうが、どうも自分には。令和の世に期待すっかなー。こんな言い方はあれだけど、この春は自殺者が少なくなった、みたいな統計が出ると面白い。どうせ作為的な数字だろ、で終わりかねないが、さすればほれ、又の国難にも改元。早良親王とか道真の祟りに対応するみたいな発想。そうよ、天皇は神道に於いて高位の呪術師とみる向きもあるところ、俺も共に祈りたい。ハァ十億円~~~。
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まち
確か6:00からだったよね、と爽やかなお日様を浴びて徒歩十分、入り口に着いたら7:00からだった。まだまだクッソ寒い朝に30分待つ気にもなるわけがなく、ぐるぐる歩き回る気分でもなく、カメラ持ってくれば良かったんだよなあと悔やみながらそのまま帰宅することにした。どうせクリーニング屋が開く時間にまた外へ出る。醤油を買うのはその時でよいし、ついでに駅前まで足をのばして100均で何か買おうぞ。建設的な時間にしようと必死に脳をゆすっていると、異常な密度で禁煙をアピールする看板が置いてあるオフィスビル前の広場とか、路肩に物静かに停車している消防車を見つける。やはりカメラを—なんて悔しく思っていると、ふと、見たことのないものが目に入る。
築何十年は経過しているだろう、なんなら終戦後と言われる時代を感じるような民家があった。二階のベランダ…?あるいは「物干し場」というほうがニュアンスが伝わるだろうか、窓からちょっと外に出れるスペース。その欄干が石でできているように見えた。まるで河川にかかる橋みたいだ。このお宅はえんじ色に塗られた木とトタンの造りで、朝日に照らされオレンジを塗されて、そこに通りに面した灰色の欄干は妙に目立った。はて。石…なんのために?確かに雨風には強かろうが、いくらなんでも重いし、どうやって安定させているのだろう?帰宅後、さっそくストリートビューで現地を確認するに、今度は塗装の禿げた木に見えてきた。もともと白っぽい木材…ナラとかイチョウではないかな?こうなると、もう一度現地にカメラを持参して写真に撮ったら、今度はおとめ座銀河団に見えるかもしれない。宇宙の淵。
ブラックホールの撮影に成功したというニュースがあった。それが凡そ推測どおりだった、という話も伝わってきた。姿かたちだ想定通りということは、自分のようなトーシロでも知っているブラックホールのうんちくも本当なのだろうか。曰く、超重力過ぎて光が吸い込まれる、というような話も。通り抜けるとワープするとかも?ゲームかよ。このニュースと合わせてその撮影方法も伝わってきたのだが、これが驚きで、地球各所の天文台を連携させて地球サイズの仮想レンズを作って撮影したらしい。これこそ完全にゲームの世界の話。ワープもするかもしれねえわ。
21世紀初頭を生きた自分たちは、いわゆる昭和の時代が夢見た未来が到来しなかったことにがっかりしたかもしれない。単なる絵空事だったかなあ、って。しかし考えてみれば、ほれそこに、スマホが現実にみんなの手元にある。技術はしっかり進歩しているわけで、映画や漫画の世界に照らして現実世界の進捗を真面目に語っても仕方ないかしあー?今現実の世界に、ネット関連の便利なサービスやスマホがなくなって、ドラえもん的エスエフ21世紀街並みが実装されても焼き払えとしか思わない。でもドラえもん道具は欲しいな。社会ではなくツールが欲しい。資本主義って感じみある。ソ連だったら粛清されよう。「ソビエトロシアでは、ツールが人間を作る!」ああ案外普通か。何を言っているんだ。
そういえば、ドラえもんの作中は未来ではなく、現代という設定であった。その「現代」の調整がされたって話をどこかで見かけた気がする。いまさっき書いたスマホ的なものがドラえもんではなくスネ夫のポケットから出てくる…のかな、見たことないからわからないけど。でも作者亡くなって何年だ?調べなおしたら、調整の話は自分の勘違いだったようだ。これがありなら磯野家もスマホを持つ。江戸は神田、物干し場の欄干にライトが付く。「あいやぐーぐる、あかりを持てい!」「何か”御用”でしょうか?」
今回はここいらで〆。