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塩でキメてけ
最近はまっている調味料は塩です、とか言い出したら心配されるだろうか。体大丈夫?あるいは頭も大丈夫かって。
ここ数年、家には常備の調味料の種類が増えつつあった。塩胡椒醤油、コンソメとめんつゆあたりだったのに加えて以下だ。味噌、ナンプラー、ドレッシング適当に二種類、中華系のスープの素的な(まあウェイパーのことですね)酢、ごま油、みりん、砂糖、マヨネーズ。ここに時折、甜麺醤に豆板醤、スイートチリソースだとか加わるとなかなかの布陣だ。煎りごまとか鰹節、バターまで加わるとそらもお。
凝った料理に目覚めたなんてことでもなく、これだけあると食材を適当に買ってもまー何かしら食いたい味で食える、ということになるものなんだ。クックパッドみたいな実用系レシピを参照してごそごそするような時も、大体必要なものが手元にある。しかし、そんなレシピ参照しながらの料理、さほどするわけでもなく。
調味料がわんさかあると、何かを切って加熱して、上記のどれかの味で食う、みたいな食事だとしてもそこそこのバリエーションがうまれる。そんなもので満足するようになったのは進化か退化か、体は大丈夫か。そんなメシを食っているうちに、舌の上で輪廻が発生したようだ。塩降る夜に涅槃を手繰ったのである。頭も大丈夫か?塩のみで食ってみようということが直近のブーム。実食はまだあまりしてませんけども。
もしかしたら自分は塩味がきついものが好きなのかもしれない。無塩トマトジュースに塩と氷を入れて超冷やして飲むのが好きだ、とか、酢の物にする前の塩もみしたキュウリをつまんでみたら美味かったとか。コンソメ味の野菜スープも濃いめが好きだ。尤もこれはお湯にコンソメと具材を放り込むだけ、なんて不精な作り方しているから薄味では不味いだけかもしれない。しかし揚げ物とかは何も付けずに食うなあ。カツにソースとか味が濃すぎて試す気にもならん。味覚って不思議なもんだ。
具体的に食ってみたもんは。
そば粉多めの乾麺蕎麦を茹で、麺つゆなど使わずに塩をちまちま付けて食べる。昆布なり鰹なりの出汁が無い状態で食べると、やはり別もんだ。流石に塩分過多なのが味覚でもわかるんで、するとついには塩もつけずにそのまま食べるみたいなこともしてみた。それでも結構な塩分を感じる。もちろん蕎麦の味もする。これはもともとそういう食い方ありますね。寿司にも塩で頂くものがあります。
元々味付けなどあまりしないものを塩振って食うとどうか。とりあえず冷蔵庫にあった茗荷。刻んで掌に乗せて、塩振ってそのままお口にぽい。茗荷の味が塩味が効いている間は薄れているような感じがある。もともと冷ややっこや蕎麦に入れるもので、塩分と別れての味などあまり意識してないのではないか。比較の為に塩を振らずにおくちにぽいしてみると、ちょっと日常的には味わいたくない感じになった。ふーむ。
塩っていうのは味わい以外にも食材に対する作用があったりしますからね、いろいろ試していくうちに、ひどい目にも遭うでしょう。それとこのテの実験には欠かせない食材が日本にはありますね。納豆です…といったところで本日はお開き。
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祖父の葬儀へ
祖母が亡くなった時に、初めて弱弱しく狼狽えている祖父の様子が深く印象に残った。俺もすぐに行くぞなどと言い出して、まあどうしたものだか…こちらも輪をかけて狼狽えてしまった。五年になる。
祖父が亡くなった。一個前のエントリに書いていたが、この日も休日だった。祖母の時は土曜日で、すぐに帰ってきてほしいと父が言うからすっ飛んでいった。無計画な行動は恐ろしい、月曜にはいったんこちらに戻り、普通に仕事をして翌朝またすっ飛んでいった。今回は母から事前に連絡があり「どうも様子が良くないと病院から連絡があり、一旦すっ飛んでいったところで、もう長くはない」と連絡を受けた。いや祖母の時も入院していたしそう長くはないと覚悟はしていたのだが…。今回はやや冷静に、身支度や着替えの準備、諸々の予定の調整などをして、流石に身罷るまで側にいるわけにもいかず、亡くなったらすっ飛んでいくのだろうとすっ飛びルートを確認していたら、そのまま亡くなってしまった。
すっ飛んでいっても日が傾き、沈むほどの距離を経て暮らしていることを、こういう時にしみじみと感じる。いや3-4時間ほどでなんとか到着しますが、今回も月曜日に仕事をしてから帰省となった…。こうして3月11日は祖父の名で上書き保存された。これにて祖父母を4人とも送ったが、命日など一日も覚えていなかった。ここでようやく忘れ得ぬ日を得た。誰かの誕生日とかもほぼ興味なくて覚えないが、こればかりは忘れることもないだろう。
あの日に感じた、距離と時間のリアルな長さ。家族全員の安否も全くわからないままに夜を6時間ほどかけて部屋まで歩いた日、亡くなった家族に会うために快速と新幹線乗り継ぎすっ飛んだこの日。何にでも備えてリカバリーするなんてできない。何を諦めて生きていくのか、縋るものの予備もありますか?僕には黒ネクタイの予備がないですね…。
葬儀はなんというか祖母の時と同じく、アクシデントもなく…。ただ、祖母の葬儀の時には「誰だいあの人」という枠だった自分だが、今回ばかりは流石にその節はお世話になりましたなんて挨拶も交えつつ親戚に声をかけたりもする。しかし誰かの誕生日に興味のない自分が親戚の顔と名前などどれだけ一致するものやら。今回も隙を見てあの人誰だっけと聞いて回るはめに。
“順番”が一人ずつ進んでいくのを感じる。
祖母の葬儀の時に会わなかったご近所さんは、数十年ぶりに会うことになる人も多く、名前が出てこない。難病の夫を老々介護で支えている、というあの人、誰だっけと聞いたら向かいのおばちゃんだった。まさか忘れる筈もないが、やはり完全に見た目が変わってしまっている。自分の母もすっかり老人だ。
これで次の葬儀には自分が喪主ということになるだろう。遠方に住んでおり車もないですが大丈夫か。予算にも乏しいわ…。そんなことを心配していると、自分が最初に死んだりするんだろうな。まずは自分がしっかり生きねばなるまい、至極当たり前のことだわな。
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「隠し砦の三悪人」を観た
今回もamazonプライム映画での視聴、…と最初に断っておくのは、どうもこの画質が実に素晴らしいという声がレビューで多く見受けられたので。確かにきれいだった。
以下エントリ本編。ネタバレ。まだ作品を観た事が無い人はここで読むのを止めて作品を観ることをおすすめ。
楽しい。すっげえ楽しい映画だった。どういう言葉で表現しようか思いつくまでずーっと考えていて、ようやく思いついた。痛快。おーこれだ。紛う事無き傑作。そうだよな、映画って娯楽なんだよなあ、一昔前はみんながこぞって楽しんだ娯楽なんだよなあ、と改めて思う…。今だって娯楽の大手には違いないが、こうしてインターネットの仕業で他にもいろいろ娯楽が分散されておるからね。
黒澤明云々という点は特に思い入れがないけど、氏の作品でも特に人気が高いと評判。納得できるなー。映画の内容が、なんというか難しくない。分りやすい。そんな作品他にいくらでもあるだろって自分でも思うが、兎に角いろいろ分りやすい。なんだろうな、この簡明さは…ちょっと説明できなくて、不思議な感じすらある。
観てる途中にも思ったけど、農民二人がなんか落語なんだよな。欲深くてあわてんぼう、早とちりに臆病者で身勝手。何かをしでかすものだから話はどんどん転がっていく。こいつらが何かすることで「そらそうなっちゃうでしょ」という事態に陥り、しかし場面が少し進むと観客が思った通りの展開にはならない。おーそうなりますか、と。「こりゃもうだめか、どうすんだろ」という状況が、特に何もせずに好転するが、それが言われてみればそうなるよね、という…特に説明もないのに納得できる。なんか見事なものだなあと思う。これが脚本の見事さということなのかなあ。
具体的には以下のような流れが特に。人買いに売られた娘を買い戻す→逃避行に人が増えてどーすんだよ→馬売ってくれと頼まれてしまう→運ぶ足がなくなったじゃねーかよどーすんだよほら追手が来た→「良いか!お尋ね者は男三人に女が一人!馬を連れている!」
火祭りのシーンの美しさも突出している。ここらはモノクロの効果もあるだろうか。多くの犠牲を払い、自らも危うい目に遭いながらここまで運んできたものが、祭りの供物として燃え盛る炎に放り込まれたというのに、姫は嬉々としている。啞という設定で人目をごまかしてきた姫は笑顔で祭りに参加して笑顔で掛け声まで出している。一方百姓はおどおどしている。
戦国の世に生まれた姫君として、もはやこれまでと覚悟を決めた潔さか、あるいは16歳の男勝りの箱入り娘として、初めての(かはわからないけども)世俗の祭りの楽しさに心を委ねたか。あるいはまた身を隠すには絶好のシチュエーションが訪れた事だし…。後に敵方に捕らわれ、姫はそこでこの決死の逃避行、楽しかったと語る。この旅で人の美しさ、醜さを見たと。
この名場面で、まさに心奪われている時に、祖父の訃報を受け取る。…リアル人生のイベントは時に出来過ぎですね…。amazonプライムのいわゆる「レンタル」は視聴時間の制限付きというシステム。東京に戻ってきてからまたレンタルしなおして続きを見てこれ書いております。
この当時の俳優・女優さんとか流石に全くわからない。名前をググってみても、多くは故人となっている。三船敏郎もあまり知らないというぐらいに自分は疎い。雪姫役の女優さんがとても印象に残ったが、調べると黒澤明に抜擢された素人だという。ほえー。二年ほど活動し、自ら才能がないと引退。ネットを漁っていたら随分貴重っぽい動画を発見。
以前、誰かに勧められて「羅生門」を見た時も、なんだかうまく言えないが確かに面白かった。どこがって言われても困る。傑作は感想文に困るんだろうか。旨い物なんかもそうだよな。少なくとも自分はそうだ。文句が出ないから大人しい。んで何度も同じ定食食いに来る、みたいな。
「隠し砦の三悪人」は映画であるから、何度も見ることはないけども、思い出すだけで箸が進む。いやー堪能した。お気に入りの映画に並べさせていただきます。
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うのはな
おからってちょっと前まではあまり売ってなかった印象なんだけどね、最近は良く行く店にも置いてある。平べったい感じに圧縮されていて、ちょーど袋にいれて圧縮された布団みたいな感じだ。掃除機で空気吸ってぺちゃんこにするやつ。固さの具合もまさにそんなだ。
時に、今年に入ってお酒は止めているんですが、酒のつまみ的なものが好きです。あたりめ、メンマとかザーサイ、魚の煮つけとか揚げ出し豆腐、柿ピー。そういうラインナップに入るかの判断は微妙だとは思いますけど、卯の花とかね。コンビニで売っている卯の花がクッソ美味かったので、自分でも作ってみようとなりましたが果たして。いつものように、ものぐさ調理の基本方針として、食える範囲に収まりそうなレベルでのレシピ把握をしたらあとはテキトーで御座います。ある程度調理慣れはしているつもりなので、なんとでもなります。はっはっは。
まず材料。おから。……あとは何でも良さそうじゃないの…。食って美味かったその卯の花に入っていたものを参考にします。こんにゃく、枝豆、人参、シイタケ。前出のページによるとタケノコも入っていたらしい。これは…自分の考えでは全く以てスタンダードな組み合わせではないかと思う。
同じものを揃えれば良いものを、探すの面倒くさくて目についたものだけ買う。人参と板のこんにゃくを用意。追加で油揚げにしました。出汁をたっぷり吸わせませう。
人参を適当な短冊切りに。こんにゃくは手でちぎる。こいつらを少なめの出汁で炊いて、火が通ったら油揚げを細切りにして泳がせる。おからをドバっと入れる。出汁は最近目にする白だしってやつね。安もんですけど。で、ここからどうするか。ひとまず水分が適当な具合に減るまで炒める。別名「おから炒り」だろこの料理。ところが、この後も何回か作るんだけど、適当な水分量にするのが難しい…。ある時はぼそぼそで口の中でぱふぱふしてしまうし、ある時はおから成分がねっちょりと水っぽく、流動食のような雰囲気になってしまう。商品によっておから自体の水分量が違ったりもしたのかもしれないな。
なんどか試行錯誤しているうちに独自につかんだコツは、あまり炒らないということ。おから自体がほっくほくに温まればそれでOK!!ということにしました。出汁成分は少なめで良さそう。少なすぎたらおから投入後にみりんと醤油で調整。『いやいやそんなことしたら強烈に味が変わるのでは?』って?その通り。それがどうした、最初から適当だ!と居直ります。どうせ冷えてから食う事のほうが多い、調理中の味見などあてになるかい。…いやそこの勘所を掴めよって話だが。何が「調理慣れしている」だ阿呆と。
実際のところ、おからは同じ量のパックで売っているものです。賞味期限も長くはない、残しても他に使い道もイマイチなので作るたびに全量使います。そのため、目分量でもあまり調整をミスることはないのです。
以上です。
そんなわけない。
具材のバリエーションと参りましょう。まずひき肉。人参、にんにゃく、ひき肉の構成。おからコロッケなるものがあるようだけど、食べたことない。多分、このひき肉投入バージョンはそのコロッケの中身に近いのではなかろうか。ひき肉の歯ごたえがちょうど麻婆豆腐のようで美味い。自分のレシピだとデフォルトではみりんも砂糖もいれないので肉の味が強めに主張されます。柚子胡椒や刻み葱など追加でさらに良い感じです。
次。人参、こんにゃく、鶏もも肉。もも肉の濃ゆい出汁に期待したが、おからパウダーに吸われてあまり味わいが残らなかった。そのぶんおからが美味になったかというと、そうでもない。脂身もそのままにぶつ切りで入れたのだが、おからとまぜまぜの段階でどこかに霧散したか?ごぼうなんかが相性良さそうですが、調理が面倒な食材は遠ざけましょう。
次ーっていうともう魚介か果物の出番ですが、さすがに自制が勝ちました。何も試していません。多分ゆでタコとスパイシーな味付けならまだ合いそう。
そもそもおからって豆の搾りかすですからねー、栄養はまだあるのかもしれませんが、味も風味も抜かれながら口に含むと立派な存在感。単体では調理の素材としてはむしろ厄介な属性なのではないかと思う所存です。腹いっぱいにはなるけど。先人のレシピを参考にすると、団子などに加工して畑の肉(予備役)として使っている方が多いようですね。お好み焼きとかピザ生地…。うーん、小麦粉とか片栗粉常備してない自分にはない発想であります。面倒な食材は遠ざけます。
あと卯の花にしても自分の作ったものよりはるかに具材の量が豊富だ。そら美味いよな。何か負けた感じしかない。次は具材豊富な一品をご用意いたしましょう、卯の花の薫りに出汁のストックをチェックする、ある卯月の一日で御座いました。って一月に書きたかった…。
おだいどこからは以上です。調理品の画像がないのはいつもの仕様です。
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「気狂いピエロ」を観た
なんか最近読書感想文ばかり続いてますね…。
これ、公式な情報としてどこをあたればよいのか不詳だが、どの情報を参照しても「きちがいぴえろ」という読みになっている。変換するなら「きぐるい」とタイプすることになる。この作品に関しては「気違い」という書き方は誤りなんだろう。これもまた時代である…のかな。まあそんなことは兎も角。
「気狂いピエロ」は1965年の作品。1966年、ハッピ着たビートルズが飛行機から降りてきた映像だって白黒だというのに、この作品は鮮やかなカラーが印象に残る。監督のゴダールというのはなんか名前を耳にしたことありますね。作品自体の感想はこう…なんだろうな。そんなに面白いとは思わなかったけど…なにかこう、退屈はしなかったというか。まあ言葉に困るよね。難解だったわけでもない印象なんだがな。
この映画を見た後、なんとなく筋立て似てるんじゃないか、並べて見たらこっちは〇〇だから面白いなんて筆が進むんじゃないかと思って「俺たちに明日はない」も見てみた。そしたらピエロのほうは何で旅してるんだっけ?みたいなことになった。そのうちもっと他の映画と混ざりそうだ。今度の休日に同時再生してみようか。パルプフィクションに挿入しても違和感ないんじゃねえの。何で時計を持ってこなかったんだ!とかあのへんに。
こう…世界観の設定みたいなもんが強くないというか…。時代は感じるが舞台は感じないんだよな。突飛な発想や世界観を画面で再現する技法に乏しい時代だったから、…?うーん。インターステラーなんか引き合いに出してもしょうがねえか。
言葉を探すのに飽きたからこの辺で感想文は終わりにしますかー。下書きのまま三か月も放置してればこうなりますよねーーーー。