• どくしょかんそうぶん,  ふでのゆくまま

    「たけくらべ」と「舞姫」読んだが

    樋口一葉の「たけくらべ」が青空文庫にあった。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html

    冒頭に目を通してみたが、こんな古文調?の文章だとは思ってなかったので面食らう。平家物語じゃねえんだからさ。なんかおかしいなと思って、読む前にいろいろ調べてみる。まず、太宰治とか芥川龍之介あたりと同じ、あの辺の時代の人だろうと思っていたが、実際は作品の発表時期が30~40年ぐらいずれている。芥川龍之介の「あばばばば」が1923年の作品だそうだ。また太宰治の「走れメロス」が1940年。いっぽうこの「たけくらべ」は1895年ですって。このたけくらべ、ぱっと見で採用されている単語がまるで芥川、太宰とまるで違うじゃないですか。自分の見識では「一緒の時代」で括ってよい程度の差なのか判断に迷うが、これだけ”文字”が違ったら別もんでよくない。

    たけくらべだけvsその他全部でくらべてもしかたないので調べるのはこの辺で一旦たなあげ。たけくらべ だけでくらべて こしくだけ たけやさおだけ よんでみるだけ。あっはい。で。上記のように作品について調べるついで、当時の出来事は何でしたかと漁ってみると文明開化があった。1870年ぐらいの出来事らしい。なんでも、1872年には鉄道が走ってるし、その後すぐに苗字を名乗れとかちょんまげやめろとかお触れが出ている。ちょうどそのころ生まれた一葉女史には影響は大きかったのかね。そもそも「女性が書いた」ってだけでも珍しい時代だったのかもしれない。大正デモクラシーもまだまだ先なのだ。それでも文章が芥川と比べてまるで違う。何があったかね。

    んで、「たけくらべ」が結構みじかいと気付いたのですね、青空文庫を開いているブラウザの、スクロールバーのサイズ感で。じゃあ拝読してみれば良いのはなし。2時間かからぬぐらいで拝読したのですが、あまり理解は追いつきませんでした。とりま実績解除ってことでよろしく。

    こういうのを教養って言うんでしょうか。作中、下駄の鼻緒が切れて弱っているところに、知人が通りかかり、俺の下駄はいてけって渡す。自分はこの場面が見事に漫画的表現で絵が浮かぶわけです。白土三平…ってカムイ伝しか知らんけど、ああいうの。横山光輝の三国志とか?そういう雰囲気の中で人物がやり取りをするような絵がうかぶ。だから、下駄をくれたのはやさしい呂布みたいな🐻男であって、下駄を受け取ったのは諸葛瑾みたいな書生ふうの…。でも、ちゃんと知識があると、もっと本物に近いというか、別の様子を思い浮かべるんだろうか。なんで太宰や芥川と文章が大きく違うのか、そんな理由も知っているのか。自分は「鼻緒が切れて弱っている」がどういうことなのあまりピンときてない。あの親指と人差し指の間の紐が切れたってことであってますか。

    えーと、流石に読みにくくて難儀しました。若者の群れが連れ立って喧嘩したり青春してたような話だった。んで女が拗ねた?恐ろしき理解度の低さ、これ教養って言うのでしょう。ぐぬぬ。

    では、この時代の他の作品も読んでみれば、ちょっとは腑に落ちる見識も得るかもしれない。じっさい一葉と面識があり、結核の治療も面倒見たという森鴎外。「舞姫」の発表年が1890年だったので、こっちはどういう文面かと探してみたら、これも短い。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html

    読み終えまして。人の勧めるままに身の振り方を決めていたら、自分の子を宿した女を捨てることになった、みたいなことか。貴方仕事と私どっちを取るの?どうしても古文ジャンルの文章に近い印象がぬぐえない。源平のころから文明開化まで、文学ってなかったのか。そもそも小説ってジャンルが存在しないのか?自分の教養で、調べなくても江戸時代のものだろうと推測できる書籍って「奥の細道」と「五輪書」しか思いつかない。歌舞伎は都市部で人気だったと思うが、その台本?原作?みたいなもんが流通したりしなかったんだろうか。流通っていうてもな…活版印刷無いもんな。瓦版?

    あるいは…話し言葉まで含めて大きな変化があったの?話し言葉を文章にする発想がなかったのか?

    ここで「東海道中膝栗毛」の存在を思い出し、読んだことも一応はあることを思い出す。現代人に読みやすい表記に改められたものと記憶している。これはスラスラ読めた。wikipwdiaによれば1800年ごろの作品だ。どんな文体で書いてあったのか探れないだろうかと思ったが、青空文庫には無かったのであります。なんでもかんでも収録されるわけではないんだろうけど。

    文章にする言葉ってなんなのだろう。自分だって、日常話す言葉とこのブログで使っている言葉が完全に一致するわけはない。「話す」言葉なんだから、単語・表現の選択にはその話相手と、場の空気感みたいなものが如実に反映されている筈。手書きの日記は少々話し言葉っぽいかな。例えば「今日はしごとの出来栄えがうんこだったのでストレスマックスうんこうんこ」きょ、教養…。

    この時代の作家について参考文献。国会図書館なあ…。死ぬまでに一度は足を運んでみるかしら。

    https://www.ndl.go.jp/portrait/pickup/003

    あら?膝栗毛あるやん。

    https://dl.ndl.go.jp/pid/878435/1/2

    表紙は明治16年とあるように読める。1883年だ。たけくらべよりだいぶ古い。

    もしかしてたけくらべも舞姫も、こういう文体にしようってネタだったりしねえかな。現代でもムツカシイ言い回しや言葉を使う作品あると思うけど、そういう類の。

    ナニ″っナニʖˋ≠″ャ」レ文字@┐″□勹″を残ιτ置レヽナニʖˋ将来レニ於レヽτイ可カゝ亊古攵τ″もぉ⊇せまι

    オチがよわい。トルチョック。

  • えさのじかんだ

    めし短観:2024年3月

    ぬか床が売られていた。Amazonさんでお買い上げ。もちろん漬物なんて浅漬けの素ぐらいしかやったことがないが、やってみたいとしばらく前から思っていたところだ。ただ、素人がやるには難しそうで手が出なかったが、このぬか床はジップロックのようなものでパッキングされて売られており、そのまま中に漬けたいものを入れればよい。保管は冷蔵庫でオッケー。まぜまぜは週に一回。これならやってみようという気になるではありませんか。問題は、俺はぬか漬けを知っているのだろうか。食べた事ある…?定食とかお弁当についてるお新香って、あれぬか漬けであってる?

    謎を解明すべく調査兵団はぬかどこを入手した。

    なお、ゲーマーであるから「nuka cola」ってのも頭に浮かんでしまうのだが暇な人はググってみればよろし。

    結論:😥😢(; ・`д・´)

    お口に合いませんの由。自分で漬けたものを食べた感じでは、全然だめだった。キュウリは12時間~18時間目安のところ、15時間ほどで食べたら変な臭いだししょっぱいしちょっとブヨブヨしているし、好みじゃない。茄子は16時間のところを12時間で食べてみたら、これも変な臭いだししょっぱいし。大根もダメでした。変な臭いはぬかの風味だろうから、そういうものなんだねと納得するしかないが…つけ方の問題なのかな?商品パッケージに書いてあるまま実施しただけで、それ以上に工夫もなにも…。そもそもぬか漬けが自分の口に合わないのか漬け方に問題があったのかを調査するには、ぬか漬けとして売られている商品と食べ比べるしかないが、調査したとて熱心にぬかづけを食う人生にはならんと思うので、今回は追及を諦めた。冷蔵庫で扱える気軽さで手を出してみたけど、この様子ではぬか漬けには一生縁がないかもしれない。

    お漬物なあ。梅干しは”実用的”だと思って以前挑戦しようとしたことはある。しかし調べてみると、素人がやるには手順も多く、自分では作れそうにないと思い諦めた。長期保存食であることにこだわらず、福神漬けみたいなもんだったら自分でも作れそうだなあ。今度はそっちに挑戦すっかあ。

    「生ウィンナー」なるものが売ってた。あまり見かけた記憶はない商品だが、普通に中身を詰めて加熱前で売ってますってことだよな。ホッケの干物とそれを焼いたやつ両方売ってるみたいなもんか?お買い上げ、シンプルに茹でてむさぼり食う。現代日本の象徴的な小さめサイズで残念な感じもあるが、うまい。シンプル塩コショウ味。特別に違うという感じもないけど、保存料漬けの工場生産ベーコンや工場生産ウィンナーよりも遥かにマシだろうと思われる。

    そういやベーコンも自作してみたいと調べてみたことはあったな。しかし調べてみると、素人がやるには手順も多く、自分では作れそうにないと思い諦めた。

    えどなって売ってた。江戸菜だそうな。どのように処理したのか覚えてないが、わたくしの胃袋には収まったんだろう。wikipediaにあたると、「千葉県八街市の農家が品種改良した小松菜である。」とある。この八街市(やちまたし)を知らなかった。読み方を知っても、さて耳にした記憶も無い。ぐぐるマップでみると周囲には森が点在しており、平たい農地も広がる。そんなに険しい山に囲まれてはいないだろうが、平面的な地図上での見た目は三国志だったら激戦地になりそうな配置だ。交通の要衝っぽい感じの。落花生の生産が盛んだそうな。

    そういや落花生も自作してみたいとそれは嘘だ。ついでにいろいろ調べたら、八街市は元タレントの強盗犯が議員になってた街だった。これは本当。

  • どくしょかんそうぶん

    「Issueからはじめよ」を読んだ

    イシューってのはよーするに、問題点とか、課題とか、「対応の必要がある事項」というニュアンスみたいな雰囲気で把握している。開発状況が公開されているオープンソースプロジェクトとか、ゲームなんかにこの項目があるの、見た事ありませんか。本書の主張はそんな雰囲気で分かった気になっても無駄やねん、という話でありんすが。

    「仕事を頑張る!」という時に、成果の質を上げるべく時間をかけて丁寧に取り組むわけだ。そこでただ作業量を増やすというのがそもそも誤りであって、先ずはどういう問題をどう解決するのが正しいのか、そもそも解決すべき問題ってなんだよ?を検討するところからはじめませい。という内容。「顧客が本当に必要だったもの」の風刺画の如く、成果物が意味ない状況になっては拙いですよ。

    なるほどそうですね。以上。

    さらに、本書では具体的にどうやって取り組んでいけば良さそうでしょうか、という方法論が書いてあります。「〇〇することが問題に対する答えだ!」と(一時的にでも)結論を出すには、おおざっぱで抽象的な理解を言葉を変えて具体的にするにはどうこう、仮説を立てて進めるにはどうこう。問題を解こうとする前に、問題はちゃんと把握するというわけ。…なんかどこかで耳にしたような気がするなあ、という場合は、そう、ネットのどこかでそんな話を見かけたんでしょう。現代に於いては、有名な本を読んだらもう全部そうなってしまうのでは。

    本書の立場では、この「Issue」をテッテ的に言葉で表現することに重きを置いている。概念は言葉でしか定義できないという主張だ。言葉にしたところで、本当にIssueとして良いものかを検証しましょう。言語には構造があり、形式がある。特定の形式に当てはめてみるという検証が可能だ。なぜ顧客が必要だったものが出来なかったのか、ではなく、何をするとかしないとか、どうやって取り組むのとか、細かいレベルで具体的にする。その方法論がなんたらかんたら。答えが出ないものに突撃してはならんのですわ。

    仮説を立てるという段階になってくると、貴方の知識と経験が要ります、という話になってそらそうだギャフン。知りすぎると知恵が沸いてこないとも言われて、一体どうしろってんだ!となります。詳しく知りたい人は本書を読めばいいのかも。自分はざらっと流し読み。

    ここまでが本書第一章の「イシュードリブン」という内容でした。ここから先はざっくり読み進めてみたけど、ワカンネってなったのでちょっと意欲は落ちてしまった。理解を諦めたとは言わないが、自分が取り組むIssueではなさそうだ。本書を買った他のみんなもどうせ読んでないんじゃないか[要検証] 本書は第五章までありますが、第一章で40%ほどのページ数なので残りは細かい話になっている様子。じゃあだいたいヨシ!

    ヨシじゃねえだろって話ですが。仮に本書を参考にしてなんかに着手したとして、本書の伝えたい通りに実践できているのかな?を確認するのはなんか難しそうだ。

    その後、ストーリーラインという用語の説明がある。これは、仮説から結論までを段階的に秩序立てると把握したけどよくわからない。さらにその後、絵コンテという手法が紹介されて、ここからは本当に何を言っているのかわかりにくく、付いていけなかった。何がわからないのかわからないが、わかったらなにがわかるのかわからない。高校生の頃、数学を諦めたときの気分だ!最終章は、ビジネス本らしく(?)プレゼンの資料がどうとか。

    こんな感じでふわふわした理解のままで読み終わった感じ。こういう理解が難しいことも根気よく学ぶのが世に求められているわけなので、ようわからんなんて感想文はしょんぼりだ(´・ω・`)

    難解な物事の理解を助けてくれそうなものは、

    またお前か。うーん。2024年3月時点でも、まだまだググったほうが信頼できることが多い。それでも、途方に暮れてchatGPTに問いを投げてみると、最初の一歩を何処に踏み出せば良いのか見えてくることもある。翻訳・要約はお手の物。もっともらしい事をスラスラ回答しやがる。そうだよ「このAIの回答が正しかったとして」という仮説ができるのではないか?🤔

    「AIからはじめよ」の大号令きたる!!HAHAHA


    Q :「顧客が本当に必要だったもの」という著名な風刺について論点をまとめろ。

    AI:

    「顧客が本当に必要だったもの」という風刺は、製品やサービスが実際には顧客のニーズや要求とは関係がないか、あるいはそもそも顧客が望んでいないものを押し付けられる状況を風刺しています。以下に論点をまとめます。

    1. 顧客ニーズとは何か:風刺が指摘しているのは、製品やサービスが顧客のニーズに合わない場合に生じる不満や問題です。顧客のニーズを正しく理解し、それに基づいて製品やサービスを提供することが重要であることを示唆しています。
    2. マーケティングの問題:この風刺は、時には企業が顧客のニーズに関係のない製品やサービスを押し付けようとする、あるいは誤った広告やマーケティング手法を用いることを風刺しています。マーケティングの目的は顧客のニーズに応えることであり、その理解が欠如している場合、製品やサービスの受け入れが難しくなります。
    3. 顧客との関係性の欠如:顧客のニーズを無視したり、理解しないことは、顧客との良好な関係を築く上で致命的な欠陥です。顧客が本当に必要としているものに基づいて提供される製品やサービスは、長期的な顧客忠誠度や企業の評判に大きな影響を与えます。
    4. 社会的・文化的な側面:風刺はしばしば、社会や文化の中での特定の価値観や消費行動を風刺することもあります。例えば、消費社会が押し付ける価値観や、本当に必要なものとは無関係な消費の文化を皮肉ることもあります。
    5. イノベーションと受容:時には顧客が自らが必要としていないものであっても、イノベーションや新しい技術が提供されることでその価値が明らかになることもあります。この点においても、顧客のニーズとのバランスが重要であり、必要とされるものを提供することが成功の鍵となります。

    総括すると、この風刺は顧客中心主義の観点から、顧客のニーズや要求を無視した製品やサービス提供を風刺しており、マーケティングやビジネス戦略において顧客のニーズを正しく理解し、それに基づいて提供することの重要性を強調しています。

  • ふでのゆくまま

    春と秋の余り

    休みの日の朝…地下鉄サリン事件のニュースを眺めていました。もう29年になるのか…。当時は東京にいなかったこともあって、危機感は無かった。東欧の内戦のニュースと変わらない、どこか遠い国のおはなしだった。

    その、遠い国から来たサッカー選手が当時日本で大活躍をしていた。ドラガン・ストイコビッチ。ワールドクラスの華麗なテクニックを発揮し、ハッキリ言ってしまえば粗暴なふるまいも目立ち、何かと注目を集めていた。1999年、試合中に「NATO STOP STRIKES」と書かれたTシャツを見せるパフォーマンスを行い、Jリーグから注意を受けた。彼の祖国、ユーゴスラビアに対して行われたNATOの空爆に対する抗議だった。世界にはいろんな国があって、いろんな事情があるとは分かっていた。でも所詮は対岸からの認識でしかない。野次馬だ。こちらの河岸に泳ぎ着いた人々の声を目の当たりにして、少なからずショックを受けた。

    29年になる。原爆や震災と同じ。この国の歴史に生きる人間として、忘れてたまるかと思う。何一つ関わってはいないし、今後助けを差し伸べることもないだろうけども。戦争を知らない世代が存在するなんて、戦争が終われば当たり前のことだけど、流行り歌にすらなった。赤軍派、震災、オウム、COVID-19も、みんなみんな風化していく。しかし無かったことにはならない。少なくともCOVID-19ならみんな体験した。幼稚園児だって知ってる「手を洗う」という予防策だって、人類が”発見”したの叡智の一つ。キッズ向けのしつけだって、物騒な言葉を使えば血で書かれたルールなんだな。

    なんて言ってますが実際は街裏ぴんくの動画を見たりして雑な休日を過ごしておりました。まさかR-1優勝するとはね。

    地下鉄サリン事件は、出勤ラッシュの時間帯に実行された。事件当日、つまり1995年3月20日(月)は祝日ではなかった。ネットで調べると、翌日の21日が春分の日だ。春分の日が時々移動するのは知っていたけど、どういうルールで変わるのだろう。ざっくりと調べると、うるう年と同じくような微調整の結果だという。誰が微調整しているのかというと、国立天文台らしい。流石に以下の文言を読んでびっくりした。

    ◆2月1日付の官報(かんぽう)に掲載される「暦要項(れきようこう)」で、翌年の春分の日、秋分の日が決まります。国立天文台は2050年までの日にちを予測していますが、地球の動きは変化しており、必ずしもこの通りになるとは限らないとしています。【回答・酒造唯】

    https://mainichi.jp/articles/20240320/k00/00m/040/041000c

    決まってないらしい。マジで言ってんのか。スマホのカレンダーでも何年も先まで参照することができるが…どうやって決めてんの?そもそもの定義がざっくりと言って昼と夜の時間が同じになる日、みたいなもんで、一年がきっちり24時間X365日じゃないことに由来してズレていくらしい。アナログのカレンダーなら年一更新でいいんだろうけど。諸々のコンピュータシステムはどこかで対応しなきゃならない。天皇誕生日と春分・秋分がちょくちょく変わるのだから、結局は手動でメンテナンスするしかないんだろう。

    政府の見解も(当たり前だが)上記と同様になっている。科学的な検証により決めている筈だが、お伺いを立てて二年分ぐらいが出力されるというアナログっぽさ。これでは平安時代に天文博士だった安倍晴明みたいじゃないか。

    https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html

    ネットにあるサービスでは、2050年までは春分の日がある。そこから先はない。

    https://www.benri.com/calendar/2051.html

    wikipediaによれば、そんな複雑でもない処理で将来の春分の日を算出できると書いてあるが、前述のとおり公告されるまで確定はしないというのが事実上の運用のようだ。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E5%88%86%E3%81%AE%E6%97%A5

    うるう秒だって廃止になった。調べてみたら今年、2024年が停止されてから初のうるう年か?あんなもの、ちょっと対応の概要を見ただけでもコンピュータシステムに影響が大きそうなのわかる。そんなリスクを負ってまで調整する価値が、短期的にはないんだろう。天体の運行に秒単位に厳密に合わせる必要ないという判断はとても合理的だ。だからサマータイムもそのうち無くなるんじゃないかと前々から考えているのだが(なんなら望んでいる)、あれは風習を残す意地みたいなもんかもしれない。現地の人はどう受け入れているんだろうか気になるけど、生まれたときからずっとそうだから受け入れるもなにもないのか。まさしく日本の元号みたいなもんかあ?合理性を欠くように見えて、それなりの使いどころがあると、割り切って受け入れている。

    24年になる。2000年問題の騒動も風化どころか知ってる人も少なくなった。大きな事故は無かったが、それは事故を避けるべく諸々の対処がなされたからだと思う。対処をサボれば逃げもせぬまま津波に呑まれるような事故だってあったかもしれない。公共交通機関が2000年1月1日を迎えるその時間帯の前に止まった。大晦日だから利用客もそこそこいた。「駅に停車して様子見ま~す」って車掌から車内放送あったんだ。

    信じられない事かもしれない。前述したような戦争や災害の記憶も、海を割って避難したとかリンゴ落ちるの見て重力の発想に至ったとか、デブの鰯が炒飯食ってたとか、小野寺美雨さんの告別式みたいな、あやしいエピソードと一緒になっていくんだろうか。

    嘘と誠が同じ割合の一日。夢があるよね。

  • どくしょかんそうぶん

    「東大思考法」を読んだ

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    「まあだ東大とか言ってんのかwww草ァwww」と煽りたい気分がないでもない。東大お受験をクリアするのは単なる力任せの(?)ガリ勉でもできなくはない。「さすが東大卒だねえ」と舌を巻くようなエピソードを生み出すには、ただのガリ勉では無理だ。こういう人物は、当人に生まれ持っての賢さが素養として備わっており、その素養を育むべく子供自体を過ごした環境にも比較的恵まれた面があった筈だ。これは世の中も当人も、ある程度認めるところの事実ではないだろうか。また、たまにとんでもない賢さを持つ人がいる。そのタイプの人は大学受験勉強ぐらいのタスクが、我々で言う中学英語ぐらいの難易度で処理できるんだろう。こういうのは、脳みその機能が優れている、みたいなレベルだったりするんだろう。

    “良い”大学の卒業生が企業から重宝されるのは、前述のような傾向が強いからだ。採用する側だって遊びじゃないんだから、確率的にあたりを引きやすいくじを選ぶ。そんな学歴社会がどうこう不満を述べたとしても、実際に太刀打ちできないことばかりだ。勿論例外あります。にんげんだもの。

    人生の成功って、個人の価値観に拠るところが大きい時代になったのかなと思う。身分相応でマターリやっていくという考えも、現状維持では破滅を待つだけだすすめすすめニイタカヤマノボレ!という考えも、まぁまぁ、どっちでもええよって考える人が多いんじゃないか。一方で「避けねばならない事態」みたいはものは概ね共有できるんじゃないかと思う。少し極端に言えば「火の用心」みたいなこと。では、具体的にどうすれば火の用心に取り組むことができるだろうか。例えば火気使用中にはそばを離れない、そもそも火力を使わない機材を使う、消化の手段を用意する、防火設備の備わった場所に住まいを構える、愛宕神社にお参りをする。いや神なんておりませんけどもー

    ほんでね。にんげんだもの、わかっていても取り組みがうまくいかない、取り組む気力はあるけど実行に移せない、ありますね。あります。あるっつってんだろ((他動詞))ぞゴルァ。人間はクソみたいな失敗から叡智を得ることもあり、火のついたベッドで寝ることだってあるものです。哀れなり人類よ!弥勒菩薩は箱舟の底でコケました。地獄があふれ出す前に、疾く東大神社へお参りいたしましょう。

    というわけで本書。の、Amazonリンク

    何かに取り組まねばならないが、どうしたいいかわからん、みたいな状態から、あるいはそのような状態に陥らないように、その手法が紹介されています。ただ、このような情報は断片的にSNSで振りまかれているようなノウハウに属するものでもあり、極端に画期的であるとも思えませんでした。他の書籍でも書いたと思いますが、そういう時代ですねえ。だからこそ、「耳にタコだけどやっぱりこういうのが真実なのかな?」と腑に落ちることもあるんではないでしょうか。

    自分の思いつき、発想を否定し、他人事のように掘り下げることで、感情あるいは本能的な自己防衛すら排しているように見える。自分の監視役は最後には自分自身だ。しかし自分など信頼に値しないので、紙に書いたりタイマーに頼ったりして具現化しろと。触れたり破ったりできるものに自分の一時的ハードコピペしていけ。脳内イメージと偏在オブジェクトでビッグブラザー互助会を形成しろ。「卵買って帰る」この文字列が自分自身なのだよ。買って帰ると冷蔵庫に既に卵があったりするので人間も終わりだと申しますが――。

    また、身近な目標から、ちょっとづつでも始めて、完了させていく。これを積み上げていく、とか、これこそどんな本にも書いてそうな印象だ。そんな簡単なことなのか、って誰もが思って、多くの人が実践できないから多くの人が実践できてないのです。習慣化という文脈でも表現されるかなあ。

    どっかで誰かが言っていた。人生にはハートマン軍曹が必要だ。その通りかと思う。願わくはあんな惨めな形でしごかれるよりも、もうちょっと誇りを持って日々の課題に挑戦が出来ればとも思う。そんな考えだって、邪魔な事があると本書は仄めかしている。思考に絡めとられているぞ、と。「嫌な思いをしたらその時の出来事を紙に書いて貼っておけ!!わかったかウジ虫ども!!」

    とまあ、実践に勝る学びなしというお話です。SNSどころか戦前から言われてねえかなあ。だとすれば、ま、そういうことなんですね人類~🤣🤣