• ふでのゆくまま

    季節に「終わる」という表現を最初に使ったのは

    web知人のブログを久しぶりに読みに行ったら、20日も前の投稿にもうすぐ夏が終わると書いてあった。こちとらそろそろ来るべき夏休みに備えてテキトーに予定たてたりお仕事を終わらせようと努力したりしているというに。恐らくは、6/22に夏至であるのだから、現代の暦においても子供らの夏休みシステムにおいても8月で終わりというのは正しいのかもしれない。暑さ寒さも彼岸まで。

    夏向けのお料理レシピでも欲しいもんだと思った。冷蔵庫で作り置きしておけるものがあるとよい。お総菜屋さんで売ってるような感じのーそう山盛りのサラダとか。いやそんな定番なの調べればいくらでもレシピがあるんだけどね、身につけるつもりで何回か作らないとダメねえ。

    今更W杯の話なんだけど。今回、日本VSコロンビア戦で、終了間際にコロンビアはキーパーを交代。御年43歳で最年長出場記録が更新されたと。このキーパーは1994年と、1998年のW杯では正キーパーとして出場したらしい。1994年のW杯、コロンビアと言えばアンドレス・エスコバル – Wikipediaあの事件なんだけども。あの時のキーパーがそうだったりするのだろうか。

    季節が終わる。各々が何かを感じ、終わったと実感する。プールの監視員ならそれなりの、デパートの販売員ならそれなりの、サラリーマンならそれなりの感覚なりデータがあって、夏も終わったなあと。人により所により多様な終わりどころがあるから、「暦の上では今日から秋です」などと言う。幸いに冬に特別の備えが要るような場所に暮らしていない。コートは年中部屋の隅にぶら下がっておるので寒い朝に着ていけばよい、後は長袖の服と、夏の間締めなくてもよかったネクタイを引っ張り出す、そんなもんで準備が済む。

    と、しかし、思えば今年の冬は記録的な雪で、近所のDIYショップではスノーダンプやスコップ売り切れの札がしばらくの間掲げられていた。何がしか備えでもしたほうがよいのか、しかし何を用意したものかわからない。山梨のあたりではもはや災害と呼べるレベルだったが、同時期に冬季オリンピックなど盛り上がってたのでテレビはまともに報道しないという有様だった。水と電気がなければ食えないカップ麺がどこでも売り切れるという謎の事態にもなった。

    今年はそのような事がないように祈るばかりだが、んまー八月中から心配するもんでもないか。夏休みに台風重ならなければまあそれで。

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    なんなら一週間で終わるとすれば

    自分以外には全く意味はないが、当人には非常に重要な節目というものが存在する。

    自分にも日付が近付いている。何かを為しえたとかそういうのではないし、自分ひとりの事柄なのでまあ仮に明日事故に巻き込まれてどうにか生きながらえてそこらのベッドの上でその日を迎えるような事になっても別に変わりはなく、その日付がやってくる。このイベントをクリアするための条件はひとつ、生きていること、もう一つは今の生活が続いていること。

    この日付がいつかやってくるだろう、ということは20になる前から気付いてはいたんだけど、実際にこの日が近づいてきていることに対して。まずは不安がある。この日をこういう状態で迎えるということは、この日が来ると気付いた当初、想定していない。はっきりとこんな筈ではなかった状態の人生、タイムマシンに乗っかり当時に戻り、2014年の夏をこのように過ごしていますと伝えたら自害してしまうかもしれない。あゝがっかりだよ。実際は最初に死んでしまおうか、なんて考えたのは20も過ぎてからだった。死ぬには遅い。

    おっさんになると若いころの過ちを酷く後悔するものらしい、ということは実際、思い当たる節があった。そのテの話を実際に目の前で聞くような機会も一度や二度ではなかった。へー、などと言いながらも上の空で聞いていたことが多いと思う。笑い話というでもなく、身に染みる教訓という訳でも…いや、そうだったのもしれないが自分の心には響かず、「んじゃそろそろ…」などと誰かが口にすればなかったことになってしまうような、他愛もない話の一つとして、それらおじさま、おばさまのトークはどこかに消えて行ってしまった。

    そして今ではそのような話をする側の年齢になった、ということは20になる前には気付かなかった摂理。さて、自分は何を話すだろうか。他の人に語るべき言葉として、どのようなものを繰り出すことができるだろうか。そもそも話したいのだろうか。惨めな思いでいる日々を、自嘲して救われるということはあるだろう。きっとあの時こうしていれば、こんな事にはならなかったよね、そうだよねそうだよねと語りたいような気分がは自分にはないし、訓示がましく若き方々へ語る事もない。

    地蔵になりたい。外来語でいうと、ライ麦畑で捕まえたい。(しかしあの本はつまらなかった、途中で放り出してしまったので読んでない)

    線分の長さを等分する。長さを二で割る方法と、長さを二倍する方法がある。18年前に今から二倍と計った日がやってくる。食い物の好み、変化なし。音楽の好み、変化あり。体重が紆余曲折を経て増えているのがヤバイ。人格形成における格調、成長なし。知性、落伍。品格、下衆。逮捕歴、なし。

    目を覆いたくなるような経過だけが手元に残った。これを語るに面白味がなく、綴るに味わいがない。緻密な記録でもあれば、例え道端の自販機の写真でも人々を畏怖させるに足る、さすればわてくしの本日の情報、ここに記すが、もがり。

    眠い。

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    季節の巡りをその身で認めずにはおれない輩の、

    台風一過にゲリラ豪雨。

    ここ数年と同じ味わいを振り撒きながらの夏、登場。蝉が鳴くとか入道雲とか、そういう風情とはちょっと違うのが昨今、やれダイヤが乱れて帰宅ラッシュを直撃しました、とか、XXX駅前水没wwwww(画像つき)とかそういう類の情報で夏の到来を認めることと相成る。こいつぁ新たな東京の夏ですか。江戸の自分には風鈴がりんこんりんこん鳴ったもんでえ…無くなっちまったなあおい。

    と言うには無理がある。今までも夏を知らせた風情が、まだ完全に損なわれたりはしていない。例えば子供たちが夏休みに入り朝の出勤時に見かけなくなったり、となれば、電車が学生がいないぶん空いたり、または残業もないので早く帰ったら駅で降りてまだ明るい、八百屋の店頭に西瓜が並んでいるとか、洗濯物干してたら脹脛を蚊に食われたとか。あゝ夏だ。ただこう、そういう準備が為され、また着々と施行されていることよりも、もっと体感的な所に季節の変化を楽しむゆとりがあるわけで、やっぱ夏空だよなあと思う。過半数の人間はきっと昼間には屋根の下で働くのであり、空すら見えないことだってあろう。あっしですな。そんな人間がうへーーー夏ktkrとなるのは休みの日に見上げる空模様ですわ。今年はまだそんな休日が来ない。曇天曇天。

    学生の頃のような長い夏休みも貰えなくなり、夏だからって会社の売り上げが伸びるわけでもなく、日の長さにも特にメリットがないし、夏の行事にもさほどご縁がありません。嬉しい事なんぞない筈なんだが、テンションの駆け上がること、緩やかなれどもお子様時分と相違なく、そのままに、アラフォーと成り果てた由、何卒よしなに。

    こいつも夏っぽい雰囲気につられてお買い上げ、普通のビンだと思って酒を買ったら、届いたらなんと瓶の形状が三角柱であり冷蔵庫のドアストッカーに入らない。画像見れば何となく変な形かなとわかりそうだけど、買ったところはこの画像じゃなかったんよ。長靴みたいなデザインのもあったな、そういえば。しょがなし、ごろりと寝かせて放り込む。邪魔。トマトさんチーッス。内壁と瓶の間にトマトを載せて並べてみた。何かバイオハザードのボスでも産まれそうな眺めになり、いったん瓶をだす。ついでに味見。思ったよりレモンの風味がしない…甘ったるくないのは良いが、こいつはイマイチだったか。炭酸水で割っても物足りなさそう。

    んじゃ何か作れるか、レシピを探してみようかと、探すと自家製でこれを作るレシピばっかり。自宅で酒を造るのって一応法に触れるんじゃなかったっけ。あゝでも、これは酒を材料にした料理と一緒か。何かを発酵させて酒にするのはマズイのだったか。レシピは凝ったものばかりで試す気にならない。

    不動産から電話が来ておったまげた。木立の剪定でベランダに人が入る、というものだった。梯子でも掛けるのだろうか。ここ何年か手入れをしていた人を見かけなくなり、伸びるが儘だったのだが、だれか依頼したのであろう。果たして自分のおらぬ間にザクザクと木の枝が切り落とされたようで、大変に日当たりが良くなったが、当然ながら日中暑くなりそうだ。葦簀でも買うか。こういう昔ながらの実用工芸、兎に角質の悪いものがネットで売られている印象。ゴザは失敗だった。やはりホームセンターなりに足を運んで買って、届けてもらうのが一番よさそう。しかし冬の間もしまう場所がないし、捨てるときも面倒だろう。

    コロッケ蕎麦。喬太郎師匠の落語、の枕、のアレがあまりに有名である。乾麺の蕎麦を買ったので、コロッケ蕎麦作って食おうとしたがコロッケ忘れてしまった。安い冷凍食品のコロッケこそが本寸法と紹介されているが、ここは贅沢に美味いコロッケを買ってこよう。麺は安く、ツユは安く、コロッケは高級品でいこう。しかしこの街、日本の日常食卓のお総菜がイマイチ充実してねえんだよなあ。駅ビルになんか洒落乙なサラダとか量り売りしてるテナントあるけどさあ。ヒジキと大豆の煮ものとかポテトサラダとか山盛りで買って帰りてえ。この際だから出かけて買ってくるか、そう遠くないところに超有名店のサトウがあったのでありました。あまりに行列でこの十何年近場にいるのに買い物したことなかった。メンチカツ蕎麦でもいいよな…ううむ。

    台風の時にしまい忘れた風鈴がどっかに行ってしまった。しかし今回の台風、史上最強と言われたものの、東京到着時点ではそこまでの風雨ではなかった。ならば風に飛ばされたとは思えない。どこいった。あの風鈴、そもそもどうしてぶら下げることになったのか全く覚えていないがここ数年ぶら下がったままだったかと思う。風に揺られて、というよりは自分が洗濯物を取り込む時に触って鳴っていた気がする。

    新しい風鈴を買おう。青い空を背景に、風鈴がぶら下がった様を想像すると、この冬に備えなく雪に埋もれた街をまた思い出す。夏が終われば、今度はどこかにしまおう。そのための箱も用意しよう。何の思い入れもない風鈴を、人生の輩とすること、世界はそれを愛と呼ぶようです。

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    かつお

    先日の非常食アップデートというついでに違うメーカーのツナ缶を買い、やはりはごろもが美味いか、などとはごろものパッケージを見たら、かつお油漬けフレークとあって目が点になったのち飛び出た。シェー。たしかにパッケージにはシーチキンと記載されていて、「ツナ」でははない。ならば、かつおでも問題ないのかもしれない。一方のメーカーにはまぐろと書いてあった。

    シーチキン | 商品情報 | はごろもフーズ

    一部商品だけのようだ。こうなるとまぐろとかつお、食べ比べても違いが判らないのではないか、などと思ってしまうが、冷静に考えるとそんんんなに違いもないなこれ。刺身で食べ比べればどっちがまぐろかわかりそうなもんだけども、火を通した状態ではさてどうだろう。などと調べていたら回収騒ぎがあったらしい。すでに食べてしまったのは対象ではなさそうだ。非常食はこういうところも気を付けないとダメか。

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    炊事場にて生命の惨禍にまみえること

    毎年。夏ともなれば水回りの衛生には他の季節以上に気を遣う、という世間の常識がどうにも疎かになる。疎かにしたままでは当然ながらそれなりの事態が発生するわけで、コバエが沸いてしまった。物陰に野菜くずが落ちている、などという理由で発生したりするのだろうけど、一度掃除をし、コバエ取りのトラップを仕掛けて片付いたかに見えたが、再発生してしまって難儀している。もう梅雨も明けていくというに。

    こまめに繰り返し対処すれば減っては行くだろう、そうこうするうちに居なくなった。お掃除の上にまたお掃除。憎むべき哉人生。これが面倒で夏場は自炊頻度が下がる。暑くてことことと野菜スープを作る気にもならないし、そもそも食材も冬に比べて傷みやすい。冷たくても美味しいものを作り置きしておくというのが冷蔵庫が普及した世界の知恵ではあろうが、生憎そこもそんな豪勢な冷蔵庫ではございませんでー。とはいえ、何か覚えておいて損はないな。冷凍庫を開けたらズブロッカが入っていた。

    コショウは何をお使いか、少し前までゴリゴリと回して振りかける奴をつかっていたん。あれ、確かに大変に良い香りがする優れものなんだけど、あの蓋が一切外れない。捨てる時に分別できず、蓋ごとビンとして捨てた。そういう作りも今時どうなのか。

    ツナ缶を買ってきて、玉ねぎとキャベツのサラダにどばどばとかけて食うのが美味い、ふと、賞味期限を見て非常用バッグにツナ缶入ってるの思い出した。取り出して賞味期限チェックすると、半年ほど過ぎている。これは即ち、非常用バッグを一年ぐらいはメンテしていないということだ。どんな惨禍も忘れてしまう。買ってきたのはバッグに入れて、出したほうを食べた。体調に異常はない。そういわれれば勤務地の備蓄もチェックしていない。

    コバエトラップには十数匹は捕獲されていた。それが4つほど。憎しみを込めて燃えるゴミへ、六畳一間の我が家では蚊取線香のスイッチがはいり、虫を殺める、そこに慈悲の心がなかったと言います。