ふでのゆくまま

夜の巷を舐りて明かす

夜の公園が好きと言うか何と言うか――。

つうても半端な夜ではない。例えば金曜日。終電から吐き出された人々ももう通り過ぎたような時刻の、午前一時半あたりの公園が好きだ。都会の公園、真っ暗な視界のどこかしらには幽かな人の気配を感じつづける。木立の向こうはいつでも車が走り抜ける通りがあって、車が通り過ぎると鮮やかに発行するライトが目を惹く。心許ない照明の足下に気配の正体がやってきては、通り過ぎていく…。その多くは当然ながら成人男性か、それを含む二人連れだ。やがて朝を迎えるに至り、疲れを覚え、帰ってただ寝る。

一番気配が鎮まる時刻はやはり午前三時ぐらいだろうか。この公園の場所だと、終電から二時間、始末までも二時間。夜の底。暗いことには暗いのだが、何かが通れば気付く。車の通りも流石にまばらになり、近づいては遠くなる幽かな走行音が、一台一台を判別できる頻度になる。暗がりに心許した体で、じっくりと眺めていると心が穏やかになっていく。湯船に疲れるまで浸り、やがてリラックスに至るようなものだ。天然の暗がりのかけ流し。星屑が銀河からぽたりと背中に~♪

いくらトーキョージャパンでの事とはいえ暗がりに一人というのは用心にこしたこたあない。家無き人々に紛れて逃走中の凶悪な輩がいないとも限らない。だから酒は飲まないようにしているし、靴を脱いでベンチに胡坐、ということだってしない。常に鍵は落としてないか気にしながらの移動、財布は小銭入れしか持ってこない。ここは昔バラバラになった人体が発見された。今んところ霊もあの世も弥勒菩薩の救済も信じてはないが、世の中には無念の内に亡くなった方々がおり、哀悼の意を捧げることが詮方ないとも言い切れない思いがある。

暗がりは人を素直にする。煙たい説教も不謹慎な炎上も聞き入れることができそうな、心の用意ができる。目を閉じるなどとは根本的に違う。

その……なんのかんの、まあ時間があったのが自分の20代前半でした、というわけで。最近では例にもれずにスマホ持ち歩いているから、ゲームでも”読書”でもバッテリーの切れるまで堪能できる。となると家でも公園でも一緒と思う所、やはりそういう雰囲気のあるところにいるというのは全然違う物なんである。プロのミュージシャンが録音するスタジオにこだわるようなもんだ。何を言うか。

流石に朝まで夜明かしするなんて年に一回もないが、20代の頃よりももっと「困ったなあ」というような状況には頻繁に遭遇している筈で。ところがまあ困ったまま夜更かししてあとは寝れば良い、というわけにもいかなくなったのですよこちとら。お年を召した。

朝が来る。世界に色香が。

最近、どうにも景色が美しく見える。何を見ても印象深いなあ、という感覚になることが多い。心に沁みると言うか何と言うか――。あの若いころの、人気の少ない真っ暗な夜の公園で感じていた心象が、休日午前の人賑わう駅前でスマホ持ってうろうろ歩きながらでもやってくる。これは危ういものか楽しいものか。実際、歩きながら通り過ぎる人の様子などを眺めてしまう。昔からこうだっただろうか?最近は自覚がある。あまり褒められた行動ではないので慎むべきもんで。カモフラージュ的な意味も兼ねてデジカメでもぶら下げて趣味とするか?一番欲しかった時期に結局買わなかったしな。お散歩の楽しみが増える。

昼の巷を舐りて暮れる。

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