「華氏119」を観た
それは自由が燃える温度。という格好いいコピーだったのは「華氏911」のほう。元ネタはもちろん「華氏451」そっちは氏の代表作って扱いらしいよ?では本作、119はどうだろか。
ネット上の多くのレビューで、「この作品も主観的な表現に過ぎないけども」といったような前置きというか、但し書きというような記述がある。ドキュメンタリーの業なのかもしれないけど、ドラマティックに仕立んがためか、主義主張への色付けのためか、普遍的に見せようとして帰ってバランスが怪しいようなもの、ありそう。実際に「XXXという作品がそうだ!」と言い切れるような考察は持ち合わせていないけど、熱意がそういう転がり方をすることは、じんせいにままあるだろう。ほら、個人でブログを書いているような奴もあぶない。
作者の意図したことかは知らないが、強烈に印象に残っている場面がある。教師が待遇の改善を求めて、禁じられているストライキを始めた、というトピック。やがてトピックは学校のもう一人の主人公である生徒と、アメリカの主演俳優である銃の問題に変わっていく。作者は活動を主体的に進めている生徒の団体に対面し、君らのような子供を育てることを誇りに思うと告げる。生徒のにこやかな答えはこうだ。
「違うの。SNSが育てたの。私の携帯が」
時代がそうだ、と言えばそれまでだろうけど、SNSも携帯もどれだけトリートメントされているものかと考えるに、ちょっと怖くないか。そこはあちらの国には、自分が知りうるSNS以前の社会のモラルや、なんなら意見をぶつけるお作法みたいなものがあるんだと思う。自分だって2007年からSNSになじんだweb2.0マンのつもりではいるし、インターネットすばらしいとか言って拾ってくるトピックの多くが”洋物”だ。それでも、SNSという概念の土台でもある社会が違っているなあと感じることがある。そこで育った人たちなんだと。ネットを繋いでなおさらに遠い。指をくわえてみてらんないんだけどね。
などと、思ってしまうことがまた思う壺なんではないか?こいつらは世の中を変えるヒーローじみた快感に酔ってないか?マイケルムーアが取材に来たぞ!なんて喜ばしく思ってないか。どこかで大人に使われているのだろう。なんて。そうなってしまった時に「まさか」ではなく「やっぱりね」と思える。どうしても距離を置いたふうにふるまってしまう…。
いつまでナチスを引き合いに出してんだよと思う。トランプと同じく一応は真っ当な選挙で選ばれたからか?ただ、いつでも自分の住んでいるところで起こりうるという、普遍的で本質的な教えが、教えが、教えが、教えが、まったくピンとこねえのよ。なんでかなって、エンディングテーマ曲のついたスタッフロールで我に返る。あ、そうだった、これただの映画だった。はっきりゴールドマンサックスと言っているナレーションに「証券会社」と字幕がつく、ただの映画だったわ。どこからどう見てもアメリカの話だった。黒人に中指立てたのも白人のやったことだろう。知るかぼけ。
大統領だって銃乱射した人間だってSNSで育つわ。
どーにも。