洗い髪が芯まで冷えて
別に自分だけではないだろうけど、このようなブログに書く文章の下書きつうものが幾つかある。単位は本で良いのか?では、何本かあるということで。これが溜まると内容の鮮度が下がる。例えば今その下書きとやらをdropbox覗いてみると、師走だのなんだのと書いてある。あゝ。季節のことがらに対する公開日のズレによる鮮度の低下もそうだ。下書きを認めた時に頭に浮かんだことを、ただ投稿フォームにコピペするだけでもそこに古さを感じる。これも20年もすれば懐かしいという感情に変わるもんだろうが、今この時点では「機を逸したか」という感情のほうが先に来る。メールでもあるよね、下書きの時点で送り損ねたなあということ。
そこでTwitterですよ、ということになる。日本で流行り始めるちょっと前、2007~2008年ぐらいが一番使っていた。今ではfacebookがその役を担う。facebookで繋がり所望の方は良ければご連絡。ネット知人でも繋がってたりする。こういうのを使っていると、当たり前だと思っていた「投稿のタイトル」「メールの件名」というのが実は結構な「枷」になってたりもするんだと気付く。ところが無いならば無いで不便なもんで、例えばネットで何かを検索するとして、タイトルがないものは探す側にはとてもとても探しにくい。しかしタイトルと中身に関連性が薄いものばかり書いてるな俺は。その割に長文だったりする。
ああ、下書きの時点ではタイトルがないからだな。それはあなたの下書きにもないでしょう?ファイルにして一個一個別の下書きにするぐらいマメな人ならあるかもしれない。また、いくつかの文章を一回の更新で突っ込んだりもするからなあ。何をテーマに書くでもない、何時何時何時(いついつなんどき)に公開するでもない。ちょっと発想を伸して広げよう。無尽蔵にストックされ続けるテキストが、何かのタイミングでひと塊の旅団となって公開されていく。これが現状だと思う。ながーーーーい布の一部だけ隙間から見えている感じ。布が動くと見える範囲が変わる。今見えているものは見えなくなる。映画のエンディングロールみたいなもんかなあ。こういう仕組み、近いものはあるけど、なんか作れないかな。ただ、いったんインターネット上に公開すると、その、過去のものを確実に無き者にする方法が難しい。
ほれみろ。
下書きがないともう何が書いてあるのか意味がわからないわ。文章が上手い人というのは、こういうものを読ませることが出来るらしい。さらに頭が良い人はこういう物を、読みやすいと言うか、まとまったと言うか、うーん。一つ上質なフォーマットで並べて見せる。勿論何を文章にするかによるけども。素直に嫉んでおきませう。ぐぬぬぬぬ。
もっと頻度高く書いていたころは(このブログに引っ越してくる前。フリーターの頃だ)下書き→公開のサイクルが早かった。今では遅々としたもんで、週に一回から月に一回ぐらいに移行している。よってこのエントリが今年の二回m…って四回目だった。結構更新してるが、中身無いな。いや日記だろそんなもんだろ、といやぁそうなんだけど、もうちょっとなんとかね。高校生の頃までは勉強とかしたことないと言っても過言ではなかったけど、アラフォーとなってはもっと頭が良くなりたい。はぁーーーー。
穏やかな苦悩を飼い馴らす。何時か成し遂げるでしょう、という望みをふっと忘れてしまうことを楽しめる。どうもその範囲と取捨選択に誤りがあったというのが反省点か。けっ。単に怠惰なだけだ。給湯器の修理がすんで何日かぶりのユニットバスにつかり、知ってますよと一人悪態をつき、洗濯物を干して夜更けの凍った月を仰ぐ。
雪の気配がない。