ざっき

dancyuを懲りずに読んでいたら、大竹聡という名前を見かけた。おや?この御仁は確か、T倶楽部の酒飲み企画に何度か登場していた人ではないのか。焼酎お湯割りに合う梅干しはどれか、みたいな企画。これは個人的に傑作だと思う企画だ。大竹氏が企画する「酒とつまみ」という…冊子…?は自分も読んだことがある。Amazonでも売っていた。

んで、梅干しを買ってきた。夏には、衛生面を懸念して自作のお弁当を職場に持っていかない。自分の弁当にはほとんどご飯は入れない。でも、お弁当と言えばご飯に梅干しがちょこんと。これが伝統的な設えで、母親の弁当にもコンビニの弁当にも梅干しは入っているもんだ。ご飯の雑菌を抑えるとかなんとかいわれがあるけど、実際のところは、昔ながらの強烈な塩と酸味が効いたような梅干しじゃないと衛生面での効果は期待できないらしい。スーパーの店頭においてあるのは、減塩だとかハチミツだとかで、いかにも効果がなさそうだ。自分で漬けるなんてのもなあ…そんなわけで、梅干し作戦を実践したことはない。では今回スーパーで買ってきた物はどうするのか、そらあ冷房効いた部屋で麦茶のつまみでモニュっと一つつまんで食べてみるとうますっぺえという、

塩梅で。

みそ汁のだしっていつもの粉のやつをファーって振りまいて終わりだったんだけど、かつおぶしで出汁を取るのに挑戦。挑戦もなにも、湯がく程度のことなんだけど。本格的にはちゃんと漉したりするらしいんだけど、自分は面倒なので穴あきのお玉で掬って、八割程度は鍋のかつおぶしを回収したかな、ぐらいで妥協。あとはいつも通りに、具材入れて火が通ったら味噌。特に美味いとも不味いとも思わない、試しがいのない結果になった。

じゃあ、いりこだしにもトライしよう。カーチャンの作るみそ汁は、にぼしが入っていた。カルシウムとらせようという母のこだわりだったのかな?と思いながら料理サイトで調べると、どうも「みそ汁はいりこだし」という風潮があるらしい。今までずうっと、先に挙げた顆粒のファーで満足してきたんだけどな。昆布とかつおの二択も適当に選んで使っていた。こちらはかつおぶしに比べて試しがいのありそうな予感がある。ネット調べで前の晩から水につけておくと良い、と書いてあったので、ボールに水、いりこを適当にどぼっと、冷蔵庫へ。これが流石に多すぎたようだ。翌朝、いりこを入れたままに鍋に移して着火、あとは具材を入れて火が通り次第味噌。これはこれは、確かに別の味わいだけど、頭もワタも取らないままでいりこを沢山入れすぎて、少々苦い。いりこを食べてみるも、身もあまりおいしくないぞ?次は頭は取ってみよう。

おさかなグリルが折角あるものの、掃除や準備が面倒に思えて、焼き魚が大好きな割にはあまり使ってない。週に一回もない。アルミホイル敷いて焼いてるから、かなり掃除の手間は軽くなっている筈と思っているんだが、そもそも面倒だったら、ホッケの干物だって鰤の切り身だってフライパンで焼けるもんな。逆に、おさかなグリルで焼くの、別に魚じゃなくても良いよね、とばかりに鶏のモモ肉焼いたらそこそこ美味しかった。アスパラガスなんかも良い感じ~。使えるものは使わないと、とはいえやっぱり、アルミホイルは事実上の使い捨て、掃除とのバーターとはいえ面倒でもったいないし、ホイル外すとき結局汁をそこらにこぼしたりするし。足の甲にサバの油こぼしたことありますか皆さん。

そこでグラタンとか焼いたりするような、オーブンに突っ込むような皿は使えないかと思ってしらべてみると、そのものズバリ(昭和)さかなグリルに入れて使う調理皿があった。なるほどねえ。小ぶりなの一個お買い上げ。グリル用途ならずとも、例えば作ったものの冷蔵庫ストックとしても便利そうなサイズ感。気を払うべきはこいつは落としたら割れるということ。割れ物なしの気軽さに甘えて数年、器を流しに投げ込んでガロロン!音を立てるもいとをかし、そんなことやってる自分がこのシャレオツ皿を無事に扱えるだろうか。ううう精神の不安を覚える梅干し食べよう。

すごく見たかった映画がAmazonプライムビデオにあって、喜んでみようとしたらお住まいの地域では見れませんという。たまにある「おま国」状態。ちぇ。プライム無料枠じゃなくて有料でも見たい作品だったんだけどね。見れないんじゃ無料も有料もない。

頭を取ったいりこだしの味噌汁も美味しくはなかった。あれまあ。もっと減らすのかな。

遠きかな 出汁の塩梅 つゆ知らず 

残暑の一日でございました。

ケイコとヨシエ

自分はまだ、子供の頃に見た記憶がある。三味線しょって大声張り上げてやいのやいの、にぎやかで大変楽しかったもんだ。その当時だって、元気な婆さんという印象だった。長生きしたもんだわ。内海芳江が亡くなったのは1997年だというが、そんな前だったのねえ。いやーげんきだ。

しかしね、不謹慎ながら誰の目にももうそろそろ、という大往生でありますから、驚きもなく、しみじみとするばかりで…。世間の注目はもちろん、ナイツに集まるわけです。どんな芸能人も弄ってきた漫才で、師匠が身罷ってさあ、どう弄るだろうか。あるいは弄らないだろうか。

「華氏119」を観た

それは自由が燃える温度。という格好いいコピーだったのは「華氏911」のほう。元ネタはもちろん「華氏451」そっちは氏の代表作って扱いらしいよ?では本作、119はどうだろか。

ネット上の多くのレビューで、「この作品も主観的な表現に過ぎないけども」といったような前置きというか、但し書きというような記述がある。ドキュメンタリーの業なのかもしれないけど、ドラマティックに仕立んがためか、主義主張への色付けのためか、普遍的に見せようとして帰ってバランスが怪しいようなもの、ありそう。実際に「XXXという作品がそうだ!」と言い切れるような考察は持ち合わせていないけど、熱意がそういう転がり方をすることは、じんせいにままあるだろう。ほら、個人でブログを書いているような奴もあぶない。

作者の意図したことかは知らないが、強烈に印象に残っている場面がある。教師が待遇の改善を求めて、禁じられているストライキを始めた、というトピック。やがてトピックは学校のもう一人の主人公である生徒と、アメリカの主演俳優である銃の問題に変わっていく。作者は活動を主体的に進めている生徒の団体に対面し、君らのような子供を育てることを誇りに思うと告げる。生徒のにこやかな答えはこうだ。

「違うの。SNSが育てたの。私の携帯が」

時代がそうだ、と言えばそれまでだろうけど、SNSも携帯もどれだけトリートメントされているものかと考えるに、ちょっと怖くないか。そこはあちらの国には、自分が知りうるSNS以前の社会のモラルや、なんなら意見をぶつけるお作法みたいなものがあるんだと思う。自分だって2007年からSNSになじんだweb2.0マンのつもりではいるし、インターネットすばらしいとか言って拾ってくるトピックの多くが”洋物”だ。それでも、SNSという概念の土台でもある社会が違っているなあと感じることがある。そこで育った人たちなんだと。ネットを繋いでなおさらに遠い。指をくわえてみてらんないんだけどね。

などと、思ってしまうことがまた思う壺なんではないか?こいつらは世の中を変えるヒーローじみた快感に酔ってないか?マイケルムーアが取材に来たぞ!なんて喜ばしく思ってないか。どこかで大人に使われているのだろう。なんて。そうなってしまった時に「まさか」ではなく「やっぱりね」と思える。どうしても距離を置いたふうにふるまってしまう…。

いつまでナチスを引き合いに出してんだよと思う。トランプと同じく一応は真っ当な選挙で選ばれたからか?ただ、いつでも自分の住んでいるところで起こりうるという、普遍的で本質的な教えが、教えが、教えが、教えが、まったくピンとこねえのよ。なんでかなって、エンディングテーマ曲のついたスタッフロールで我に返る。あ、そうだった、これただの映画だった。はっきりゴールドマンサックスと言っているナレーションに「証券会社」と字幕がつく、ただの映画だったわ。どこからどう見てもアメリカの話だった。黒人に中指立てたのも白人のやったことだろう。知るかぼけ。

大統領だって銃乱射した人間だってSNSで育つわ。

どーにも。

翼よあれがごみの日だ

最後の一枚、コンビニでDANCHUと炭酸水を買った時の袋を使ってしまった。もはや私はゴミを捨てることができない。

冷蔵庫の鶏もも肉や玉ねぎを見て途方にくれる。卵にトマトに絹ごし豆腐…。中身や玉ねぎの皮はともかく、パッケージがあるのをどうしたものか。非常事態だ、トイレに流してしまおうか、とも考えたが思いとどまった。賃貸暮らしでそんな無茶をしてはあとあと痛い目にあう。それに非常事態は自分だけの話で、明日の朝にはいつも通りにゴミ捨て場が賑わうことだろう。だってしょうがないですもん、なんて言い訳も通らない。これは自分でなんとかせざるを得ないわけだが、幸いにしてガスコンロがある。燃やしてしまおうかと考えなくもないが…それでも燃やしたところで無に帰るわけではないのだ、何かしらが残る。理科で習ったわ。結局はゴミ爆誕のはなし。

捨てれないなら使えばよいじゃない。名案の響きがあるが、それでも、それでも。最後にはゴミなのだ。生涯使えそうなものも、自らの亡き後誰かに引き取って貰うようなものも、人類文明の域にとどまる限りは行きつく先はゴミでしかない。沈んだ船が魚の住処になったり、廃墟に野鳥のコロニーができたりもするが、同じ文脈を文明に当てはめようとすれば、先に滅ぶことが条件だ。ゴミとそれ以外を仕分けする文明がなくなることが。ひらめいた。捨てれないならなくせばよいじゃない。今は亡きオリンピックの送り火。象徴としての炎をともす依り代の豊富さゆえに文明は美しく滅ぶことができる。ニュートン力学にそんなエピソードがあったはずだ。幸いにしてガスコンロがある。割りばしの先にピザハットのチラシを巻き付けて火をともす。ゴミを捨てれないなら、炎を呼び寄せればよいのだ、俺は嬉々として部屋を飛び出し、出鱈目に駆け抜け、教会の桜によじ登って眼下に焼け落ちる街へ絶叫する。

プリンキピア!

好きな作家が筒井康隆だなんて思い出すからこんな目に遭う。綿矢りさあたりに宗派替えすっか。

で。

今までの人生で数回と買ったことのない、半透明ゴミ袋をかった。自治体所定のゴミ袋を要求された街に住んだことはある。あれとは違って、色気のないしょぼいポリ袋。薄い。いかにも簡単に破れそうであまりすすんで使いたくない感じがある。スーパーやコンビニの袋と比べて手提げ部分がないため、不便だ。うちに生ごみ用のゴミ箱なんてないわ。フックで手提げ袋引っ掛けてそこにポイってな。一人暮らしでは、自分のように自炊派でもコンビニ袋ぐらいのサイズが適切だ。もちろんゴミには燃やすごみ以外もあるけどさ。結局45Lとか買っても無駄が多い。20Lぐらいのサイズで手提げ付きのゴミ袋、いちど見かけた気がするんだけどな。

これは完全に気のせいだ、と思いたいのだが、その、うっすいゴミ袋に生ごみを入れると、妙に匂いが漏れる。結果ゴッキーとご対面したりもしたのだが気のせいで済ませていいのだろうか。今後も適宜買い物の際はレジ袋を買うことにした。ほんと、なんだこれおい。

じんぶつのぞう

人生になんどか訪れる、心を奪われるという体験、その一つに、いまだ記憶が鮮明なものがある。とあるホームページを見たときのことで、stingの”Shape of my heart”のMIDIと共にゆらゆらと揺れる地球の画像があった。ホームページでこんなこともできるんだな、という驚きとともに、どうしたことか、ゆらゆらした地球はそのまま心に沈み込みんでくるが如くに。考えてみればこれは20世紀の話かもしれない。勝手にMIDIが再生されるホームページとか、まさにおじさんの思い出ってエピソードだ。SNSも出会い系も産まれる前の、静かな静かなやり取りの記憶は、一つの青春と言えるのかもしれない。

梅雨が明けては思い出話。ただの思い出ばなし。ああ美しい小説でも読もうかしらん。あ、小説、そうだそうだ、当時、夏目漱石が好きでしょと聞かれて、夏目漱石なんて読んだこともない自分は、その時名前を思い出した村上龍なんかが好きって答えたら、はぁ?って驚かれたのだった。以降も、特に好きな作家はいない。

仄かであることは美徳と思いたい。

そんで電子書籍を買うかとごそごそしていると、週刊漫画雑誌も電子書籍で売っていることに気づく。お値段びっくり300円!あれ、400円のもある!!高い!!調べると、コンビニで売っている紙のほうももっと高かったりするらしい。自分は180円とかで買えた時代があったと記憶している。少年ジャンプしか買ったことはないと思う。途中で紙の色が変わっていた。緑とか薄いピンクのような色の紙に印刷されていて、塗りつぶしの個所はかすれて白っぽいまだらになっていた部分とかがあったもんだ。

電子書籍なら印刷や紙質の問題は何も関係ないはず。どうなってるのだろうかと先ほどの週刊漫画雑誌のサンプルを見る。なんというか、単行本の色をしていた。グラビアも、まだあるんだなー…需要はあるのかしら。

筒井康隆氏のサイトで印象深いものがあった。http://shokenro.jp/00001692

筒井康隆かな、好きな作家。でも正直に言えば、「夢の木坂分岐点」とか「旅のラゴス」とか面白かった筈なのに、内容なんぞ何も覚えていない。一方で、生放送の朗読会でおまんことかきちがいとか読み上げている映像は記憶に鮮明だ。当り前だ、わはは。ググって近影を拝見するに、さすがにお年を召されたね、と。好きな作家と心当たりがあるものの、氏のキャリアの長さと、自分の読書嗜みの乏しさによって、すくなくとも半分は未読のはずである。なんか適当に読んでみようか。

ところでつげ義春をググるたびに存命だったと驚いている気がする。