-
靴の穴が
ここ二年近く、ご近所の買い出しやお散歩で使っていた靴に、穴が開いた。というのに電車の中で気づいた。いつから開いていたのか。歩数にして200万歩は歩いているので、十分に働いてくれた。靴底を眺めてみると、結構すり減って平らになっている。まもなく穴が開いて、水たまりの水がしみてくるようになる。理屈で言うと単純に滑って危ないし、もうちょっと早くに履くのをやめるべきだったんだろう。
足のサイズにもフィットして大変に良いというわけで、同じ靴をストックしてある。よろしく頼むやで二代目くん。…さて、三代目も用意するかという話になりますが…これは保留。初代くんの亡骸は、燃えるごみとして荼毘に付される。どうせ燃やしてしまうなら、分解して使えるものをいただけないか。例えば衣料品でもポケットの部分を切り取って収納に使うとかある。しかし、靴では…。結局捨てた。
昆虫くんが屋内に登場したときに、叩き潰すウェポンとしてはどうかと思ったんだけど、ここ数年はスリッパを導入したので足りている。手にはめて鍋掴み!持ちづらくて危ない。ソールの部分にしてもすり減ってボロボロだし、何かに使えそうって気にはならない。質の良いゴムではあるんだろうし、無理やりドアストッパーとかに使えるかな。机の角とかに貼って、怪我防止とか?
皆さんも靴の使い道など模索されては如何でしょうか。
-
「はりぼて」を観た
富山の新興ローカルテレビ局が、市議会のなんか不正を暴いてなんたら、というドキュメンタリー。取材してたら不正が続々出てきました~って話。内容はあらすじ通りというか、捏造された領収書がザクザクでてきて市議会議員たちの不正が発覚していく。ま、それだけと言ってしまえばそれだけ。もちろん、それだけで大問題だとは認識しております。
本作の映像って、本作品で初出なんだろうか。取材が続いていた期間にテレビ番組内でも流したと思うし、そう思われる場面も作中に見て取れる。事件から数年経過して今、なぜ映画という形になったんだろう?何か主張したいことがあったんだろうか。わざわざ(?)映画化して、タイトルを付けた。号して「はりぼて」と。言葉の意味自体は普遍的な物だ。じゃあ「はりぼてなのは何か?」って事になるんだろう。本作を観た印象だと、ちょっと捻くれると「市民の声」とかになったりする?
配信サイトのレビューには映像は三流なんて書かれていた。現場記者のドキュメンタリーなんだから、そんなもんだろうと考えていた。実際に観てみると想像内の映像だったけど、確かに少々わかりにくい感じがあった。最初のほうにあったナレーションが途中でどっかいってしまった…。「半年前」と画面に出た後に、いつ現代に戻ってきたのかわからなかったし、何度か映っている建物もなんだかわからないし。→ググったら富山市庁舎っぽい。キャスターが部長に「話いいですか?」って伺う場面の映像もなんだこれ?ってなる。テレビ局って、業務中のオフィス映像がストックされてるもんなの?最後には、「んでどうした?」みたいな疑問が残ったというか。う~ん🤔
報道とかで目にする、インタビュー中の画面に表示されている氏名と肩書。やっぱりこれがないと、いまいち話が入ってこないものだな、という実感があった。でも映画で画面に人物が出る度に、ふわふわ名前がくっついて浮かんでいるというのも、コレジャナイ感あるもんな。なんか不思議だ。俺は一体何を観たんだ。
-
「マイ・ウェイ」を読んだ
ドキュメンタルにのそっと参加していた。特に大きな見せ場もなかったあのハチミツ二郎ってオッサン誰だろう?そんなイメージの人も多いんだろう。かくいう自分も、その名前を久しぶりに耳にしたのは、自身の手術がうまくいかず「THE SECOND」の初戦が不戦敗に終わったというニュースだった。その後、「THE SECOND」にて対戦するはずだった金属バットとの埋め合わせ的なイベントが決定するも、自身の体調問題により延期となる。おいおい大丈夫かね。居ても立っても居られずに、本書を電子で手にする。
この…少し前。ハチミツ次郎の日記がnoteに公開されていた。コロナに感染以降、病状は悪化していること、離婚して娘と暮らしていること。日付にして1~2年ほど前のものだが、ずいぶんと細かく残されていて読みごたえがある。量もあるのでnoteの日記を読み切らないうちに、本書を読み始めることになった。「君バツイチらしいね?」「とっくにバツニだよ!」
大人は若い人間が好きだ。
モモ肉に臭みがないから年老いてからは若いころの(都合の良い部分だけの)思い出が色めき、年の離れた若い人との会話が若さの追体験みたいで、それだけで興味深い。話が合わないのが面白い。そう思う一方で、自分が若いころを振り返れば、さほど親しくもないのに親ほど年の離れた人物との会話なんて、めんどくせえと思った。軽くあしらうわけにもいかないが、慇懃無礼に応じるには腹立たしい場面だってある。流行りものの話になれば、おっさんの若い頃にも同じようなのが流行ったと”得意げ”に言いだす。これは実際にそうである事が多いんだけど、そりゃ若い時分にはなんでも新しいんだから、人類n度目の流行であっても実感するわけがない。子供の頃から、大きくなればわかると言われ、大人になったらおっさんになったらわかると言われる。人生って奥深いですねえ、なんて飲み込めるかどうかは…言われた相手に依るんだろう。子供の頃は架空のヒーローに、若者になれば何かこう憧れの人物に、その人生に、自分の理想を重ねてみるもんだ。そんな相手に言われれば、半分出まかせ半分コピペの人生訓だって、印象が違う。自分が実際にそんな風に煙たがられがちな歳になって、「若者は」「おっさんは」「おばはんは」という枕詞が、細やかな物語を艶やか全開下品の趣に塗りたくる事も、また霧中に掲げる傘の重さにお気持ちが押し黙る事も、そのロジックがよくわかるようになtt…わかるように――?どうかな。自分の人生には、そんな時に思い出して語らったりする味わい深い物語に乏しい。自分に憧れています!なんて人もおらんわのよさ。
若者に限らずとも、芸人や音楽家なんて存在は、彼ら自身の若いころの下積み物語に興味がわく。代替の人にとっては、少なくとも自分とは全く違った道を歩んでいると映るからだ。本書の内容も、昔からのハチミツ二郎ファンなら知っているような内容が多いのかもしれないけど、若き日のハチミツ二郎と他の芸人との思い出話なんかも豊富に綴られていて興味深い。そんな語りに、立川談志の名前が出てきた。また出てきたよ家元。M-1の審査員とかもやったから、漫才をの舞台に立つ芸人ならば、挨拶ぐらいしたことあるんだろうか。また家元は気まぐれな人という印象だ。若手と一席を共にして、おちょくって遊んだり、また逆にお墨付きを与えたりなんて事をやっていたんだろうか?それにしたってどこか認めるものが無ければ、わざわざ声をかけて誘ったりはせんだろう。そうしてお眼鏡にかなったのが、上岡龍太郎、ビートたけし、爆笑問題、東京ダイナマイト、おぎやはぎ、パックンマックンのパトリックのほう。
家元の話はおいといて。
当然と言ってはおかしいのかもしれないが…裏事情や揉め事も赤裸々に描かれている。キーとなる人物の名前が出なかったり、本書中で触れられる男性芸能人の名前が三●又●というふうに、素人目には全く皆目見当がつかない芸術的な伏字になっていたりする。いやあ誰なんだろう。本当の最後まで伏字のままの人物が実際誰の事だか気になってしょうがない。下衆である。知ったところで顔もわかるまい。裏話が面白いのはよくある話だけど、そこを求めて本書を買ってない、というテイを貫くつもりだったんだけどな。そして著者のプライベートも赤裸々に。そのへんについては、先にリンクしたnoteのほうが詳しいが、本書もnoteの内容に繋がるような激しくもしんみりとしたエピソード。
良く言われることに「人生は選択の連続」というのがある。自分の続けてきた選択がいわばマイ・ウェイとなる。陳腐な言い回しにしか聞こえないけど、誰の人生だってそういう見方で評価が可能だ。それは採点するという意味ではなく、検証というニュアンスでの評価。あの時は追い詰められていたとか選択が無かったとか、嘘偽りなくそうだったとしても、後で振り返ると別の道が発見されることもよくある。本当に選ぶべき選択肢はもうちょっと前にあった、とかね。
実際は何一つ巻き戻すことなんてできない。でも歳を取れば、若い頃と同じ課題にどこかでぶち当たる事がある。その課題の先に待っている屈辱も誉れもテヘペロも、2回目ならきっとマシな選択を取る事ができるんじゃないか。二度目のバツに備える。そんな憶測程度の目論見でも今後の希望にできるんだったら、振り返るのは他人の人生でも良いんじゃないか?それが人の世にいう物語ってやつじゃないか。文化とか社会性。では、誰の物語を選んで読むべきか。そう、ハチミツ二郎!!…そんなわけないよね。でもな、何十何百何億と物語を手に取ればその中のどこかには…人に届く物語がある。心に届くのではなく、こんにちの現実にお届けできる物語が、ある。
正直な話、若い人が本書を手に取る理由はあんまりない。でも、選択肢の多さが豊かさ、安らかさに繋がると考えるんだったら、こんな物語を読んでみても良いんじゃない?大人になればわかる物語を、ちょっとだけ背伸びして覗いてみるのだ。ハチミツ二郎があなたのヒーローじゃなくたっていい。貴方以外の人生もまた貴方だと感じることがあれば、道は増えていく。伸びて交わり、明かりが灯る。
…だからって小学生に読ませる本でもないけどね。やっぱ上京してきた若人とかが読むと良いとおもいま~。
-
めし短観:2023年9月
「ボンカレー MAX ジョロキア」を食った。正直に言って、あまりに辛くて美味しくはなかった。調べてみようと思っても、大塚食品の公式サイトに載ってない。パチモンか?確かに限定品とは書いてあるけど、どういう位置付けの商品なんだ?悪ふざけと言われても納得する辛さだった。二度と食うか!…と。わかってて買ったんだろって言われれば、その通り。こっちこそ悪ふざけ。このジョロキアについてググってみると、「成分が危険なので防護服を着て調理する」などといった情報があった。破滅。
オリーブオイルがお口に合わない。少し前に高いもの買って、きっと質が良いから風味が強いんだろう。全然だめだ。まだ瓶に半分以上残っているものをどうすっかと思案し、カレーなら大丈夫かなと思った。強烈な風味でオリーブオイルがかき消されるのではないかという目論見だ。オリーブオイルで人参玉ねぎを炒める。水を入れて、15分ぐらい茹で。カレールーを入れる。人参を切ってから思いついたので、いちょう切りだ。玉ねぎも薄切りだ。濃い目の野菜ジャワカレーが出来上がった。これを頂いてみると(´~`)モグモグなんとオリーブオイルが大生存している。カレーの強烈な塩味、香りを突き抜けてオリーブオイルの風味が口に残る。なんだこいつ。これはオリーブオイルが嫌いな食べ物になったかもしれない。BOSCOのやっすいのは今までもずっと平気だったけど、ちょっとお高いこいつは途端に厳しい。こと食い物に関しては、大人になってから嫌いな物が増えるばかりで参るね。
ラムネ飲んだ。ビー玉で栓してあるあれ。いつ以来だろうなと思うけど、どうせ3年ぐらい前に飲んでいるにきまっとるわそんなん。
味噌田楽を作った…と言っても、茹でたこんにゃくに味噌だれを付けて食うだけだ。味噌だれのレシピに従うと砂糖の量にドン引きする。毎回だな。酢の物とか、砂糖は減らして使っているけど今回はレシピ通りにやってみる。確かに美味いけど、半分にしてもよさそう。実際半分で作ってみると、さほど問題なかった。しかしながら、うまみが少ないと体感できるほどには、味は違う。
生姜のペペロンチーニ。確かに生姜だけど、ちょっとインパクトに欠けるか~残念。ペペロンチーニとペペロンチーノはどっちが正しいんですかね。
https://www.nisshin-seifun-welna.com/index/products/4902110263701.html
じゃがりこうま塩レモン。レモンの風味がちょっとある、ぐらい。じゃがりこも商品バリエーション限界なんじゃないすかねー。ジョロキアとかやってみる?
https://www.calbee.co.jp/jagarico/products/library/jagarico_salt-and-lemon
-
暦の上では
暦の上では秋ですね、という言い回しがあるけど、これが今後一致することあるんだろうか。本日は暦の上では秋ですが、なんと!現実世界でも秋になりました!うおおおお!!全員優勝!!
外に洗濯物を干したままなのを、風呂に入るときに気付く。服をもう一回着てから取り込むと、夜を吸い込んでじんめりといやな湿り気。自分が外に出ると干してあるのが見えて、そこでああ取り込むの忘れてるな、なんて気づくんだけど、外に出ないと視界に入らないから取り込むの忘れてしまうことが多々ある。雨戸を閉めていれば雨が降ったのかすらもわからない。
わたくし、てくてくと道を歩きまして、イベントホールから交差点一個ぐらいの公園で休憩していると、茂みや壁に向かって並んで立っている人の姿が目に付く。ああこれは、以前も見かけた、ネタ合わせというやつだ。もう日が暮れかけて、姿は良く見えない。これから本番なんだろうか、最後の練習と言ったところか。この場所でそんな姿を見かける事自体は何度かあったのだけど、この日は数が多かった。そうなると、遠慮がちに人のいない場所を選んでいた芸人たちも、増えるにつれ徐々に場所がなくなって、人のいるほうへ近づいてくる。ついに隣のベンチで漫才始まってしまった。聞こえないふりをするんだけど、聞こえてないわけない。面白くはなかった。こっちとしてはゆっくりしたかったところを、悪気はないとはいえ邪魔された形になるので、意地になってスマホの画面を見たまま居座るのであります。そのうち何か面白い事いわねえかな、ぐらいの期待もあった。
というところで気づいたんだけどこいつら酒臭い。なんだこれ。披露宴の余興の練習か?もし芸人だったらお前らに売れてほしくないなあ。だって嫌だろうそんなの。売れてほしくないあああああ、こいつらああああと強い思いを胸に抱きまして立腹。立秋やからもうええわ。
ムツカシイ書籍に挑戦しようのコーナー。1年に1回ぐらいはトライしたい。暦の上では三日で心が折れると言われておりますよ。前回その枠として採択したのは…「塗仏の宴」だろうか?長い物語だったが、面白かった。今回の候補は、「カラマーゾフの兄弟」あるいは「重力の虹」あたりを考えた。後者は難しい文学みたいなキーワードでググればすぐに出てくるぐらいの本命ではあるが、電子書籍が見当たらなかったので除外。そんな理由で弾いて良いのかと憤る読書家の諸氏もいるかもしんねーけど、令和5年であると認めたまへ。前者は電書があった。う~ん、これかなあ。しかし古い本ばっかり候補にあがる。新しい作品も読んでもいいよな。うーん。そうそうそ、ライトノベルってのも読んだことがない。ライト?ノリが軽いの?わからん。
もう一つの候補、「裸のランチ」も電子書籍が存在しなかった。あれれ。きっと電子書籍化するのにもそれなりにコストがかかるんだから、売れそうにないものは今後も電子書籍に出てこないんだろうか。いずれ世の中から消えてしまう?でも世の中には「自炊」している人がいると期待すれば、地球のどっかにはデータがありそうだが、自分の手に入らないのであれば、どこにもないと一緒だ。
そうであれば―――青空文庫を覗いてみると、ニコライ・ゴーゴリの「鼻」を見つけたのでなんとなく読んでみた。これは何かのパロディなのか風刺なのか…あまり面白くはなかった。
あれこれ言って、結局「文学部唯野教授」をkindleストアでぽちっと。筒井康隆は若い頃にブックオフでだいぶ買ったけど、これは読んだ事ない。…筈。「今夜、全てのバーで」の時みたいに、クライマックスで読んだことあると発覚するかもしれない。まあええか。覚えてないのであれば、どこにもないと一緒だ。
暦を数えるだけの理性あればこそ、季節を追いたて足が早まる。
まな板を買い替えた。