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「闇金ウシジマ君 27巻」と「鬼灯の冷徹 8巻」
こちら間もなく発売の「闇金ウシジマ君」最新刊をアマゾンで予約ぽちっと。
続きまして発売されたての「鬼灯の冷徹」もお買い上げぽちっと。店で買ったほうがはええわ、寄り道してくるか。
いやまー単純に面白いってことで読んでおります。前もどっかで書いたか、長い話がダメで。ストーリー把握するのが面倒くさい。小説、漫画。映画もやたら登場人物多いのダメだわ。漫画は読み返して把握するのが簡単だから助かるけどねー。映画もDVDだと戻せてよいけど、映画館だとそれもできないんで足が遠のく、というか15年以上いってない。家でいいわ。
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カップヌードルライト シリーズでダイエット
いちいち商品探して買うの面倒なのでここに並べた。いつでも買えるねうほほほい。いきなり何を言っているのか、というところだが、現状一番簡単で安いと思う。手軽でいいよ。ダイエットなんて大抵は「めんどうくさい」で続かないんだから。
これ、食べた分のカウントがしやすい。一食一個として、カロリー計算も簡単だ。お湯をだばばばと注げば良いし、食器を洗うこともない。問題は塩分が多いことだが、スープを残せばだいぶ軽減される。カップ形状なのでつい飲んでしまうのが性なんだよね。ほら飲み干せばあとは捨てるだけだし。そこで最近は先にスープを捨ててから食い始めるとかしてます。バリエーションで、麺の塊を一度取り出して湯通ししてからお湯を注ぐとかやってみたり・・・なんか違うだろって思うけどさ。
じゃあ、春雨を茹でればよくね?ってなるんだけど、あれ前の晩に茹でて一晩寝かすと、不味い。朝は忙しいのでぐつぐつ茹でたりはあまりしたくない。めんどうくさい!はあ。何も食わないのが正解なのはわかってますがね。
そして最高の手段である野菜もりもりは、お財布に厳しいです(´・ω・`)
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コートのボタンを付けるにも大騒ぎでありますね。他人の技量をお金で買ってボタンは復活致しました。これだから独り身は、なんていうところだけど、厚手のコートのボタンなんてご家庭の裁縫でさっくりとできるものなんかな。自分でも裁縫セット引っ張り出して試してはみたんだが、生地が厚くて針の出所がわからず大変怖い。やってみたけど、とてもボタンなど付けれる精度で往復できませんでした。それ以前に針が錆びてる。だめぽー。
雪の予報がありまして、想定よりかは少ない降雪量であったことに憤りを感じた人がいるらしい。はあ。良かったじゃないですか、雪が少なくて。予報が外れて怒るってなんだ、予言とか予知とか本気で信じている人たちか?大丈夫か。
いわんとすることは、大雪と聞いたからもろもろ備えたのが無駄になった、みたいな言い分だと想像できる。阿呆だ。震災後買いだめした非常食料のメンテもしてねえだろ。備えは大事だとか言ってなかったか?どうなの?「まあ大丈夫だろう、念のための避難も面倒だ」という人が津波で亡くなった方々の中にいたはずなんだよ。
それにしてもあの日。降りる人を通すため一旦電車の外に出たら、自分乗れなかった。みんな殺気立ちもするわな。一時間早く出る積もりで、一時間半早く起きて、外を見たら雪が降ってなかったので二度寝して普通の時間に起きて。飯食いながら運行を確認したら関東全域全線で七割程度の運転だってww 大急ぎで家を出て、もみくちゃもされつつ、まあ普通のように出社できた。まさに「備えるべし」であるな(´・ω・`)
何に備えるって「定時出社」に備えるってのが、ま、くだらないなーって思いますけどねええええ。苦言を言うにもこなしてからだぜ。
ははっ。
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牡丹雪の肩口に降りるを払うこと
三杯酢をきっちりとレシピどおりの分量で作ったら砂糖の量がパねえ。お酢で健康を目指すにも他のアプローチが良いようだ。つうかあれはコーラ以上に砂糖多くないだろうか。恐ろしいことです。
お裁縫スキルはまったく身につかないので、コートのボタンが取れると大事であります。そして面倒くさくて嫌になりますね。近代なんだからよう、もうちょと良い工夫があってもよくないかい、ボタン。ボタンがだめなら、って、ジップアップのコートは洒落おつカテゴリを着こなせる人じゃないとちょっとね。洒落おつじゃないジップアップはなんかな。あーダッフルコートにすりゃいいのかー。おっさんでございます、というスーツの時以外でもいけるものなー。いやいや、おっさんスーツにダッフルコートて。
まあファッショナブルなもんに縁がないですね、ということで。ボタンあけて着こなすのもこの樽体型じゃよーんっとによーーーーーー。
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盾で殴れば
身内の不幸もあり、一枚だけ届いた年賀状、当然のように当たらず。下二桁だけでもいいから掠れやあ。
最近詫びることが多い。自分の失態なら致し方ない。仲間や部下のためも仕方ない。ただ、これ以上のやりとりが面倒くさいから頭を下げる、これがよろしくないが、これで場を収めるのも人が積み上げた歴史、習慣であります。これでひとまずは済むというところが素晴らしいというか。海外でのトラブル対処マニュアルに「安易に謝罪しない」というのがあって、それは自分の過失を認めることになるからだと説明されますな。自分のほうが悪いですと表明してはいかんと。
日本においてとりあえず頭を下げる、というのは、ひとまずは害意のないことの「おおやけ」な表明であるわけなんですな、きっと。それを受けて、頭を下げられたほうとしても、「それはわかりました。」と許した上で、さらに今後どうするのか、という段階の話になるのだな。曖昧であり、巧妙でもあるように見える。いやいやわざとじゃないんですよ、という表明が効果があるというのは、「どこかで相手の過ちを許す」という発想、常識が伴っていないと成り立たないものだろう。そしてそこには、いつか自分が「そう」なったときも許してもらえる筈だという期待がある。社会に対する信頼というやつかと思う。この国にはそれがあると強く感じる場面がある。
「お互い様」である。人生はいつもトラブルの連続で、思うようにはいかないもの。あの人の姿が、いつかの私の姿。広く広く世界を見つめ、生きてゆきましょう。
などと。いうようなことを考えるとき、いつでも、いつだって911のテロが思い浮かぶ。もっともっと身近に、秋葉原の通り魔が思い浮かぶ。昨夜のアルジェリアの事件が、アメリカで恒例になってしまった銃のぶっぱなしが、思い浮かぶ。それですらお互い様であると思う。世の中が変われば俺だって、誰だって、銃を撃つ側になるんだろう。それが許してもらえるかはわからないけんどもね。
わかるでしょう?