-
季節の巡りをその身で認めずにはおれない輩の、
台風一過にゲリラ豪雨。
ここ数年と同じ味わいを振り撒きながらの夏、登場。蝉が鳴くとか入道雲とか、そういう風情とはちょっと違うのが昨今、やれダイヤが乱れて帰宅ラッシュを直撃しました、とか、XXX駅前水没wwwww(画像つき)とかそういう類の情報で夏の到来を認めることと相成る。こいつぁ新たな東京の夏ですか。江戸の自分には風鈴がりんこんりんこん鳴ったもんでえ…無くなっちまったなあおい。
と言うには無理がある。今までも夏を知らせた風情が、まだ完全に損なわれたりはしていない。例えば子供たちが夏休みに入り朝の出勤時に見かけなくなったり、となれば、電車が学生がいないぶん空いたり、または残業もないので早く帰ったら駅で降りてまだ明るい、八百屋の店頭に西瓜が並んでいるとか、洗濯物干してたら脹脛を蚊に食われたとか。あゝ夏だ。ただこう、そういう準備が為され、また着々と施行されていることよりも、もっと体感的な所に季節の変化を楽しむゆとりがあるわけで、やっぱ夏空だよなあと思う。過半数の人間はきっと昼間には屋根の下で働くのであり、空すら見えないことだってあろう。あっしですな。そんな人間がうへーーー夏ktkrとなるのは休みの日に見上げる空模様ですわ。今年はまだそんな休日が来ない。曇天曇天。
学生の頃のような長い夏休みも貰えなくなり、夏だからって会社の売り上げが伸びるわけでもなく、日の長さにも特にメリットがないし、夏の行事にもさほどご縁がありません。嬉しい事なんぞない筈なんだが、テンションの駆け上がること、緩やかなれどもお子様時分と相違なく、そのままに、アラフォーと成り果てた由、何卒よしなに。
こいつも夏っぽい雰囲気につられてお買い上げ、普通のビンだと思って酒を買ったら、届いたらなんと瓶の形状が三角柱であり冷蔵庫のドアストッカーに入らない。画像見れば何となく変な形かなとわかりそうだけど、買ったところはこの画像じゃなかったんよ。長靴みたいなデザインのもあったな、そういえば。しょがなし、ごろりと寝かせて放り込む。邪魔。トマトさんチーッス。内壁と瓶の間にトマトを載せて並べてみた。何かバイオハザードのボスでも産まれそうな眺めになり、いったん瓶をだす。ついでに味見。思ったよりレモンの風味がしない…甘ったるくないのは良いが、こいつはイマイチだったか。炭酸水で割っても物足りなさそう。
んじゃ何か作れるか、レシピを探してみようかと、探すと自家製でこれを作るレシピばっかり。自宅で酒を造るのって一応法に触れるんじゃなかったっけ。あゝでも、これは酒を材料にした料理と一緒か。何かを発酵させて酒にするのはマズイのだったか。レシピは凝ったものばかりで試す気にならない。
不動産から電話が来ておったまげた。木立の剪定でベランダに人が入る、というものだった。梯子でも掛けるのだろうか。ここ何年か手入れをしていた人を見かけなくなり、伸びるが儘だったのだが、だれか依頼したのであろう。果たして自分のおらぬ間にザクザクと木の枝が切り落とされたようで、大変に日当たりが良くなったが、当然ながら日中暑くなりそうだ。葦簀でも買うか。こういう昔ながらの実用工芸、兎に角質の悪いものがネットで売られている印象。ゴザは失敗だった。やはりホームセンターなりに足を運んで買って、届けてもらうのが一番よさそう。しかし冬の間もしまう場所がないし、捨てるときも面倒だろう。
コロッケ蕎麦。喬太郎師匠の落語、の枕、のアレがあまりに有名である。乾麺の蕎麦を買ったので、コロッケ蕎麦作って食おうとしたがコロッケ忘れてしまった。安い冷凍食品のコロッケこそが本寸法と紹介されているが、ここは贅沢に美味いコロッケを買ってこよう。麺は安く、ツユは安く、コロッケは高級品でいこう。しかしこの街、日本の日常食卓のお総菜がイマイチ充実してねえんだよなあ。駅ビルになんか洒落乙なサラダとか量り売りしてるテナントあるけどさあ。ヒジキと大豆の煮ものとかポテトサラダとか山盛りで買って帰りてえ。この際だから出かけて買ってくるか、そう遠くないところに超有名店のサトウがあったのでありました。あまりに行列でこの十何年近場にいるのに買い物したことなかった。メンチカツ蕎麦でもいいよな…ううむ。
台風の時にしまい忘れた風鈴がどっかに行ってしまった。しかし今回の台風、史上最強と言われたものの、東京到着時点ではそこまでの風雨ではなかった。ならば風に飛ばされたとは思えない。どこいった。あの風鈴、そもそもどうしてぶら下げることになったのか全く覚えていないがここ数年ぶら下がったままだったかと思う。風に揺られて、というよりは自分が洗濯物を取り込む時に触って鳴っていた気がする。
新しい風鈴を買おう。青い空を背景に、風鈴がぶら下がった様を想像すると、この冬に備えなく雪に埋もれた街をまた思い出す。夏が終われば、今度はどこかにしまおう。そのための箱も用意しよう。何の思い入れもない風鈴を、人生の輩とすること、世界はそれを愛と呼ぶようです。
-
かつお
先日の非常食アップデートというついでに違うメーカーのツナ缶を買い、やはりはごろもが美味いか、などとはごろものパッケージを見たら、かつお油漬けフレークとあって目が点になったのち飛び出た。シェー。たしかにパッケージにはシーチキンと記載されていて、「ツナ」でははない。ならば、かつおでも問題ないのかもしれない。一方のメーカーにはまぐろと書いてあった。
一部商品だけのようだ。こうなるとまぐろとかつお、食べ比べても違いが判らないのではないか、などと思ってしまうが、冷静に考えるとそんんんなに違いもないなこれ。刺身で食べ比べればどっちがまぐろかわかりそうなもんだけども、火を通した状態ではさてどうだろう。などと調べていたら回収騒ぎがあったらしい。すでに食べてしまったのは対象ではなさそうだ。非常食はこういうところも気を付けないとダメか。
-
炊事場にて生命の惨禍にまみえること
毎年。夏ともなれば水回りの衛生には他の季節以上に気を遣う、という世間の常識がどうにも疎かになる。疎かにしたままでは当然ながらそれなりの事態が発生するわけで、コバエが沸いてしまった。物陰に野菜くずが落ちている、などという理由で発生したりするのだろうけど、一度掃除をし、コバエ取りのトラップを仕掛けて片付いたかに見えたが、再発生してしまって難儀している。もう梅雨も明けていくというに。
こまめに繰り返し対処すれば減っては行くだろう、そうこうするうちに居なくなった。お掃除の上にまたお掃除。憎むべき哉人生。これが面倒で夏場は自炊頻度が下がる。暑くてことことと野菜スープを作る気にもならないし、そもそも食材も冬に比べて傷みやすい。冷たくても美味しいものを作り置きしておくというのが冷蔵庫が普及した世界の知恵ではあろうが、生憎そこもそんな豪勢な冷蔵庫ではございませんでー。とはいえ、何か覚えておいて損はないな。冷凍庫を開けたらズブロッカが入っていた。
コショウは何をお使いか、少し前までゴリゴリと回して振りかける奴をつかっていたん。あれ、確かに大変に良い香りがする優れものなんだけど、あの蓋が一切外れない。捨てる時に分別できず、蓋ごとビンとして捨てた。そういう作りも今時どうなのか。
ツナ缶を買ってきて、玉ねぎとキャベツのサラダにどばどばとかけて食うのが美味い、ふと、賞味期限を見て非常用バッグにツナ缶入ってるの思い出した。取り出して賞味期限チェックすると、半年ほど過ぎている。これは即ち、非常用バッグを一年ぐらいはメンテしていないということだ。どんな惨禍も忘れてしまう。買ってきたのはバッグに入れて、出したほうを食べた。体調に異常はない。そういわれれば勤務地の備蓄もチェックしていない。
コバエトラップには十数匹は捕獲されていた。それが4つほど。憎しみを込めて燃えるゴミへ、六畳一間の我が家では蚊取線香のスイッチがはいり、虫を殺める、そこに慈悲の心がなかったと言います。
-
毎度おなじみ流浪の
なんだかきっちり週に一回しか書いていないな。もうちょっとこう、書こうと思ってはいるのだけど、前回の投稿も慌てて書いている感が溢れており、自分で読み返してもいまいち言わんとすることがわからない。んまー許してタモレ。
タモリがお昼の番組をやめてどうしているかと。思った通りに呑気な暮らしをしているとの情報が散見される。趣味のヨットに明け暮れて海にばかりいるだとか、お家で料理を作っては知人(やっぱりタレント稼業の人ばかりなのかね)に振る舞っているだとか。うん。しかしタモリの趣味と言えば、jazzがガチなもんだと思うけど、そこらはどうなんだろう。あと、鉄道だよ鉄道。なんどタモリ倶楽部で鉄道企画を見たことか。いまでもテレビの仕事自体は続けているので三週間で日本全国を乗りまわるだなんてすぐにはできないだろうけども、本人は絶対やりたい筈。ある日地方の秘境駅で目撃されるなんてことがあるかもしれない。サングラス外すともうタモリだとわからないかもしれないが。
あとは筒井康隆あたりと面白い事やらないかなあ。…あるいはもう?当然テレビ番組なども関わらないプライベートで、やっているのかもしれない。筒井康隆のエッセイで、身体障碍者をホステスに集めたバーの話というネタがストックされていると書いてあった。発表される機会はあるまい、と本人も書いてはいたが、ここにきて盟友タモリに時間の余裕ができた、よしやってみよう、なんて…ならんだろうか。
もう自分の知っているタレントも若いのは少なくなっているわけ。YOUとか50歳になろうとしているし、鳥肌実も自身のネタの「42歳厄年」を越えたらしい。なぎら健壱も62?63?ぐらいかー。林明日香はまだ流石に25歳ぐらいだった。デビューが中学生ぐらいだったからな。あゝ人選に脈絡がない。高校の時の先生は、もう50を超えるのだなあ。
歳を取らない人間はいないし、若いころにはどうしても老けるということが嫌だったけど、それも肯定というか、軽々と受け入れざるを得ないものだということが今ならわかる。わかる、というか特に気にもしなくなったというのが正直なところだ。考えれば20になった時もなんにも特別な感情はなかった。酒もたばこもやらなかったし、なにが投票じゃボケとか思ってたし。それ以降、特に年齢がどうこうなんて機会は人生にはないものだなあと思う。選挙にでも出るなら25歳からだっけ。
ということは、10歳ぐらいサバ読んでも怒られることもないんだろうか。ばれるばれないは別にして、年齢なんて適当なもんだ。俺が26歳になったら困る、という人はいないだろう。かかりつけの医者ぐらいか。よし、次の誕生日には年齢を変えよう。
数えで100257888453233歳になりました!
-
オートメーションは電気オタマジャクシの夢を見るか
納豆に餃子のたれをかけてしまったとかコインランドリー行ってきたとかそういうのも下書きにあったけどたまには自分の人生に背を向けて似つかわしくない薀蓄にてご機嫌を伺います。
こんぴーたーの利点のメイン。処理の自動化、継続化の永続性。適当に言ったけどまあそんなもん。人間の耳が認識できる音の数には絶対に限界がある。周波数…だっけ、の上限と下限。音量の上限と下限。音程の認識は大体の人がいっしょだと思う。音程が半音上がるということを殆どの人は認識できる。時間進行に連動?して変化するそれが、音楽のもと、みたいなもんである。適当に言ったけどまあそんなもん。
さて、音の組み合わせであるところの音楽、いつまでも組み合わせを生成し続けるコンピューターに作業させ続けたらどうなるか。組み合わせは完結するだろうか。人間の聞き取れる領域のすべての音に、長さ音程強弱を付けましてー、組み合わせて組み合わせて…。おそらく何時かはパターンを網羅するだろうけども、それこそ「五劫の擦り切れ」つうやつで、その終了を確認する見込みはなかろう…。見積もりすら立つまいに。
すでにこのテーマに関連するようなプロジェクトが実行されている。ジョン・ケージの曲を639年かかけて演奏するというもの。この教会にオルガンが設置されてから639年後に演奏が始まるということで、終わりも639年後になっているようで。
News – John-Cage-Orgelprojekt Halberstadt
音楽には演奏というフェーズがあった。「コンピュータの音楽自動生成」と聞いて、みんなその生成した曲がコンピューターから鳴るところまで想像したに違いないのだけれども、この639年の曲みたいに、実際にはもっと複雑な要素があるらしい。残響音の具合が違うとか言い出したりしてね。
音楽のコンプリートはやはり想像以上に難しいようだ。しかしある程度のところで加算的な見通しができたら、ひとつ想像していることがある。サルのシェークスピア。知ってるかね。サルにランダムにキーボードを叩かせたら、シェークスピアの作品が出来上がる、というやつ。主に確率のたとえで、そのぐらい低い確率であることをしめすエピソード?である。ここで、先の音楽生成の例を加えたい。コンピューターに音楽を作らせたらそれが鳥肌実の演説に一致する確率である。とか。