アンソニー・ボーデイン氏の訃報

お気に入りの書籍に、「キッチン・コンフィデンシャル」がある。めんどくせえ人生の困難に、ゴリゴリと立ち向かっていく印象だった。ああ、細かい内容はもう覚えていない。若い男の、人生のモチベーションっつうやつ?読み直そう。

No Reservationsもとても面白い。世界を旅して飯を食う。単にうめえ店で食って終わり、じゃなく、ちゃんと「会話」があったり、放映向けの「冒険」があったりする。そこいらの露店で現地のシェフと飯を食う。なんならご家庭にお邪魔する。また一方で、高級店にも訪れる。たしか東京ではすきやばし次郎に行っていたような記憶がある。日本人だって訪れないまま死ぬ人が殆どのお店じゃねえか。チキショー。

残念なことに、ホテルの自室で首を吊って自殺したそうだ。この手の訃報が届くたびに、人は、他人の心の中まではわからないものだ、と噛みしめる事になる。ご冥福。

迷いない日々

非常用リュックを整理すると、賞味期限が三日ほど過ぎたマヨネーズが出てきた。ま…まあこれをすぐ使っても健康上に問題ないのは間違いない…はず…。これでは非常用の備えとはし難いので、新しいのを買ってきて交換する(A) ここに都合三本のマヨネーズがあるというのは私の人生において初の位相となる。では、まずその賞味期限の切れたマヨネーズ(B)を使ってしまおうと思えども、三本目たる既に現在使いかけのが一本(C)あって、さてどちらを先に消費するかという問題ですが、先に使いかけのもの(C)を使い切る選択をし、無事使い切った現在その賞味期限切れマヨネーズ(B)の発掘から実に一カ月とちょっとが経過。見た目に異変はないが果たして口に入れて平気かと。マヨネーズなんてそんな急激に減らないからなあ。まあポテトサラダでも作ればよかったんだけども。

ポ テ ト サ ラ (D) !!

2年ぐらい作ってないかもしれない。うーん、良くない食品だ。しかし頭の中のイメージがイメージをうをういいううじょい。賞味期限が一カ月すぎたマヨネーズ(B)はこれで消費してしまうことにする。勿論事前に調べた。インターネットにその知恵を求めたところ、たぶん食っても大丈夫だとゆーことだ。では、調子に乗ってがっつりつくってモリモリ食うことにする。一気に消費してしまえ。祭りだ祭りだ。それでも一応、食材を買いに行く前に、一口ペロッと舐めてみる(B) 味に異変はない。びびって、小一時間ほど家で様子を見て、体調は問題なさそう。深く深呼吸。

まあそこまでして食うなという話。

ポテトサラダは下手すれば一日分のカロリーを一食で取るので危険だ。素人が適当に作ったポテトサラダなんて時間たつと美味しくないし、美味そうな湯気が漂っているうちに、食っちゃえーとなる。温もりの残っているうちなら本当に美味いんだ。さて材料。玉ねぎは家にあった。スライスし、水につけて材料を買いに行く。おなかの調子もだいじょうぶだ。きゅうり、じゃがいも、人参(買ったのに入れるの忘れた)卵、かまぼこ、ついでにその他もお買い上げしまして帰宅。

きゅうりをスライスし、塩振ってしばし放置。卵を5つほどホクホクに茹でて、剥いておく。かまぼこスライス。玉ねぎも水からあげて、塩振ってもみもみ。強く握って絞る。しんなりしたきゅうりは超全力で握って絞る。うおおおお。じゃがもを鍋に入るだけ入れて水差して30分ぐらい茹でる。茹で上がったら指先を水で冷やしながら素手にて皮剥きの気合、元の鍋に戻してマヨネーズ(B)ぶっかけながら潰す。ゆで卵をぶっこんで狂乱しながらしゃもじで突き崩し、キュウリ玉ねぎかまぼこを投入。錯乱しつつ撹拌して、塩胡椒を強めに効かせて鍋から直接、だいどこで立ったままハフハフ食う。マヨネーズ(B)が常温だからハフハフで食える。ちなみにジャガイモは中サイズ6つ。若いころは全部食えたけど、老いましたね、たったまま半分ぐらいまで減らして一旦休憩。流石に器に移して続きを食う。また小一時間の休憩して、完食。兎に角満腹になった。

鍋の周りに飛び散ったゆで卵などを掃除し、賞味期限の切れたマヨネーズはまだ残り半分。流石にもうマヨいなく捨てた。このテンションの上がりようはどうしたことか、一緒にあたりめでも買ってくればチューブ一つのマヨネーズを一日で消費した可能性まである。ねえよ。

桜が散るに任せた、花見にもいかないある美しい休日でございました―――。などと〆まで書いていたら、お披露目するにあたってもう梅雨が間近ということです。マヨネーズ(A)を次に交換するときには、またポテトサラダを食いましょう。

「手紙は憶えている」を観た

ネタバレです。

こういうのサスペンスっていうのか?分りやすい筋立てで、最後にどんでん返しってやつ。どんでん返しは簡潔にサクッと見事に刺さる。ただ、映画のストーリーの根底にある物語は、我々日本人も”当事者”でありながら思う所は希薄である。国民性なのかね。もうそんなことは忘れてしまえ、というやつ…?そんな歴史的背景への理解がないと楽しめない作品というわけでもないけど、時折出てくるキーワードから連想されるものに具体性がないと、映画のストーリーを追っても???ってなるかもね。人物のモチベーションが想像できないと言いますか。

そして、アメリカに銃が無くならないのは、映画に登場するアイテムとして便利だからなんじゃ、とすら思える簡単なエンディング。見せ場が終わったからにはさっさと〆ましょうという感じ、個人的には嫌いじゃない。何かお話に余韻があるわけでもねえしな。

ところでこの筋立ては、少し前に見た作品、「Memento」に似ている。日常的な記憶を失ってしまう人物が、何かを頼りに毎回記憶を取り戻していく。そろそろ、これらと同じ役割をスマホで果たす映画を…っていまさら作っても、もう新鮮味ないんだろうなあ、おそらく。

なんか簡素で薄い感想文だけど、その最後のどんでん返しがきっちり決まっているので、まあまあ面白かったです。

「夢」を観た

一応ネタバレですよ。

世界のクロサワ的な映像作品ですが、過去に見た記憶があります。どれかなーっとシークバーを探っていくと、2番目のエピソードで御座いました。その他のエピソードは初見の筈でしたが、映画の作風的にもじっくり見入るようなもんとも思われず、ぼんやーーりと観ておりました。見せ場はまた祭りということで良いのでしょうか。最後のエピソードは実にぐっとくるものでした。美しく映える映像で、自分は案外こういうの大好きなのかもしれねえ。

ゴッホ役の人、マーティンスコセッシって書いてあってたまげた。ちょっと前に彼が撮った「沈黙」もamazonのプライムビデオにあったな。プライムは無料の対象外だったけど、GWに見ておけばよかったか。原作たる遠藤周作の小説は十年以上も前に読んだはずなんだが、流石に細かい中身は覚えていない。小説とかの場面場面を覚えていられる人ってどういう頭してるんだ。

しかし不思議なことに、夢なら自分もえげつないものを見ている。いまだに覚えているものもある。そういうものを書き留めてネットに公開などをしておりましたが、すでに手元にもなく。結構グロい感じのものが多かった筈だ。狙ってそういうのを書いたもんだ。けけけ。黒澤の見たという夢はどこまでこの作品に近いのだろう。原子力発電所が~~なんて夢に見るのか。そこは流石にうさんくせえわww

で、提供:スチーブン・スピルバーグ要素はどこ?絵の世界を人物が歩く、とかその辺の発想か?お面取ったらユダヤ人だったりすんのか(暴言)

栗城史多氏の死亡の知らせに関して

そりゃそーですよね。

彼の活動には多くの専門家が疑問を抱き、ついには野次馬からはプロの下山家とまで揶揄されてしまった。批判されるに値するような活動だったのだろうか。そういう情報はネットを探るにいくらでも出てくる。結局はまた無謀なんだか自棄なんだかという挑戦の最中に亡くなってしまった。亡くなってしまえば…というのも引っかかる言い回しだけども、まずはご冥福と手を合わせるしかない。

素直に言って、なんかこう、美談になって欲しくないんだよね。寧ろ周りに彼を止める人は居なかったのかって思う。強くそれではダメだと言うような人が…。子供じゃないんだから本人がやると言えばやるんだろう。そりゃそうなんだろうけど。

彼の活動歴はwikipediaにも、彼の活動い疑問を持つ人たちの間でも情報はまとめられている。挑戦は多いが失敗も多い。単独だとか無酸素だとか仰々しい宣伝文句も、誇張に満ちている。死亡を確認したのも現地シェルパだという。最後まで単独云々は嘘でしたって事になってしまうの?なんだろう…納得できない。挑戦したいならすれば良いじゃないか。なんでうそつき呼ばわりされるような設定までして挑むんだ?そうでもしないとスポンサーはつかないものなんだろうか。あるいはスポンサーがそういう”方針”を決めているとしたら、そのスポンサーは無責任でいられるか?

ここまでが、「そりゃそーですよね。」という感想の根拠。彼について、何度か挑戦すればいつかは、というレベルではなかったようにしか読めないんだよね。もしかしてチャーリー・ゼレノフみたいな人なんじゃないかと思ってしまうんだ。(自分の別ブログで書いた記事)

大きな目標に挑戦し続ける事は素晴らしいと世間は言います。そうでしょう。何事か成し遂げることが出来ることもあるでしょう。でも、資格というか、超えるべき壁を超えて進んできたという積み重ねが要るもんだとおもう。そんな壁を超えると、あるいは壁を超えることが出来ずに諦めかけた時、鍛錬とか経験という言葉では説明できない何か一つの、感情のようなものを得ることがある。

栗城氏は自分を見つめただろうか。冷静に現状を分析したのだろうか。良くわからないけど次こそ行けそうだ、なんて毎回気軽に思っていただけなんだろうか。自分はそういう、兎に角挑戦の数を重ねようという心構えが、良いものだとは思えない。トレーニングだというならそれで良いのかもしれないけどね。

彼の心境など彼でしか知り得ないものだし、どうこう論じようもないけど、どうしても想像してしまう。どうやら今度こそ命が危ないという時に、「何で無酸素とか言っちゃったんだろうなー」なんて後悔してなかっただろうか。「もっとトレーニングしておけばなー」とか。「あの人のいう事聞いておくべきだったなー」とか。