ふでのゆくまま

栗城史多氏の死亡の知らせに関して

そりゃそーですよね。

彼の活動には多くの専門家が疑問を抱き、ついには野次馬からはプロの下山家とまで揶揄されてしまった。批判されるに値するような活動だったのだろうか。そういう情報はネットを探るにいくらでも出てくる。結局はまた無謀なんだか自棄なんだかという挑戦の最中に亡くなってしまった。亡くなってしまえば…というのも引っかかる言い回しだけども、まずはご冥福と手を合わせるしかない。

素直に言って、なんかこう、美談になって欲しくないんだよね。寧ろ周りに彼を止める人は居なかったのかって思う。強くそれではダメだと言うような人が…。子供じゃないんだから本人がやると言えばやるんだろう。そりゃそうなんだろうけど。

彼の活動歴はwikipediaにも、彼の活動い疑問を持つ人たちの間でも情報はまとめられている。挑戦は多いが失敗も多い。単独だとか無酸素だとか仰々しい宣伝文句も、誇張に満ちている。死亡を確認したのも現地シェルパだという。最後まで単独云々は嘘でしたって事になってしまうの?なんだろう…納得できない。挑戦したいならすれば良いじゃないか。なんでうそつき呼ばわりされるような設定までして挑むんだ?そうでもしないとスポンサーはつかないものなんだろうか。あるいはスポンサーがそういう”方針”を決めているとしたら、そのスポンサーは無責任でいられるか?

ここまでが、「そりゃそーですよね。」という感想の根拠。彼について、何度か挑戦すればいつかは、というレベルではなかったようにしか読めないんだよね。もしかしてチャーリー・ゼレノフみたいな人なんじゃないかと思ってしまうんだ。(自分の別ブログで書いた記事)

大きな目標に挑戦し続ける事は素晴らしいと世間は言います。そうでしょう。何事か成し遂げることが出来ることもあるでしょう。でも、資格というか、超えるべき壁を超えて進んできたという積み重ねが要るもんだとおもう。そんな壁を超えると、あるいは壁を超えることが出来ずに諦めかけた時、鍛錬とか経験という言葉では説明できない何か一つの、感情のようなものを得ることがある。

栗城氏は自分を見つめただろうか。冷静に現状を分析したのだろうか。良くわからないけど次こそ行けそうだ、なんて毎回気軽に思っていただけなんだろうか。自分はそういう、兎に角挑戦の数を重ねようという心構えが、良いものだとは思えない。トレーニングだというならそれで良いのかもしれないけどね。

彼の心境など彼でしか知り得ないものだし、どうこう論じようもないけど、どうしても想像してしまう。どうやら今度こそ命が危ないという時に、「何で無酸素とか言っちゃったんだろうなー」なんて後悔してなかっただろうか。「もっとトレーニングしておけばなー」とか。「あの人のいう事聞いておくべきだったなー」とか。

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