ふでのゆくまま

なんなら一週間で終わるとすれば

自分以外には全く意味はないが、当人には非常に重要な節目というものが存在する。

自分にも日付が近付いている。何かを為しえたとかそういうのではないし、自分ひとりの事柄なのでまあ仮に明日事故に巻き込まれてどうにか生きながらえてそこらのベッドの上でその日を迎えるような事になっても別に変わりはなく、その日付がやってくる。このイベントをクリアするための条件はひとつ、生きていること、もう一つは今の生活が続いていること。

この日付がいつかやってくるだろう、ということは20になる前から気付いてはいたんだけど、実際にこの日が近づいてきていることに対して。まずは不安がある。この日をこういう状態で迎えるということは、この日が来ると気付いた当初、想定していない。はっきりとこんな筈ではなかった状態の人生、タイムマシンに乗っかり当時に戻り、2014年の夏をこのように過ごしていますと伝えたら自害してしまうかもしれない。あゝがっかりだよ。実際は最初に死んでしまおうか、なんて考えたのは20も過ぎてからだった。死ぬには遅い。

おっさんになると若いころの過ちを酷く後悔するものらしい、ということは実際、思い当たる節があった。そのテの話を実際に目の前で聞くような機会も一度や二度ではなかった。へー、などと言いながらも上の空で聞いていたことが多いと思う。笑い話というでもなく、身に染みる教訓という訳でも…いや、そうだったのもしれないが自分の心には響かず、「んじゃそろそろ…」などと誰かが口にすればなかったことになってしまうような、他愛もない話の一つとして、それらおじさま、おばさまのトークはどこかに消えて行ってしまった。

そして今ではそのような話をする側の年齢になった、ということは20になる前には気付かなかった摂理。さて、自分は何を話すだろうか。他の人に語るべき言葉として、どのようなものを繰り出すことができるだろうか。そもそも話したいのだろうか。惨めな思いでいる日々を、自嘲して救われるということはあるだろう。きっとあの時こうしていれば、こんな事にはならなかったよね、そうだよねそうだよねと語りたいような気分がは自分にはないし、訓示がましく若き方々へ語る事もない。

地蔵になりたい。外来語でいうと、ライ麦畑で捕まえたい。(しかしあの本はつまらなかった、途中で放り出してしまったので読んでない)

線分の長さを等分する。長さを二で割る方法と、長さを二倍する方法がある。18年前に今から二倍と計った日がやってくる。食い物の好み、変化なし。音楽の好み、変化あり。体重が紆余曲折を経て増えているのがヤバイ。人格形成における格調、成長なし。知性、落伍。品格、下衆。逮捕歴、なし。

目を覆いたくなるような経過だけが手元に残った。これを語るに面白味がなく、綴るに味わいがない。緻密な記録でもあれば、例え道端の自販機の写真でも人々を畏怖させるに足る、さすればわてくしの本日の情報、ここに記すが、もがり。

眠い。

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