盾で殴れば
身内の不幸もあり、一枚だけ届いた年賀状、当然のように当たらず。下二桁だけでもいいから掠れやあ。
最近詫びることが多い。自分の失態なら致し方ない。仲間や部下のためも仕方ない。ただ、これ以上のやりとりが面倒くさいから頭を下げる、これがよろしくないが、これで場を収めるのも人が積み上げた歴史、習慣であります。これでひとまずは済むというところが素晴らしいというか。海外でのトラブル対処マニュアルに「安易に謝罪しない」というのがあって、それは自分の過失を認めることになるからだと説明されますな。自分のほうが悪いですと表明してはいかんと。
日本においてとりあえず頭を下げる、というのは、ひとまずは害意のないことの「おおやけ」な表明であるわけなんですな、きっと。それを受けて、頭を下げられたほうとしても、「それはわかりました。」と許した上で、さらに今後どうするのか、という段階の話になるのだな。曖昧であり、巧妙でもあるように見える。いやいやわざとじゃないんですよ、という表明が効果があるというのは、「どこかで相手の過ちを許す」という発想、常識が伴っていないと成り立たないものだろう。そしてそこには、いつか自分が「そう」なったときも許してもらえる筈だという期待がある。社会に対する信頼というやつかと思う。この国にはそれがあると強く感じる場面がある。
「お互い様」である。人生はいつもトラブルの連続で、思うようにはいかないもの。あの人の姿が、いつかの私の姿。広く広く世界を見つめ、生きてゆきましょう。
などと。いうようなことを考えるとき、いつでも、いつだって911のテロが思い浮かぶ。もっともっと身近に、秋葉原の通り魔が思い浮かぶ。昨夜のアルジェリアの事件が、アメリカで恒例になってしまった銃のぶっぱなしが、思い浮かぶ。それですらお互い様であると思う。世の中が変われば俺だって、誰だって、銃を撃つ側になるんだろう。それが許してもらえるかはわからないけんどもね。
わかるでしょう?