• どくしょかんそうぶん

    「マイノリティ・リポート」を観た

    面白いじゃん!毎度適当に書いているのでタイトルを原題にするのかカタカナ書きにするのかすら覚えがない。以下ネタバレ要素あるかもしれないけど15年前の映画だしよいですよね

    普通の近未来SFでありますね。公開が2002年なので、スマホは作中に登場しませんが、変なジェットパックで空を飛んでくんずほぐれつアクションシーンがあったりします。SF映画でしか味わえない混沌なのかもね、この辺は。製作者、あるいはまあ、世間一般の人も入れて?未来をこんな風に、なんとなくこうなるだろうと予見していた世界。

    この作品も予見が一つのキーなんだけど、つまりは管理システムの完全性がどうとかいう…またこれですか、というテーマ。ジュラシックパークもそんなじゃなかったっけ?2001年のテロ騒ぎからそう時間が経過しておらず、当時の政治的方針である国民管理体制強化への問いかけを含んでいる、とwikipediaには書いてあったがどーだか。この作品(というか原作?)のタイトルからも「切り捨てられる少数に真実が含まれるということもあり得るのですぞ」という、ぬか漬けの底に沈んでそうなほどに飽き飽き飽きする毎度の指摘が為されている…と理解する。多数決と少数意見みたいな場面では現実世界でこのテーマを放り込んでも「そりゃそうだねそういうこともありますね」でプリっと放り出されて終わってしまうもんです。それを便利に思って映画でも何回も使いまわされているんじゃないかとすら思う。結論が出なくても現実世界どおりですので、と言えるし、映画であるからにはHuh?みたいな結論でも良いんです。

    ところで、一番印象深いシーンは、街中の広告が個人に話しかけてくる場面だった。街頭の”ポスター”がこの前買ったXXXはどうたった?なんて話しかけてくる。今でも似たようなことはブラウザやアプリの中だけではあるが、起こっている。いろんなサイトがグレーゾーンのまま放置されているしきたりに沿って個人向けの広告を表示している。2002年時点にもこのような広告配信はあったかな?インターネットはもりもりやっていた筈だが覚えてない。

    この、覚えていないというのが怖いんだろう。今は実に露骨にamazonで探したものがfacebookの広告に出てくるなあ、なんて普通の事として受け止めてしまっている。そんな分りやすい場面ではなくて、もっともっとこう、絶妙なところで自分のリポートが活用されているとすれば、覚えなどなくて当然なんだ。考えてみれば不思議だ。なんで2002年のSFが僕のウォッチリストにあるんだ!?あっ。怖い。トム・クルーズのファンでもスティーブン・スピルバーグのファンでもねえぞ。アッアッ怖い。

    まあAmazonプライムで無料になったのを適当に放り込んでいるだけなのだが、これでこの人はこういう作品を好む傾向がある、なんて分析が始まってしまう。再生してすぐにやめたのはどの作品か、飛ばしながら最後まで観たのはどれだ、二回観たのはどれだ、次にこいつが金を払ってまで観る作品を並べておこうなんてな。このユーザーはレコメンドを断る傾向があるからほげほげ、なんてぐらいの手の込んだ仕掛け、実際に導入されているのではないかと個人的には思う。商品広告の話を充実させてもなんかアレかな。

    もう一つ、ストーリーのキモである預言の玉がなんかちゃちいのも面白い。ぐるぐるとウォータースライダーみたいなものを通って出てくる。普通にぼとっと落ちれば良いじゃねえかwなんて思った。玉には木目があるから偽装が難しいみたいな説明場面が作中にあったと思うが、この辺も今なら多分偽造可能なんではないかなあ。

    「貴方はこの選択肢の中からこの商品を選ぶでしょう」という話から、「あなたはXX日XX時に人を殺すでしょう」というレベルに至るまでにはまだ隔たりがあると思われる。レベルの問題か?しかしどこかで実現に向けた努力がなされているんじゃないのかな。だってどう防ぐんだよ?

    どうしましょうか。

    どうしましょうか。

    どうしましょうか。

    オウムは別かもしれないけど、その他は数分前に、なんなら作中みたいに数秒前にでも身柄を抑えれば何事もなかったようななるだろう…。しかし事のあらましを把握してからそんなことに思索を巡らせてもなあ。結局は予知なんて本当にできる余地があるのか、という所に帰結するように見える。渾身のジョーク。よしんば本当にできたとしても、ある日突然に警察署のほうから来た人に連れ去られて死ぬまで自由がないという世界を受け入れるもんだろうか。受け入れる人はどのぐらいか、という算出ももはやAmazonさんやgoogle先生の仕事であり、真実は雲の中といったところか…。

    誰だって自分はそんなことをしないと思って生きている。この発想はマジョリティよねきっと。

  • どくしょかんそうぶん

    「たとえる技術」を読んだんだけど

    えーと…これは…大喜利でしょうか…。ネタ本なのかも判別がつかなかったので、たぶんタイトルは釣りですテヘペロみたいな?

    いろんな感情や行動を表現する言葉に、その程度を伝えるべく「たとえる」という方法を使いましょう、という体裁だと思うんだけども、さすが上手い事いうなあ、みたいに感心できる部分がほぼなかった。編集方針なのかもしれないけど、「~~~のように」だけで進めたからこんななんかアレな感じになったんでは。せめて本当に技術的なトピックでもあれば読んで面白いのかも知れなかったと言えなくもない感じがなくもなかったとおもえなくもないこともないのだが。

  • ふでのゆくまま

    湯さ

    風呂上りに、髪を乾かさないで外を歩くと、なんかひんやりして心地よい。歩くと言っても、お散歩するとかではなく、一番近い自販機で冷たいものでも買う、ぐらいの意味。これは夏にはさほど意味がなく、真冬でも心地良いには良いのだけどやや憚られ、春にはイマイチ風情がないと意味不明な帰結により秋の愉しみとなる。秋も夜。月のころはさらなり。ふふん、とか鼻息荒く格好つけているが、すれ違った人は気付けばギョッとするかもしれない。夜更けにすれ違う人などご近所の人ばかりである。いとはづかし。

    どこかから犬の鳴き声がする。遠吠えではなかった。きっと小型の屋内犬だろう。キャンキャンと短い鳴き声がややくぐもって数度聞こえてきた。

    これはとても珍しいことだ。一人暮らし向けアパートの多いここらでは、まあ犬を飼っている人などまずおらず、一軒家のお住いを通りかかってもまず飼っていない。とはいえ、朝の出勤時には毎日のようにリードに繋がれてお散歩中の犬を見かけるからには、近所と言える範囲のどこぞで飼われてはいる筈なのだが、その鳴き声を耳にすることは殆どない。

    今年は寝入るときに鈴虫やコオロギの声をあまり楽しめなかった気がする。声自体は確かにしたんだ。どうも全体的なボリューム不足感を覚えたが、数が減っただろうか。考えてみれば鳴いている個体を実際に見た事はない。あそこの草むらに居るんだろう?って思いこんでいるけど、実際は違うかもしれない。なんなら本物ではなく、誰かが雰囲気を出すためにスピーカを置いて、他所で録音した音源を再生しているかもしれない。

    犬の声だって誰かがVR犬とかと戯れていたのかもしれない。本物っぽさに溺れたくて、外まで聞こえるように音を出したかもしれない。犬を飼うのは難しいからねえ。同じく温泉に足を運ぶなど不可能であるからには、髪を濡らして体脂肪を火照らせ、のしのしとお出かけして秘湯の帰りと称す、火星の明るい夜。湯船殴ったらうっかり本物出ねえかな。しかし出たら大変に困るなあ。弱った弱った。

  • ふでのゆくまま

    amazon字はAWS

    ドライヤーを買い替えた。

    家電量販店では女性向けの美容品など売り場の片隅に並んでおり、このようなむさ苦しいおっさんが一人近づくのには勇気がいる。呂布にでもなったつもりで威圧感もりもりで堂々と陳列棚に歩み寄る必要があるのだ。ムムム、なんだよ一万円て。ドライヤーだろ?解せぬ。おい。陳宮はどこだ。陳宮を呼ばぬか。

    知力1のおっさんには美容は分らないのでありました。無事に3000円ほどの商品を見つけ、これでよかろうとお買い上げ。全額ポイントでドン。お家で試運転、まあ大丈夫ということで、古いほうを燃えないゴミとしてまとめて収集場所へ。ちょうど本日出せるからという他に、急ぎの理由があった。使っているとたまに停止するし、熱風が冷風になったり様子がおかしいのだ。あろうことか、電源ケーブルが異様に発熱している。

    さて、たった今捨てたドライヤーは何年使っているだろうか。ドライヤーを買った具体的な記憶などない。相当の年数使っていたのではないか。ここでいつものようにAmazonさんに購入履歴をあたる。使い始めがちょうどスーツ仕事に転職したころと重なるので、ここの履歴に無ければもう相当に古くから使っていた品ということになる。

    すると、捨てた品とは別のドライヤーが2010年の購入履歴にヒットする。げえっ。たった今捨てたのがこれだろうか…?しかし見た目がだいぶ異なる。別物であろう…となれば、今捨てたのはいつ買ったんだ。そしてこの購入履歴にヒットした商品はいつ捨てたのだ。

    確かに、つい今しがた捨てたものより一回り小ぶりに見える購入履歴にヒットしたドライヤーを使った記憶自体はなんとなく、ある。小さい分、動作音がうるさかったように思う…。処分した記憶はない。こいつを処分したからこそ、今しがた捨てたドライヤーが代わりに手元にあったのだ。そうじゃなきゃあおかしい。だって二つ同時に持つ意味がないもの…。

    便利なものですね、司馬遷を呼んだら答えが出まし。2010年の購入履歴にヒットしたドライヤーは、買って程なく急に壊れたのであった。その後慌てて買ったものが、さっき捨てられた商品という事になる。実働およそ八年か。どうせ数千円のものだったろうし、この働きは十分じゃないか。お疲れさんした。ところで…このドライヤー壊れたエントリの冒頭を読むと、今動いている洗濯機も買ってから九年になろうとしているわけだ。そろそろヤバイじゃないか。

    この歳にもなって、一人暮らし用の家電を見繕っている時には実に素直に暗い気持ちになる。さらに今年の冬には布団がないということであるが、それはまた次の機会に。ほれ陳宮、Amazonを呼ばぬかっ。